より続く
1930年(昭和5年)
長谷川利行39歳
3月、第2回聖徳太子奉讃会記念展覧会(3.17-4.14東京府美術館)に《キャッフェの女》を出品。
「私が初めて彼を知ったのは、昭和三年の初夏の頃である」と前田夕暮はいうが、おそらく記憶ちがいで、歌人楠田敏郎を介して利行が前田夕暮と面識をえたのはこの年あたり。たちまち利行は前田邸に日参して、無理やり絵をおしつけ金を無心し、それだけでなく肖像画をかかせてほしいと頼みこんだ。
私を描いてくれる人に 前田夕暮
私の肖像を描いてくれる人に希望する。
私を裸で青い草の中において貰いたい。青い草のなかに、冷たい草のなかに、ひっそりとおいて賞いたい。そして、私のからだの廻りには青い丈長の草をずんずんと日の方へのびているさまに描いて貰いたい。寝ている私の体の下の地面から生えた草のうす赤い芽が、私の肉体を貫いているところを描いて貰いたい。私のからだから一面に草が生えているところを、その草が青く空までのびているさまに、すこし思い切って豊かな想像を光らせて描いて貰いたい。
(『前田夕暮全集』第三巻 角川書店)
夕暮れがやや感傷的にかつ、やや超現実主義的な図柄の注文を独白のように文章に書いたのは昭和四年のこと。
夕暮はすでに一年前に利行の訪問を受け、百点前後の作品を半ば強引に引き取らされている。
夕暮は自分の肖像画に注文までつけておきながら始終、家へ出入りしている利行に依頼した節はない。要求の結果を怖れていたのかもしれない。
夕暮が靉光の存在を知っていたのかどうか分明ではないが、彼の注文は靉光の画風に合っているように思えるが…・・・。
昭和五年六月未の夜十時頃、三十号キャンバスを抱えた利行が突然、夕暮の家へやってきた。
「先生の肖像画を描かせて下さい」
利行の要求は常に唐突である。
夕幕は五日か十日くらい日数がかかるだろうと思って楽に構えている。
「これから描きます」
「きょうはもう遅いし、日を改めて……」
「いえ、今夜じゅうに描きます。ぜひともお願いします」
「…‥仕度はどうする。このままでいいのか」
利行は夕暮の顔をじっと見つめて、
「洋服を着て下さい」
と言った。
夕暮が着替えて二階の書斎へ行くと、利行はキャンバスの前で目をギラつかせじっと体を構えていた。
「いうままに藤椅子に腰をおろした私の顔を暫く凝視していた彼は、忽ち嵐のように画布に絵の具をなすりはじめた。私はこの時彼の凄まじい原動力をもった、縦横無碍の、霊ある手をみた。
彼の手はただ狂暴に、時に粗硬なタッチの響きをたてて暴れ廻り狂い廻った。そして約一時間半で描きあげてしまった。
それから、私は全く彼を不気味なる天才と呼ぶようになった。(後略)」
(『前田夕暮全集』第四巻 角川書店)
夕暮は自分の肖像画を気にいり愛した。額縁に納め書斎の壁に掛けた。
利行の傍若無人の行動がはじまった。
外出先から夕暮が帰宅すると、利行が書斎に上がり込んでキャンバスに向かっていた。
「なにをしている・・・」
「・・・」
利行は鉢植えのゴムの木を描いていた。
八号キャンバスにゴムの木だけを単純化して描いていた。あっという間に仕上げ、夕暮はこの作品がいたく気に入った。
翌年の二科展に利行は「タンク街道」「ポートレエ(前田夕暮像)」とともにこの絵を出品したがこれだけ落選した。
しかし夕碁のこの絵に対する愛着は深く、彼はのちに帝大眼科に白内障の手術のために入院した際も、病室の壁に掛けいつも身近に置いていた。
だが絵の出来栄えとは別に、自分の留守中に書斎に他人が上がり込むという不躾、非礼は温厚な夕暮ではあっても許せることではない。
「他人の家に上がる時は許可を得るように・・・」
夕暮は厳しい言葉で利行をたしなめた。
利行はこれくらいでは怯まない。というより、ここからが利行自身に激しい葛藤をもたらす正念場といえるかもしれない。
(『評伝長谷川利行』)
9月、第17回二科展(9.4-10.4 東京府美術館)に《ポートレエ(前田夕暮氏像)》(cat.no.28)《タンク街道》(cat.no.22)を出品。
「長谷川利行君は強烈な色線をもつて独自なポートレー、或は風景を描いている」(不破祐正「洋画・彫刻界の新人」)。
「長谷川利行〈ポートレー〉自分でやりたい事を直截に勝手にやる人で君程の人は少ない、だから画面はいつも生気に満ちてゐる」(児島善三郎「二科新進作家群評」)。
「長谷川利行氏-二点のうち、どちらかと云へば、白つぽい〈ポートレエ〉がいゝ。〈タンク街道〉は題材は面白いのだが、色感は同感し兼ねる。同じ色調の行き方でも、かつて樗牛賞を得た〈酒場〉時代のものとは較べものにならぬ程悪い」(矢野文夫「二科印象」)。
「瓶にさした紅い薔薇を、その頃私はカンバスに描きかけのまま投げ出しておいた。私の留守に上がりこんだ利行は、この絵を発見して、さっそく筆を入れはじめた。要領よくムダを削って、要所をまとめ、素晴らしい生物画が出来上がった。帰って来て、私はこの絵を見て感嘆した。ふと机の上を見ると、紙片に『絵とはこういう風に描くものです。利行』と走り書きで書き残してあった」(矢野文夫『長谷川利行』)。
長谷川利行《タンク街道》1930昭和5年— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) 2018年7月31日
東京国立近代美術館蔵 pic.twitter.com/SpbDdhHBNM
《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)
《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html
日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」
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