(『朝日新聞』2019-07-19)
脱原発ののろし 仲間と発信
東京電力福島第一原発事故から半年後の2011年9月11日、東京・霞が関の経済産業省前に「脱原発」を訴えるテントができた。リーダーとして、学生運動の元活動家から社会問題に関心のなかった会社員まで、訪れる人たちを束ねた。
旧満州生まれ。戦後引き揚げ関東などを転々とした後、神奈川県内で身を落ち着けた。「食べる物に困るくらい貧しかった」。その理不尽さに疑問を抱き、高校生で学生運動に身を投じた。国会前で「安保改定反対」「ベトナム反戦」を叫び、その後も労働者のために活動したが、もはや共感は得られない、と50歳のころ一線を退いて、出版や印刷会社を営んだ。
だが、06年に首相になった安倍晋三氏が改憲を掲げると、かつての仲間と「9条改憲阻止の会」を結成、活動を再開した。
さらなる転機は11年3月。福島に通い、原発はいらないとの思いを強くした。その夏に話が持ち上がった再稼働を、何としても止めたい。「原子カムラ」の中心にあるのは経産省と見定め、テントを張ると決めた。
省の敷地を使うのは無許可だったが、「脱原発ののろしを上げるべきだ」と考えた。あらゆる市民とつながろうと、阻止の会ののぼりは下ろした。国から不法占拠だとして撤去を求めて提訴され、16年に敗訴が確定。テントは撤去された。だが、「思いを発信し続ける」と庁舎前ですぐに座り込みを始めた。
昨夏、末期がんが見つかった。それでも週に1度は霞が関に通った。妻の正子さん(79)によると、今年の3月11日も体を引きずり、集会に出るつもりだったが、最後は靴も履けないような状態だった。
3月末、経産省前で「追悼川柳句会」が催され、仲間が思い思いの句を詠んだ。「あちらにも太郎のテントできたかな」。穏やかな拍手に包まれた。
(桑原紀彦)
0 件のコメント:
コメントを投稿