2018年4月29日日曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート19 (明治38年)

北の丸公園
*
明治38年
前田卓と漱石にとって大きな転機の年
漱石は1月に『吾輩は猫である』初回分を発表し、作家としての道を歩き始めた。
卓は秋口までには上京して、中国同盟会で働くことになった。
どちらも長年自分のうちに潜めていた、本質的な願望にそった生き方を始めた。

そしてこの年、その転機を迎えた2人が再会したかもしれない可能性がある。

『婦人倶楽部』(昭和3年2月号)の中に、「私が東京に移ってからもわざわざお訪ね下さいましたが、その後もずっと懇意にして頂いておりました」という卓の言葉がある。
大正5年には利鎌ともども再会し「懇意にして頂いて」いた事実があるが、上京直後に再会した、それも漱石の方から訪ねて来たと語っている。
卓がそのことを語っているのはこのインタビューだけで、それ以外ではいっさい口にしていない。この発言は、漱石との恋を書きたてた記事の中で、カギカッコ付きで引用された卓の唯一の言葉にふくまれている。この言葉は、「小説はどこまでも小説で、草枕のお那美さんはやっぱり那美さん、私は私です。そんな古い話を持ち出されては困ります」という、いかにも記者の質問を遮るような、卓の強い口調で始まっている。
卓と那美をかさね、漱石が当時、彼女を恋慕していたと書きたてようと、あれこれしつこく質問する記者に対し、今なお懇意にして頂いている状況こそ、小説と現実はちがう証しではないかと、卓はぴしゃりと語った。そしてその中で思わず、「私が東京に移ってからもわざわざお訪ね下さいました」と言ってしまった。

では、なぜ他のインタビューではそのことを語らなかったのか。
卓の直接の発言を伝えるのは、この昭利3年の『婦人倶楽部』(2月号)と、同7年の『婦人世界』(9月号)、同10年10月発売の岩波版『漱石全集』第4巻「月報」の三つだけである。それらの中で、峠の茶屋のことなど『草枕』に関する卓の証言はほとんど同じで、違っているのは、この上京直後の再会のことだけ。『婦人倶楽部』でつい語ってしまったことについて、その後は口を閉ざしてしまった。
その理由は、「月報」のインタビュアーが森田草平であり、『婦人世界』の「草枕のヒロイン - 那美さんを訪ふの記」という記事は松岡譲の熊本訪問についてのエッセーに付属するものであるという、どちらも漱石関係者の中での談話であることだろうと推測できる。上京直後の再会は漱石関係者に対し秘すべきこと、と卓は思った。「月報」では、わざわざ「わたくしは上京して、山川さん(信次郎氏)にはお手紙を差し上げましたが、先生の方へは御遠慮申して、まだ御通知もいたしませんでした」とまで断っている。

明治38年に漱石が卓を訪ねたかもしれないと考える理由(1)
『一夜』(38年7月26日脱稿、9月1日刊、髯のある男、丸顔の男、黒髪の女が織りなす濃密な一夜を描いた短編)の中での当時作った漢詩の引用や、描かれた部屋のたたずまいなどに熊本時代の思い出が漂っている。
一方、卓は6月16日に離婚し、7月中旬か下旬には東京にいた可能性がある。
卓は、山川信次郎に上京のことを知らせた。漱石は山川からそのことを聞いて、小天でのことを思い出す。『一夜』には、その思いの中で一気に書き上げた勢いがある。
「一体小説でも新体詩でもいやにしつこい、あぶらこい奴が流行するのは時節柄胃嚢へ納りきれません」(明治38年7月17日付、若杉三郎宛)と書くように、俳句的な小説を書きたいという願いもあった。そして、書き上げたあと、会ってみたいという思いがつのったということはあり得るのではないか。卓が「わざわざ訪ねて下さいました」と語る再会は7月下旬から8月初めごろ。そして、相変わらずしゃきしゃきした卓に出会い、漱石は『草枕』へと構想を深めていく。

理由(2)
漱石にとって卓は懐かしい思い出の人というだけでなく、精神的に共通するものを感じていたと思える。
那美は生きがたい世の中で闘う人として登場し、画工はそこに惹かれる。
『猫』で始まったこの年の漱石はその闘う人であった。漱石はその闘いの最中にあって、同じような気性をもつ卓が身近にいることを知る。会いたくなるのは、さほど不自然ではない。2人は一種の似たもの同士だ。

彼はまっすぐな気性の持ち主であった(『漱石全集』別巻にある漱石についての談話など)。

「若い時から数学が良く出来、英語も頗る堪能で頭が緻密であった。其頃から正しい事一点張りで、理に合わぬ事は少しも受け付けないという性質で、友人からも尊敬されていた〔略〕一体が世の中に阿(おもね)らぬ性格で、今頃の文学者には珍しい。〔略〕意地っ張りで、親切で、義理堅くて、手軽に約束をしない代わりには一旦引き受けたらば聞違えぬという美点もあった。」(予備門以来の友人、中村是公)

「夏目君は幼時より嘘言を吐いたことがなかった。〔略〕若(もし)、余儀なき事故ありで約束を違えることなど起こりし時は、平素の剛情に似ず、自ら非情に恥じて、後日幾回となく弁訴をなし、相手の満足するまで気に掛けて止まなかった。」(小学時代からの幼なじみ、篠本二郎)

「君なあ、僕の親友に夏目という才物があるが、どうも本人に野心がないのに困るんだ。執着心が頓とないのでなあ。今熊本の学校から英国へ留学ささ(ママ)れているが、英文学では日本に二人とあるまい、俳句を作っても超然として他の群と趣を異にしている。〔略〕確かに一方の雄であるが、惜しいことには本人に野心というものがないんで困る。」 (正岡子規の言葉を、その弟子赤木格堂が書いた)

義弟の中根倫は、明治36、7年に神経衰弱がひどくなったときのことなどを紹介し、「そんな中にあって、僕は二度程義兄さんに感服したことがある」、どんなに神経症を昂進させていても欲得はなく誠意の人であったとして、できることとできないことを判断する理性的な漱石に、感服している。

卓は理性的というよりは感情的だったし、やや粘液質な漱石に対し、あっさり、さっぱり型だったが、その根に流れる、正義感、一途な純粋さ、世間体や野心から遠かったことなど、似たもの同士だった。そうした正義感が、卓の場合は自由や平等への強い憧れとなり、漱石のい場合は自由と平等と友愛を歌ったホイットマンなどへの共感となっていた。2人は相寄る魂だった。

再会は一度きりだったのか?
上村希美雄「『草枕』の歴史的背景」で述べている気になるエピソード(九二四郎の息子の妻花枝の母ツルが語ったとされる)。
「東京が大雪の日、卓子がお握りを作ってよそから帰る漱石を東京駅に迎えに行き、帝国ホテルで一夜を明かした」というものだ。「雪のため鎌倉の方へ行く汽車が不通」だったためらしい。「こんな嬉しいことはなかったと、あの気丈な人〔卓〕が泣いて喜んどったもんね」とツルは花枝に話したという。もしこれが事実なら、2人は上京直後に再会しただけでなく、その後、幾分か親密な交際をしたことになる。

しかし、この「大雪の日」を特定する材料はない。列車が止まるほどの大雪の記録はなく、当時、漱石が鎌倉方面へ帰らなければならないという状況はなく、本郷区駒込町千駄木に自宅へは東京駅から歩けない距離でもない。

では、ツルか花枝の作り話、あるいは卓の妄想だろうか。
そうともいえないように思える。ツルは、小天時代に卓の下働きをした人で、身内とはまたちがった気安さから、誰にも語らなかったことをー度だけもらした話のようにも考えられる。けれども、伝聞の伝聞で花枝の記憶ちがいや勘違いもふくまれているだろう。雪の日ではなかったのかもしれないし、おにぎりも帝国ホテルでの一夜もなかったかもしれない。
ただ、明治38年8月17日、東京は降雨量が「一〇六・八mm」とされる豪雨にみまわれている。「大雪」ではなく「大雨」のこの日、卓と漱石は会ったのかもしれない。
その7日前の8月10日付の野間眞綱宛のはがきに、漱石は小唄のような詩を書いている。「これは下手だ。君の方がうまい。あれを仕舞までお書きなさい」と添え書きしたその「下手な」詩・・・。

雨になろかと 君待つ宵は
雨ともならで ほととぎす
君しまさずば 寝たものを
あの暁の ほととぎす

そして、もし「大雨の日」があったとしても、2人の逢瀬はこの日かぎりになった。中国同盟会がその直後に発足し、卓は革命家たちとともに多忙の日を送ることになる。大正5年に再び再会したとき、「それでは一つ『草枕』も書き直さなければならぬかな」と漱石が語ったのは、それらの日々を詳しくは知らなかったことを示している。漱石もこの頃から旺盛に創作に邁進する。

(つづく)




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