2020年10月10日土曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(15改) 1930年(昭和5年) 長谷川利行39歳 「彼は貧困であったなどとは夢にも思ってみたことが無い。(中略)心が貧しく人を喰いものにするような下賎な心の彼では無かった。彼の絵が、今日見ても美しいと思わせられるのは、実はこの心の美しさの表現に他ならない。天衣無縫の詩心の表現に他ならないからである。」 (徳山巍「長谷川利行と私」)  

 今年5月に、大塚信一『長谷川利行の絵 芸術家と時代』(作品社)という本が刊行されたので、図書館で借りだして読んだ。

この本は、私が持ってる利行のイメージに関する物足りなさ、隙間を少し埋めてくれる本だった(まだまだ分からないことが多いが)。


で、別途進めていた(実は1年以上中断しているが)《若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)》という記事の昭和5年あたりからこの本の内容を追加していこうと思う。実のところ原稿は全て完成していて、ただ記事のアップをサボっていただけなのだが、幸か不幸か、少しはこの本の中味を反映できそうである。

具体的には、記事のアップは下記のような状況になっている。

《若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)》

(1) 《画家たちと彼らが生きた時代の概観》

(2) 長谷川利行、福沢一郎、佐伯祐三、靉光、生まれる 

(3) 1907年(明治40年)長谷川利行(16歳)~1911年(明治44)長谷川利光20歳

(4) 吉井忠 松本竣介 寺田政明 古沢岩美 生まれる

(5) 1921年(大正10年) 長谷川利行(30歳) 「俺は絵をやる」 矢野(文夫)との出会いは利行に絵の道を選択させることになった。

(6)「利行が狂ったように絵を描きはじめたのは、大正十二年九月一日の大震災のあとであった。震災の日からなん日も、利行は火のなかを歩きまわり、吉原の池で数百の遊女の焼死体をみた。また人からたのまれて車を挽き、焼跡を片づけていた。」

(7)  1924年(大正13年)初夏、佐伯祐三(26歳)、里見勝蔵と共にオーヴェール=シュル=オワーズにヴラマンクを訪問、持参の裸婦を描いた作品を「アカデミック!」と批判される。 

(8) 1926年(大正15年) 長谷川利行35歳 ふたたび上京、.....「・・・元号が昭和に代わり、再び日暮里の離れに腰を落ちつけた利行は一気に花が咲き画境を著しく加速させた。」(『評伝長谷川利行』)

(9)「長谷川利行が二科で樗牛賞を得た昭和二年、井上長三郎と靉光は一九三〇年協会の第二回展で奨励賞をもらった。翌年、利行はおなじ一九三〇年協会展に出品し、協会賞をとった。」(『池袋モンパルナス』)

(10)  「靉光は、利行の絵に接したために迷いが生じ、それからしばらく二科に落選しつづけた。」(『池袋モンパルナス』)

(11)  柿手春三、寺田政明、古沢岩美、上京。松本竣介(16歳)盛岡中学絵画倶楽部に入部。佐伯祐三(30歳)パリで死去

(12) 1929年(昭和4年) 松本竣介17歳、上京、太平洋画会研究所選科に通う  靉光の画家としての出発点

(13) 1929年(昭和4年) 「日本プロレタリア美術家同盟」(P・P)設立  「洪原会」結成 小熊秀雄が長崎町に移る 長谷川利行38歳《割烹着》「残された年月は両手の指の数も残っていない」   

(14) 1930年(昭和5年) 松本竣介(18歳)、太平洋美術学校へ通う  靉光(23歳)《コミサ(洋傘に倚る少女)》 独立美術協会発足

(15) 1930年(昭和5年) 長谷川利行39歳  《キャッフェの女》《ポートレエ(前田夕暮氏像)》《タンク街道》  「長谷川利行〈ポートレー〉自分でやりたい事を直截に勝手にやる人で君程の人は少ない、だから画面はいつも生気に満ちてゐる」  

この中の(15)を(15改)として、以降にこの本の中味を反映させて行くことにする。それ以前の部分は、原稿は完成させてあるので、今後の改定の時に反映させてゆく。

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1930年(昭和5年)
長谷川利行39歳
■この頃の利行
利行は、はっきりとは分らないが、一九二九年あるいは三〇年頃から浅草山谷の紅葉館という木賃宿に住むようになった。この頃から利行の放浪生活は本格化することになる。「毎晩のように千束通りの泡盛屋や吉原の小料屋「きくや」などで、酒ぴたりの生活を送っていた」と矢野は言う(『長谷川利行』)。

「長谷川ともこの喫茶店[映画館通りにあった「自十字」]にはよく行った。長谷川利行とは、熊谷登久平の家で紹介されて知った様に思う。昭和三年頃のことであった。彼と歩くと必ずと云っていい程雷門にある「カミヤ」の電気ブランを飲みに連れて行かれた。その頃の彼は、誰かに貰ったと云う黒いソフト帽に、袖口の少々くたびれた黒の洋服を着て黒いネクタイをキチンとつけていた。胸に余り白くはないがハンカチを覗かせて黒い八字鬚をよく撫でていた。(中略)酔うと奥山の木馬館の二階にカジノフォーリー(浅草水族館演芸場)にまだ有名にならない「エノケン」がギャグの利いたレビューをドタバタやっていてよく見に行った。(中略)長谷川はこの「踊子」を何枚か描いているし、「安来節」の女の人も何枚かを描いた。出来上がると新聞紙に包んでよく見せに来た。」

「長谷川は三杯の泡盛でも、電気ブランでも飲んで酔うと皆と別れて一人街をトボトボと歩くのが好きだった。夜更けの街をいかにも楽しそうに街灯の灯に、長身の影を落してユラユラと歩いて行った」

三筋町の徳山のアトリエを、利行は毎日のように訪れた。食事時になると徳山の母は利行を誘い、三人で一緒に食べた。利行は 「キチンと正座して黙々と食べた。決して膝を崩したことは無い」。
ある時利行は徳山の母を描きたいと言いたし、三、四日通って《母の尚像》を描いた。サムホールの小さい絵だったが、更に十日ぐらいかけて徳山に渡された絵は立派な作品に仕上っていた。が残念ながら、戦災でアトリエとともに消失してしまった。

「彼のことを殆んどの人達は、貧困で、家も無く木賃ホテルやドヤ街に住んで不遇のうちに死んで行った、という。確かに世間並みにはまずしく見えたであろう。が、最も張りを持って描いていた時期を共に生きて来た私には、彼は貧困であったなどとは夢にも思ってみたことが無い。(中略)心が貧しく人を喰いものにするような下賎な心の彼では無かった。彼の絵が、今日見ても美しいと思わせられるのは、実はこの心の美しさの表現に他ならない。天衣無縫の詩心の表現に他ならないからである。」
(徳山巍(たかし)「長谷川利行と私」)

この頃放蕩三昧であった矢野(文雄)は、吉原で一晩を過した翌朝、しばしば紅葉館にいた利行を朝食に誘った。不忍池のほとりにある料亭「揚げ出し」で豆腐の揚げ出しを肴に朝酒を一杯やるのだ。矢野は言う(『長谷川利行』)。

・・・江戸前の匂いの残る、あんな贅沢は、あの頃が最後であった。山下の永藤パンの喫茶部も、利行とよく行った店であり、「世界」やその隣りの「山下」という牛鍋屋にもよく通った。そうしたわれわれの好況時代も去り、昭和五、六年頃から、不況のどん底の貧窮時代がやってくる。
カフェの代りに、「永藤」横の屋台の泡盛屋や、ガード下の一杯飲み屋が、われわれの巣となる。利行も絵が売れず私の原稿もあまり売れず、それでも毎晩酒らしきものは飲んでいたから不思議である。上野駅前に新らしく出来た「地下鉄ストア」の壁面の大時計を、その頃利行は描いている (図15)。

ある時、矢野が地下鉄ストアの五階か六階かにある大食堂に行くと、利行がひとりで、豚カツや鮪のさしみ等々山海の珍味を並べて悠々と飲んでいた。利行は「絵が売れたんだ。一杯飲もう」と言い、矢野のグラスにビールを注いだ。
地下鉄ストアが建てられたのは一九三一(昭和六)年のことだ。一九二九年一〇月二四日、アメリカのニューヨーク株式市場の大暴落に始まった大恐慌は、世界中に拡散した。日本では既に昭和恐慌によって失業者が大量に発生していたが、ニューヨーク市場の暴落はその翌年になって更に大打撃を与えることになった。まさに世界恐慌の波に飲み込まれたのである。」(大塚信一『長谷川利行の絵』)

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)
『池袋モンパルナス そぞろ歩き 読んで視る長谷川利行 視覚都市・東京の色』
大塚信一『長谷川利行の絵 芸術家と時代』(作品社)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html




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