2018年11月4日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その27)「2日夜9時半頃本所方面よりの避難者と称する鮮人1名〔略〕青年団追跡して池袋駅側に於てこれを捕え群衆のために殴殺されたり」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その26)「・・・「昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をしばって並べて置いて槌でなぐり殺したんですよ」 「その屍体は?」 「川の中や、焼けている中へ捨てました」 その後道端に、蜂の巣のようにつつかれた屍体を見た。・・・」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;千代田区/麹町・番町〉
金鐘在〔麹町で被災、四谷駅わき外濠土手に避難〕
9月2日から3日にかけて、散発的に新聞の号外が出された。これらの中には、「本所深川方面に住む朝鮮人が放火して捕まった」とか、「上野松坂屋は、朝鮮人の投げた爆弾で爆破された」「横浜に住む朝鮮人集団が帝都襲撃に向かって行進中」、あるいは「どこそこの地方に住む朝鮮人が住民の井戸水に毒薬を入れて歩き警察に摘発された」「社会主義者の一団が某警察署を襲撃した」など、ありもしないデマを、でかでかと報道するものがあった。私の記憶ではとくに、時事新報や国民新聞などの号外にひどいものがあったように思う。
(金鐘在述・玉城素編『渡日韓国人一代』図書出版社、1978年)

氏名不詳〔芝愛宕住人。英国大使館のある電車道路の電車内で避難生活〕
翌朝〔2日〕自宅の方か家人の避難した芝へ行くつもりで出かけますと、途中で巡査さんが、危険だから4、5日動くなといって下さいましたので、又もとの電車内にもどり、2、3人の婦人連れといっしょに6日まで車内におりました。のんきだとおっしゃるのですか。そうではありませんが、外へうかうか出ると〇〇〇に暴行されるとか殺されるとか云う噂ですから、お連れのあるのを幸に静かになるまで待っていたのです。
(定村青萍『大正の大地震大火災遭難百話』多田屋書店、1923年)

神田麹町錦町警察署
9月2日午後6時、警視庁に応援の為、本署員の日比谷公園に出動するや、鮮人暴動の流言熾(しきり)に行われ、避難者はいずれもこれに惑いて危惧の念を生ずるに至れり、即ち依命鮮人の収容と検束とに努力せしが、3日箇内に於ても、鮮人が井水に毒物を撒布するの疑ありとて動揺甚しく、遂に4日に至りて佐柄木町21番地先なる撒水用井水を飲みたる同町金子榮次郎等5名はこれが為に吐瀉せしかば、大学病院に送りて救護するとともに井水を検査したれども異状を見ず、けだしその心理作用に因りしならん、この日一ツ橋付近を徘徊せる鮮人申衡鐘なる者の挙動不審なるを認めて取調ぶるに、「結義序文」と記載せる物を携帯せるを以て、不取敢これを警視庁に送致せり。かくて流言の伝播漸く広く、民衆は自警団を組織し、兇器を取りて警戒するに至りし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;豊島区〉
李鐘応
〔雑司ケ谷の螢雪寮で〕翌日〔2日〕の1時前、食堂に昼飯を食べに行こうとすると、朝鮮人を手当たりしだいに殺しているといううわさが聞こえてきました。それで私達は一歩も外に出ることもできず部屋の中にとじこもっていました。
夜になりあまりむし暑いので家の前にゴザをしきそこでみな寝ることにしました。真夜中になって20〜30名の自警団が手に手にトビや日本刀等を持って「朝鮮人やっちまえ!」といって飛びかかってきました。丁度そこには隣組の青年団長である佐々木某がいて、「この人達は学生でみな真面目な人だから殺してはいけない」といって私達をかばってくれました。
こうして押問答をしているうちに武装した兵隊がトラックでやってきて、自警団を押しのけ私達をトラックにのせ巣鴨の刑務所に送り込みました。私達は全部で21、2名いました。私達全員は一列にならばされ、剣付鉄砲をもった兵隊が一人一人厳重にとりしらべました。銃殺するための点検のように思われ気が遠くなりました。しかしどうしたわけか翌3日またトラックに乗せられて螢雪寮に送り返されました。
何日かたって朝鮮人虐殺のニュースが続々と伝わってきました。本所の深川、亀戸で大量に虐殺され、月島等でもむごたらしく殺されました。
(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)

上田貞次郎〔経営学者。目白で被災〕
〔2日〕上り屋敷の交番から不逞鮮人が放火をするからとの注意が来て夜は上り屋敷会員総出で警戒することになり、余は若林氏と共に門前に番をすることになった。夜半以後は川合に代らせることにしたが、この夜警は6日まで続けた。
(上田正一『上田貞次郎伝』泰文館、1980年)

内田良平〔政治活動家〕
2日夜9時半頃本所方面よりの避難者と称する鮮人1名〔略〕青年団追跡して池袋駅側に於てこれを捕え群衆のために殴殺されたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
〈1100の証言;豊島区〉
加藤一夫〔詩人。自宅で被災〕
〔巣鴨宮仲で〕9月2日 この調子では市民の暴動が起らないとも限らない。
起こればもう主義者は片っぱしから殺される。だから今のうち姿をかくしたらいいと告げに来てくれる。〔略〕鮮人が放火をするとか、井戸に毒薬を入れると云う噂が立つ。市民は殺気立つ。今夜から市民の夜警が初められる。朝鮮人が放火しようとしていたので、たたき殺した。と云っている。乱暴者は殺してもいいと、直ぐ青年団の人らしいのがふれて来る。夜警に出ている人達が時々ワーツと騒ぎだてる。
〔略〕9月3日 自分は小石川原町の島中〔雄三〕君のところを見に行く。自警団の物々しい警戒に驚く。”不逞鮮人の放火””火事は鮮人と社会主義者との放火”等の貼出しがある。島中君の番地がわからなかったので抜刀の男がついて来る。〔略〕夜寝ているとドヤドヤと人がやって来た。”誰だ”ときくと、”警察だ”と答える。あけてやると、検束だと云う。十名ばかり来ている。”何で検束だ。鮮人の事でか””まあそうだ”雪がとび出して来て、女や子供や病人ばかりで困ると云うと、誰かいるだろうと云う。”いない””では見せろ”見せてやる。誰もいないのに安心して、検束しないで帰る。
〔略〕9月5日 多分大家のした事らしい、竹槍その他の兇器を持った青年団が20人ばかり事務所を襲って来たそうだ。〔石黒鋭一郎に面会に午後巣鴨警察へ行くと〕”君も戒厳令撤廃まで検束だ”と森という高等主任が云う。冗談だと思って”冗談云っちや困るよ”と云う。だがどうしても聞かない。そのうち盗棒(ママ)刑事がひっぱたくぞと云う。仕方なく来いというところに行く。警察の中庭だ。鮮人その他が一ばいになっている。〔略。刑事が〕拳骨の雨。じぶんはそこへたおれ打たれ蹴られて止む時を知らない。勝手にしろと大の字になってやる。やっとで起き上がったとき、あまりに悔しくて、つい”覚えていやがれ”と云う。再びまた打たれ初め、倒され、蹴らる。”殺してしまえ””戒厳令の功き目を知れ”そのうち主任が盗棒刑事をとめたがさかない。主任が怒ってやっとのことでやめます。〔略〕留置場に行くと、官房がぎっしりいっぱいにつまっている。怪我してウンウンうなっているものがある。”さあ銃殺だ”と呼び出しをうけているものがある。さすがに寂として声がない。戒厳令が長びくだろう。その間に食糧が行き渡ればいいが、それがもし不可能だったら。水は途だえている。電燈がつかないとすれば、掠奪が初(ママ)まるかもしれない。暴動が起るかもしれない。そしてその時は?その時こそ、我らはただ無法の制裁を受けて、人知れず殺される事だろう。〔略〕自分のそばにいた男が(彼は何でも電柱の工夫だという事だった)”私達はやられるでしょうか。社会主義者は皆殺されるんでしょうね”と云う。顔だけ知っている男が”随分やられましたね。よく殺されなかったものです”と云う。〔その後、東京を去ることを条件に6日昼頃釈放される〕
〔略〕散髪に出かけたが、やってくれない。すぐ後で、”社会主義者が”と青年団のものらしいのがつけて来る。
(自由人叢書②』「自由人」別巻「震災日記」、緑蔭書房、1994年)
〈1100の証言;豊島区〉
志賀義雄〔政治家。池袋で被災〕
2日の夕方になって、一人のかすりを着たた男がやってきて、京浜の方では朝鮮人が井戸に毒を入れ、放火略奪をやっているので、大騒ぎになっている、やがて池袋方面にもそれがくるであろう、とふれ歩いた。それでたちまち自警団が組織されることになった。
(ドキュメント志賀義雄編集委員会編『ドキュメント志賀義雄』五月書房、1988年)

富塚清〔機械工学者。航空研究所で被災、3時間かけて大塚駅近くの巣鴨宮仲の自宅へ〕
〔2日〕その夕方、大塚あたりにも、鮮人暴挙のうわさが流れてきた。妻が、これで、おろおろしている。私などはこれでも、いくらか批判力があるから、「それは恐らくうそだぞ、鮮人が何人いるか、そんなことを手びろくやれる筈があるものか。おちつけおちつけ」というが、妻は中々承知しない。奥さん方は大抵似たもの。寄り集まっておろおろ。しかし、さすがに山ノ手の私の住むあたりでは、日本刀をふりまわして、通りがかりの人をおどす様な光景には、一つもぶつからなかったのである。
4日。朝鮮人さわざが、嘘ということ、次第に知れてくる。
〔略〕6日。夜の鮮人警戒は大塚あたりでは停止となる。
〔略〕8日。郷里〔九十九里沿岸〕から、兄が、米五升をひっさげて、遥々やってきた。実家では、全然被害なし。先日も、東京周辺まで一度きたが、その時は鮮人さわぎで、とうとう市内に足をふみ入れられず戻ったという。そのとき日本刀で首を切る実景を見、その残虐に一驚した由。
(富塚清『明治生れのわが生い立 - 明治・大正時代の見聞録』私家版、1911年)

野川芳子
〔2日、巣鴨で〕誰か井戸に毒物を入れるといううわさが起り、暗くなってから、又誰か一件毎の門柱に白墨で○をつけて行くのです。何の為か一向に分らず、当分無気味な事でした。たちまち戒厳令が敷かれ、自警団が組織されてアチコチのテントに各家の男子は出なければなりません。女子供は夜は一切外出も出来ず、男でもうっかり歩けばいきなり竹槍をつきつけて”誰何”され、ひどい目に会うということでした。今日のように情報豊かな時代とちがい、真暗な中で、又真暗な気持ちにさせられました。
(「わたしの体験記」『関東大震災体験詩集』世田谷区、1978年)

つづく


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