2018年4月12日木曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート16 (明治30年~38年)

皇居東御苑
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前田卓と中国革命との関わり
明治30年
宮崎滔天と孫文の出会い
滔天と孫文の出会いは、明治30年(1897年)9月初旬の頃とされる。
その2年前、孫文は初来日し、その際、滔天の兄弥蔵と出会っていた。弥蔵は、滔天に先立って中国革命に傾倒し、弁髪にして横浜の中国人商社に住み込むほど情熱を傾け、滔天をその道に導いた。弥蔵はその志を貫くことなく、翌明治29年に没するが、滔天は兄から孫文の人物像を聞かされていた。また、滔天自身が30年7、8月に中国に渡って香港の革命家たちと交流する中で、孫文が中国革命を担う中心人物であると認識した。帰国後、滔天は8月に来日していた横浜の孫文のもとにかけつけた。2人はたちまち意気投合し、筆談と英語で長時間話し合った。孫文の革命に対する情熱と思想の深さ、人間としての大きさに、滔天は圧倒された。
「孫逸仙の如きは、実にすでに天真の境に近きものなり。彼、何ぞその思想の高尚なる、彼、何ぞその識見の卓抜なる、彼、何ぞその抱負の遠大なる、しかして彼、何ぞその情念の切実なる」 (宮崎滔天『三十三年の夢』)とすっかり心酔している。滔天は、きっそく孫文を、犬養毅に紹介。そのつてで、孫文の東京居住が許可された。そしてその年11月、孫文を熊本の荒尾に招き家族ぐるみの交流を始める。
その後さまざまな紆余曲折、中村弥六の武器調達資金着服事件などがあっても、滔天は孫文のかたわらにあり続けた。数多くの日本人支援者の中でも最も心許す人であり続けたのは、孫文もまた滔天の人間的な魅力に引かれていたからだろう。

明治35年
宮崎滔天、桃中軒雲右衛門に入門し、桃中軒牛右衛門となる
この転身には三つの理由があった。
第一は、他人に寄食することを止め、働いて収入を得ようとしたこと。第二は、その語り芸によって、大衆に革命思想を広めようとしたこと。第三は、ある事件による挫折感から、いったん中国革命運動の表舞台から離れようとしたことで、この理由が最も大きかった。
それは、孫文が用意した5万円余りの武器調達資金を、滔天を通して渡され、調達を任された中村弥六が着服した事件である。明治33年(1900年)10月、孫文の命を受けた鄭士良が広東省恵州で蜂起し、厦門まで進軍した。このとき台湾にいた孫文は、その武器をすぐに中国に送れと滔天にダ打電する。ところが前年に調達されていたはずの武器は無かった。他の事情も重なってこの武装蜂起は挫折したが、武器を用意できなかった自分たちの失策は、滔天にとって大きな心の傷になった。
事件は『萬朝報』にも書きたてられ公に知られることになり、滔天は内田良平らに激しく責められた。世間には、滔天自身の着服の噂も流れた。
この事件によって滔天は自分の無力さを自覚し、浪曲によって収入を得ながら、大衆を啓蒙しようとした。

しかし、浪曲は少しも収入にならず、家計負担は相変わらず槌が背負った。師匠の分まで含め興行の赤字負担を、たびたび背負った。桃中軒雲右衛門と初めての巡業に出た35年7月、巡業費用として滔天は槌に200円(米価換算で今の約630万円)を出させた。日々の暮らしにも事欠いていた槌は、その金を前田家の財産分与から捻出した。
前田家の崩壊が、滔天の浪曲師としての活動や中国革命の活動に大きく寄与することになったということである。

そして、槌が自分の財産分与分を提供しただけでなく、卓や九二四郎らも全てを投げ打って中国革命の活動に参加しゆくことになる。

明治37年
前田卓の3度目の結婚
明治37年4月4日、卓は熊本第六師団の少佐加藤錬太郎と3度目の結婚をする。民権活動家に失望した彼女は、自分の中に流れる武人の血を信じようとしたのか、この年7月に亡くなる老いた父案山子を安心させようとしたのか。いずれにしろ、彼女はまだ一人で生きていくことを決めかねていた。
そしてやはり1年後に離婚する。晩年を共に暮らした弟九二四郎の息子の妻花枝の証言によると、「三度目の夫も酔って芸者を家に連れて来たり、腕力を振るいたがる男だった」。同じことの繰り返し、卓は、とうとう思い描いた男、思い描いた結婚にめぐりあえなかった。

明治38年3月
妹の槌が子供たちとともに上京して夫滔天と家族そろって一つ家に住むようになる。結婚して13年後だった。

明治38年6月
卓の離婚と上京
明治38年6月、卓は3度目の結婚を解消、間もなく上京し中国の革命家達と関わっていく。
当初は「養老院にでも入って、手頼りないお年寄りのお世話でもしようと存じました」(『漱石全集』月報)と思っての上京だった。しかし、この年8月20日、孫文ら中国革命家と中国人留学生らにより「中国革命同盟会」(略称;中国同盟会)が東京で設立され、義弟宮崎滔天の勧めにより卓はその本拠地「民報社」に住み込み、革命家たちの世話をする「民報のおばさん」になっていく。
この年は、漱石が小説を書き始めた転機の年であったが、卓の転機の年でもあった。

(つづく)




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