2022年7月10日日曜日

〈藤原定家の時代051〉治承4(1180)4月9日 頼政の説得 「君若し思し召し立たせ給ひて、令旨を賜うづる程ならば、国々の源氏ども、夜を日に継いで馳せ上り、平家を亡さん事は、時日を廻らすべからず。」(「平家物語」巻4「源氏揃」)  

 


治承4(1180)

4月9日

□「平家物語」巻4「源氏揃」(げんじそろえ)の続き

[諸国に散在する源氏一族]

「出羽前司光信」:

源頼光の長子頼国の6男国房の孫で、出羽守光国の子。京都を基盤とする都の武者であったが、祖父の国房のころ美濃国を本拠とし、美濃七郎と称して美濃源氏の主流となり、土岐氏の祖とされる。天承元(1131)年6月、国房の子の光国は出羽守に任ぜられた、嫡子の光信もその職を継ぐ。光基・光長・光量・光能らの子があり、光基については、重盛が「頼政・光基など申す源氏どもに、嘲られても候はんは、まことにー門の恥辱にても候べし」といったことが「殿下の乗合」(「平家物語)に見え、当時頼政と並ぶ有力な源氏勢力であったことがわかる。また、光長は、高倉の宮追捕のためその御所に押しかけた検非違使の1人として、「信連合戦」(「平家物語」)に登場。

「十郎義盛」:

源氏嫡流の六条判官為義の第10子。為義が第15代の熊野別当長快の娘鶴との間に儲けた子で、母方の租父の家のあった新宮で育ち、新宮十即と名乗るが、のち高倉の宮の御所に召されて蔵人に任ぜられ、義盛から行家と改名。頼朝・範頼・義経・義仲らにとっては、伯父に当る人物で、この後、高倉宮の令旨を諸国の源氏に伝達する役割を果たす。

「多田蔵人行綱」:

鹿の谷事件で裏切りをしたことで非難を受けている。頼国の第5子、国房の兄に当る頼綱の末裔で、摂津源氏の一族。その弟の朝実は摂津国多田圧、高頼は同国豊島郡に住み、夫々その在名を名乗る。「大田太郎頼基」は、頼光の弟頼親から8代目に当たる頼資の子で、摂津の大田保の住人。「平家物語」巻12の「判官都落」では、鎮西へ落ちようとする義経を河辺郡の河原津で襲撃し、敗退する。

「武蔵権守入道義基」:

八幡太郎義家の第6子に当る義時の長子で、父の遺領であった河内の国石川庄を伝領し石川を称す。河内源氏の中心的存在で、治承5(1181)年2月に、平家にそむいて源大夫判官季貞らに攻められて討死(「平家物語」巻6「飛脚到来」)。その子の義兼は、院の庁の事務を担当する判官代に任じられるが、同じく石川城の攻防戦で負傷して捕えられる。

「宇野七郎親治」:

頼光の弟頼親の末裔で、大和源氏の一族。3代の後胤の頼治が大和国字智郡宇野郷に住んで宇野を名乗り、親治はその頼治の孫に当たる。保元の乱の際、崇徳上皇方に加わるため上洛しょうとして宇治で検非違使平基盛に捕えられたと「保元物語」にあるが、そこでは「清和天皇十代の後胤、六孫王の末葉、摂津守頼光のおとゝ、大和守頼親に五代、中務丞頼治が孫、下野守親弘が嫡子、大和国の住人、宇野七郎親治」と名乗る。有治・清治・成治・義治らの子があり、「尊卑分脈」には有治は「斎院次官」、成治は「宇野三郎業治」と注記されている。

「山本・柏木・錦織」:

義家の弟新羅三郎義光の末裔で、近江源氏の一族。義光の嫡男義業の第2子義定の子義経が近江の山本保(滋賀県東浅井郡朝日町山本)に住み、山本を名乗り、その子供が柏木義兼と錦織義高。「柏木」は同国甲賀郡水口町、「錦織」は大津市の地名。「平家物語」巻5「都還」に、治承4年11月23日に、知盛以下の平家軍勢が近江に発向し、山本・柏木・錦織ら「あぶれ源氏」を討伐したとある。

「山田次郎重広」以下の6名:

満仲の弟満政を祖とする源氏の支流で、重広・重直・重頼は信濃守重遠の子、重光は重直の、重資・重高は重頼の、重行は重高の子。「山田」は尾張国春日井郡山田庄(名古屋市北区付近)、「河辺」は同国河辺庄(愛知県海部郡七宝町川部)、「浦野」は同国春日井郡浦野(名古屋市北部)、「安食」は同国春日井郡安食庄(名古屋市北区・春日井市)、「木太(キダ)」は美濃国方県(カタガタ)郡木田郷(岐阜市木田)、「開田(カイデン)」は同国本巣郡開田(岐阜市改田)、「矢島」は同国方県郡八島郷(岐阜市八島)が地盤の一族。

「逸見冠者義清」以下の人びと:

新羅三郎義光の血筋を継ぐ甲斐源氏の一族。「義清」は義光の子で、父義光の居館のあった甲斐国巨麻郡逸見(ヘミ)郷(韮崎市)に住み、逸見を名乗る。信義・遠光・義定は義清の嫡男清光の、忠頼・兼信・有義・信光は信義の、長清は遠光の子。「武田」は同国巨麻郡余部郷武田(韮崎市神山武田町)、「加々美」は同国巨麻郡加々美庄(山梨県中巨麻郡若草町)、「一条」は同国山梨郡一条庄(甲府市蓬沢町)、「板垣」は同郡板垣庄(甲府市善光寺町)、「逸見」は同国巨麻郡逸見庄(韮崎市西北部)、「安田」は東山梨郡神金村大字小田原安田(塩山市上小田原)を拠点とし、その在名を名乗ったもの。この一族は、頼朝挙兵以来これに協力し源平合戦に活躍する

「大内太郎維義」以下の人びと:

逸見の冠者義清の弟平賀盛義の一族。親義は盛義の弟、義信は盛義の子で、維義はその義信の嫡男。新羅三郎義光の4男の盛義は、信濃国平賀郡(佐久市平賀)を所領として平賀を名乗るが、その孫に当る維義は頼朝に仕えて恩寵をうけ、平氏の旧領の伊賀の大内庄(上野市大内)を与えられ、大内をその名とする。「木曽冠者義仲」は、頼信から4代の孫の六条判官為義の次男帯刀先生義賢の子。「平家物語」巻6「廻文(メグラシブミ)」に、「彼は故帯刀先生義賢が次男なり。然るを、父義賢は、去ぬる久寿二年八月十二日、鎌倉の悪源太義平が為に誅せられぬ。其の時は未だ二歳なりしを、母抱へて泣く泣く信濃へ下り、木曽中三兼遠(ノチュウゾウカネトホ)が許に行きて、これ、如何にもして、我に見せよと言ひければ、兼遠かひがひしう請取って養育す。漸々長大するままに、容儀帯佩(ヨウギタイハイ)人に勝れ、心も双(ナラビ)なく剛なりけり」とある。幼い頃同族の争いで父を失い、木曽の中原兼遠に預けられ、「木曽」を名のる。「冠者」は、元服して冠をいただいた若者のこと。

「前右兵衛佐頼朝」:

義朝の3男。母が熱田大宮司季範の娘で正室であったので、嫡子とされる。13歳のとき平治の乱が起り、敗戦ののち捕らえられ伊豆に流され、この頃配所の伊豆の蛭が小島に幽閉の身。乱の緒戦の勝利で右兵衛権佐となる、敗北の為その官位を奪われ、「前右兵衛佐」と呼ばれる。「信太(シダノ)三郎先生義教」は義朝の弟で、頼朝・義仲・義経らの叔父。常陸の国信太郡(茨城県稲敷郡桜川村浮島付近)に土着し、霞が浦の南・西部を勢力圏とする。のち義仲と行動を共にし、義経とも親しかったが、頼朝によって滅される。「佐竹冠者正義」は、新羅三郎義光の孫で、刑部太郎義業(ヨシナリ)の子。常陸源氏の一族で、常陸の国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に住み、常陸一帯に勢力を持つが、治承4年11月頼朝の襲撃をうけ、正義の嫡男忠義は討たれ、以下の人びとはその軍門に降り臣従する。「九郎冠者義経」は義朝の第9子で、幼名牛若。平治の乱ののち鞍馬寺に預けられるが、のち脱出して奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せ、兄頼朝の挙兵を聞いて馳せつけその代官として源平合戦に活躍。

「六孫王」とは、源氏の祖とされる経基の通称。清和天皇の6男貞純(サダズミ)親王の子であることから、こう呼ばれる。「苗裔(ベウエイ)」の「苗」は、草の茎や葉で根の生ずるところ、「裔」は裾のことで衣の余り。遠い血統の子孫のこと。後胤、末葉をいう。「新発意(シンボチ)」は、発心して新たに仏門に入った人のことで、出家して間がない者。多田満仲は、その晩年に僧籍にあった子息の導きによって武士としての悪行を悔い、剃髪して出家をとげる。

[頼政の説得]

頼政は、これら平家の世盛りの中で不遇な境遇に甘んじている源氏の人々は、声かければ直ちに馳せ参じるであろうと説得。

「朝敵を平げ、宿望を遂ぐる事は、源平何れ勝劣(ショウレツ)なかりしかども、今は雲泥交を隔てゝ、主従の礼にもなは劣れり。国は国司に随ひ、庄は預所に召使はれ、公事雑事に駆り立てられて、安い心もし候はず。つらつら当世の体を見候ふに、上には従うたる様なれども、内々は一向平家を猜まぬ者や候。君若し思し召し立たせ給ひて、令旨を賜(タ)うづる程ならば、国々の源氏ども、夜を日に継いで馳せ上り、平家を亡さん事は、時日を廻らすべからず。其の儀にて候はば、入道も年こそ寄って候へども、若き子どもあまた候へば、引き具して参り候ふべし」とぞ申しける。宮は此の事如何あらんずらんと、思し召し煩(ワヅラ)はせ給ひて、暫しは御承引もなかりけるが、こゝに阿古丸(アコマル)大納言宗通卿の孫、備後前司(ビンゴノゼンジ)季通が子に、少納言維長と申ししは、勝れたる相人(サウニン)の上手にてありければ、時の人、相少納言とぞ申しける。其の人此の宮を見参らせて、「位に即(ツ)かせ給ふべき御相まします。相構へて天下の事思し召し捨つな」と申されける折節、此の三位入道も、か様に勧め申されければ、「さては然るべき天照大神の御告やらん」とて、ひしひしと思し召し立たせ給ひけり。」

(文意)

「朝敵を平定してかねての昇進の望みをなし遂げた事とげた事は、源氏も平家も優劣はなかったが、今は天地(雲泥)ほどの開きが生じ、主従の関係よりもなお劣った間柄となっている。」

平氏一門は、まず院領荘園支配を支える武力として預所などに多数登場し、保元の乱後は、摂関家の政所はじめ預所などの荘園支配機構にも進出し、これらの荘園支配機構を媒介に在地領主を編成し、自らの権力基盤を強化拡大する。更にしだいに知行国・国守の獲得数を増加させてゆくが、その国衙支配の場合にも在地領主層の把握と編成(家人化)に努める。しかし、国衙や荘園支配機構を通じて在地領主を組織しつつ支配を展開すると、その権力組織から外れた在地領主や農民層との対立が激化する。なかでも在地勢力の中で、とりわけ反平氏気運を漲らせたのは、平氏の隆盛とともに中央政界進出への道を閉され圧迫され続けてきた各地の源氏武士団である。

思い迷う高倉の宮に挙兵を決意させるのが、「相少納言」とあだ名される人相見の達人維長が、「帝位につく相が出ている。そのことを念頭に置いて、決して天下の事を諦めないように」という。維長は、藤原氏の北家頼宗の末裔で、白河法王の寵臣阿古丸大納言宗通の3男の備後の前司季通の子。九条兼実「玉葉」治承4年(1180)6月10日条に、南都に身を隠していた維長が捕らえられ宮に関して種々尋問されたと記され、「件の男、年来好んで人を相る。彼の宮、必ず国を受くべきの由相し奉る。此の如き乱逆、根源は此の相に在る歟、云うべからず」と書く。


つづく


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