治承4(1180)
3月4日
・越前斎藤氏の時頼(滝口入道)、新帝の滝口となる(「山槐記」同日条)。
越前斎藤氏は、在地社会に領主制の構築を進める一方、都で官職を得ようとする。この一族の中央志向は院政期以前からの伝統で、特に滝口(蔵人所に所属し天皇最身辺に伺候する警固武士)に任じられている。平安末期では、高倉天皇の滝口として藤原宗光・宗親・宗貞、安徳天皇の滝口として藤原実康・時員・時頼など。
時頼は、「平家物語」に「三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼といひし者なり、もとは小松殿の侍なり」とある、建礼門院の雑仕横笛との悲恋によって遁世したという滝口入道のこと(「三条」は京都での宿所の地名、「小松殿」は越前知行国主の重盛(維盛)家)。彼の父左衛門大夫以頼は疋田系斎藤氏で、治承3年(1179)では右兵衛尉(「山槐記」同年12月11日条)、祖父以成も、保元2年(1157)8月藤原基実の任右大臣の大饗の場に右兵衛尉としてある(「兵範記」同年8月19日条)。
「滝口藤原時頼法輪寺において出家、年十八、帥典侍の乳母の子なり、道心に依ると云々、当時滝口の遁世定めてその例無きか」(「吉記」養和元年(1181)11月20日条)。その理由は「横笛の事」とされ、出家後は高野山に住し、後に維盛の臨終を看取ったという。帥典侍は、清盛義弟の平時忠の妻で安徳天皇の乳母。時頼は、安徳即位後、彼女が保有する官職の任命権枠を使って滝口になる。安徳の東宮時代は帯刀の連(帯刀の最後尾)。
平家都落ちの際、どこまでもお供すると申し出る維盛の侍で斎藤別当実盛の子供の斎藤五宗貞・斎藤六宗光兄弟(延慶本「平家物語」)が、高倉天皇滝口の(越前斎藤氏)宗貞・宗光とされる。実盛も越前斎藤氏一族で、武蔵長井(埼玉県妻沼町長井周辺)に住したので長井斎藤別当と称する。兄弟は実盛猶子という形で維盛に奉仕。他に一ノ谷で討死する平通盛(元越前守)の侍の藤原時員(安徳天皇の滝口時員)がいる。
[物語世界での滝口入道]
屋島滞在中の一門から離れた維盛が高野山に赴く場面に、もと重盛の侍で、維盛の知己の聖として登場。滝口となって勤めるうちに、建礼門院仕えの女性横笛を愛したが、父に反対され、板挟みの思いから逃れるために出家。出家時の年齢は、18、19、25歳などの異説あり。出家の場所も嵯峨の往生院、嵯峨の法輪寺、法輪寺内の往生院と小異がある。横笛は自分を残して出家した滝口を捜して往生院に赴き、念誦の声を頼りに彼が寵もる坊に行き着き、すぐに案内を乞うが、滝口は道心が弛むことを理由に、会おうとしない。滝口にとって横笛は未だに「飽(ア)かで別(ワカレ)し女」であり、その後、嵯峨を離れ高野山の清浄心院に身を移す。維盛が再会した滝口入道は、未だ30歳にも満たぬのに、老僧姿にやせ衰えていた(10「横笛」)。滝口の案内で、維盛らは高野の諸堂塔・奥の院を巡礼(10「高野巻(コウヤノマキ)」)。翌日、出家を願う維盛を仏堂へ導き、髪を剃り落とし、先達として維盛の熊野参詣の宿願を成就させる(10「維盛出家」)。そして、那智の沖に浮かぶ船中では、妻子への思いがなお消えず、入水をためらう維盛に同情しつつも、言葉を尽くして彼を励まし、その妄念を断ち切らせる(10「維盛入水」)。延慶本では、余りの悲しさに、涙ながらに舟をめぐらし、身を投げた維盛が浮かび上がるのを待ち、阿弥陀経を読んで回向したとする。文治5年(1189)、16歳になった維盛の遺児六代が出家し、高野山の滝口入道のもとを訪れる。その時滝口は、維盛の出家から入水に至るありさまを詳しく語って聞かせたという(12「六代被斬(キラレ)」)。
・他に、勇将藤原景清が清盛推薦により滝口となる。「平家物語」には「悪七兵衛」と見える。
3月16日
・九条兼実の許に上皇からの使者があり、上皇・中宮が書写した金泥の経三巻の外題を書くようにと依頼あり、兼実は書き進める。
3月17日
・高倉上皇(20)の厳島参詣、延暦寺園城寺衆徒の不穏の動きにより延引。
19日暁、参詣に進発。高倉院別当土御門通親(32)、同道。平清盛、途中から唐船で参加。
4月9日、帰洛。源通親は供をして「高倉院厳島御幸記」(中世の紀行文の先駆け)を記す。この高倉院の留守中に以仁王が挙兵。
「思ひもかけぬ海のはてへ浪を凌ぎて、いかなるべき御幸ぞと嘆き思ヘども、荒き浪の気色、風もやまねば、口より外に出す人もなし」(「高倉院厳島御幸記」)とあるような、「荒き浪の気色」(清盛の意向)に逆らえない。
[延引の理由]
日頃、対立・抗争する三井寺(園城寺)の大衆が延暦寺・興福寺の衆徒と連携し、法皇・新院を迎え取ろうと構えたことが明らかになったため。3月8日頃からこの動きが始める。ただ、この計画は延暦寺の恵光房(エコウボウ)阿闍梨珍慶が構えるところで、「総大衆この議を成さず」とあり、延暦寺の場合、全大衆が賛成したのでもなかったらしいが、南都北嶺の寺院連合勢力がこの時期の政局を主導し、その流れを作り出しているのは確か。
[両院奪回計画]
①蔵人左衛門権佐光長(ミツナガ)が大理(検非違使別当)時忠第で聞いた話として「玉葉」が伝える内容。計画は、去る8日に評議されるが、宗盛に漏れて、平家が用心したので、その日、法皇を鳥羽から迎え取ることを中止し、代って新院の厳島御幸を狙ってこれを拉致することにするらしい。そこで、去夜(15日夜)検非違使季貞を福原に遣わしてこれを通報し、新院の進発も21日に延期される(実際には19日進発)。
②「山槐記」では、9日、法皇迎え取りを評議するが、機会を得られないうちに延暦寺僧徒が密告し、15日夜大騒動となる。宗盛は法皇御所に中宮亮通盛・但馬守経正(ツネマサ)を遣わして守護させると共に、御所にも左兵衛督知盛を直衣姿で参入させる。
①②綜合すると、計画露見時期が異なるが、双方とも時忠の言として、「この事を法皇みずから宗盛のもとに仰せ遣わしたので、実説であろう、・・」(「玉葉」)、「衆徒のことは八日に事を相談した。法皇はこれを宗盛に告げた。その後帥大納言隆李も宗盛に告げた。延暦寺僧徒の書状証文等があるらしい・・・」(「山槐記』)、というように、法皇が宗盛に評議の内容を通報している。鳥羽殿に幽閉中の法皇に、衆徒たちの評議やその内容がわかるような仕組み・サイクルがあるとしか考えられない。しかし次に、何故法皇がその衆徒の計画を宗盛に知らせるのか。計画が露見したのを見て不成功を判断し、事実を自ら明らかにすることで危険回避の方便としたのかもしれない。
18日、宗盛は、法皇を鳥羽から京中五条南大宮東にある前備後守為行(法皇の近習)宅に移すこととし、九条の四墓(ヨツバカ、東寺辺り)まで来ながら、御所として不適当ということで中止し、鳥羽殿に戻す。
[御幸の意義]
①天皇譲位後、新院としての初めての社参は賀茂社・石清水八幡宮・春日社・日吉社が慣例。厳島御幸は、清盛的秩序への屈服の宗教的儀式で、南都北嶺の宗教界全体の否定。園城寺・興福寺・春日社・東大寺の大衆、厳島参詣阻止に蜂起・失敗。
②六波羅と並ぶ平氏の拠点西八条邸を出発し、京都の外港鳥羽(伏見区)に至り、そこから船で淀川を下り、川尻の寺江(尼崎市)~福原(神戸市)着。清盛が上皇を迎え歓待し、そこから途中須磨、明石、高砂、室(以上兵庫県)、児島(岡山県)など、平氏の制海権の下にある要港を経由。
③上皇も清盛も、清盛が差し回し、唐人(宋人)が添乗する唐船(宋船)を利用。
[行程]
19日(太陽暦4月22日)早朝、一行は、桂川の草津で乗船、淀川を下り、その日は川尻・寺江(尼崎市)に宿泊。
「十九日。申(さる)の時に寺江(てらえ)といふ所に着かせたまふ。邦綱の大納言御所造りて、御設け心を尽くして、御船ながらさし入れて、釣殿(つりどの)より下りさせ給。(中略)福原より、今日よき日とて、船に召しそむべしとて、唐の船まいらせたり。まことにおどろおどろしくて、絵に描きたるに違はず、唐人(からびと)ぞ付きてまいりたる。」
20日、雨天を押して陸路、福原(神戸市)に向かう。
「二十日。生田の森などうち過ぎて、申の下りに、福原に着かせ給。入道大きおほいまうち(清盛)君心を尽して、御まうけども、心言葉も及ばず、天の下を心に任せたる装ひの程、営まれたる有様、思ひやるべし。」
21日未明、福原港出立。上皇一行は参詣のための浄衣(じようえ)を来て、浦伝いに播磨に行き、清盛一行は唐船で海から行って、高砂で合流。
22日早朝、高砂を出立、昼過ぎ、室の泊り(兵庫県御津町)着、上陸して休息。
23日は児島(倉敷市)泊。清盛はここで連れてきた厳島の内侍に八乙女(やおとめ)の田楽を披露させる。それは「女の遊びとも見えず。ただあらんだにあるべきに、海のほとりに目驚かす物やあらんとおぼゆ」と通親を驚嘆させる。
25日夕方、馬島(広島県安浦町)で、一同、海水で洗髪し斎戒沐浴して明日に備える。
26日早朝、馬島を出航、正午過ぎ厳島着。上陸後、浄衣に着替え、客人宮(マロウドモミヤ)で御神楽を奉納、大宮で宸筆の金泥法華経を供養。
27日、摂社・末社巡拝後、夜は社殿参籠。内侍による神楽の後、神主の佐伯景弘から厳島の神のいわれを聞いて上皇は涙を拭い、清盛を召して話をしたが、何の話かは二人以外は知りえなかったという。内侍どもが、終夜、御神楽を奏す。
28日は終日、御島巡り(厳島を船で一周し、7つの浦浜の祠を巡拝)。
29日、帰路に着くため御座船に乗船。
4月1日、宮島発。
5日、高砂の泊に上陸、陸路、福原へ。平氏一門の歓待を受ける。
8日、福原を出立、夕方、京都に到着。高倉上皇には直ちに漢方鍼灸治療が施される。(源通親「高倉院厳島御幸記」による)。
厳島御幸は、上皇譲位直後に慌ただしく実行され、清盛の執心ぶりを示す。清盛は、政権を掌握し、更にこれまで朝廷で伝統的に尊崇されてきた八幡・賀茂に代わる新しい神社を、厳島に求める。また、日宋貿易を主導的に推進することで、京都~鳥羽~福原~太宰府の通商・交通路、現地官庁を完全に掌握していることにより、この厳島御幸には唐船・唐人が登場する。源通親は、唐船を「おどろおどろしく、絵に描きたるに違はず」と記す程の貧困な対外知識・国際感覚した持ち合わせていないが、日宋貿易で莫大な利益をあげる清盛は、開放的な考えを持ち、宋人が福原の清盛邸に来た時には、後白河法皇を招いて見物させている。清盛は、上皇に福原という国際的な瀬戸内世界を見せることで、上皇に新鮮な刺激を与えようとする。
「夜に入り、蔵人左衛門権の佐光長来たり語りて云く、御幸延引の事、園城寺の大衆発起し延暦寺及び南都の衆徒を相語らい、法皇及び上皇宮に参り、両主を盗み出し奉るべきの由、去る八日評議を成す。」(「玉葉」同日条)。
厳島御幸(いつくしまごこう)、還御(かんぎょ)(「平家物語」巻4)
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