2018年4月15日日曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート17 (明治38年)

北の丸公園
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明治38年
孫文、宮崎滔天、中国革命同盟会
明治38年7月、欧米を廻った孫文は日本に来て、豊多摩郡内藤新宿番集町(現新宿区新宿五丁目)の宮崎滔天の家に身をひそめた。
7月19日、宋教仁はその家を訪れて滔天に会い、28日には孫文が滔天と共に彼を訪ねる。
同じ頃、黄興が、滔天と末永節(玄洋社社員)の仲介で孫文に会っている(孫文と黄輿はその前に中国人留学生の仲介で出会っているという説もある)。
辛亥革命をリードした孫文、黄興、宋教仁の3人が日本で滔天らを軸に手を握った。もう1人の指導者章炳麟は少し遅れて来日する。

そして7月30日、彼らを中心に約70人が集まり、大同団結した組織を作るための話し合い(「中国(革命)同盟会」準備会)が、赤坂区桧町三番地の内田良平の自宅兼黒龍会事務所で開催された。当局の目をそらすため、「革命」の文字は入れずに「中国同盟会」と称することを申し合わせた。

次いで8月13日、宋教仁が中国人留学生を組織し、「留学生の孫文歓迎会」を飯田橋河岸の富士見楼で開催。午後1時の開催時間に600~700人もの留学生がつめかけ、さらに押しかける留学生が後を絶たず、警備の警官と押し合いへし合うありさまだった。警視庁発表によれば留学生1,100人が集まった。孫文の演説は、1時から4時頃まで続けられ、その後、滔天や末永節らも来賓として演説した。

そして8月20日、「中国同盟会」成立大会。
地方に分散していた会派が、初めて大同団結した。中心になったのは、孫文の「興中会」、黄興・宋教仁の「華興会」、章炳麟や蔡元培らの「光復会」である。会場は、赤坂霊南の衆議院議員坂本珍弥宅。各省の代表者約100人が集まり、議論をかさねて章程(規約)と役員をとり決めた。孫文が総理、黄興が庶務部長、宋教仁は司法部員に選ばれた。大会では宋教仁が発行していた『二十世紀の支那』を機関誌にすることなどが決められた。
ところが『二十世紀の支那』は、8月27日に発禁処分となり、『民報』と名前を改めて11月から発行することになる。

卓の登場
「中国同盟会」機関誌『民報』編集所は、牛込区新小川町二丁目八番地の民報社に置かれた(現、新宿区新小川町、飯田橋の東京厚生年金病院の道をはさんだ向かい側あたり)。卓(37歳)はこの民報社に住み込んだ。
編集室の正面には、「平等居」と書いた額が掲げられていた。保阪正康『仁あり儀あり、心は天下にあり』では「孫文直筆」としているが、上村希美雄や、当時滔天の家に同居していた滔天の甥築地宣雄は、黄興の書としている。この家を見つけたのが黄興で、初めは自分自身が住み、「平等居」という門札を掲げていたという(上村希美雄『宮崎兄弟伝 アジア編中』)。

卓が住み込んだ正確な日付は不明だが、宋教仁の日記などに他の女性の名前が出てこないことをみれば、民報社発足とほぼ同時と推測できる。6月に離婚して間もなく上京したとすれば、ちょうど同盟会結成の頃になる。

そして、ここに集まる革命家や中国人留学生たちの食事や身の回りの世話をする「民報のおばさん」になっていった。毎月5日発行の『民報』は、アメリカやシンガポール、中国本土にも秘かに持ち込まれた。発行部数は半年で1万部超とされる。その編集や発送作業などで、民報社には大勢の亡命革命家や留学生が集まった。卓は、2~3人の下女を指揮し、彼らの世話をした。

卓は、編集部の中心にいた宋教仁の日記にたびたび登場する。日記は、宋が黄興らとの蜂起に失敗し、日本に亡命することになる1904年(明治37年)10月30日~1907年(同40年)4月8日の2年半分が残っている(途中中断あり)。

宋教仁は、一八八二年湖南省桃源県の生まれ。代々「秀才」を排出した地主の家柄で、彼自身も院試に合格して「秀才」となったが科挙試験には応じず、革命家の道を歩んだ。一九〇四年十二月十三日に東京に来るとたちまち日本語を習得し、通訳や翻訳をするまでになったというから、語学の才能にあふれた頭脳明晰な青年であった。亡命での来日だったが、偽名で官費留学生の資格を得ていた。法政や早稲田大学に通い、熱心に日本の新聞を読んで情勢を分析し、中国の歴史や西洋の政治体制の研究に打ち込んでいることが日記からも伺える。単なる学究肌ではなく、学び貯えた豊かな政治的知識を、革命とその後の政治体制に具体化する戦略家でもあった。

宋教仁;
20代前半の若さながら同盟会のでもとびきりの理論派で、煙たがられ孤立することも多かったが、孫文や黄興から信頼され、とりわけ黄興の右腕として活動する。辛亥革命後、中華民国で政党政治の共和体制を実現するために、憲法や各種の法制度の整備と民衆の啓蒙に打ち込んだ。自ら国民党を組織し、1913年2月の中国史上初の国会選挙で圧倒的に勝利したが、選挙結果として内閣総理になる直前の3月20日、共和体制を圧殺し自ら皇帝になろうとした袁世凱によって暗殺された。まだ30歳だった。

(つづく)



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