2022年7月11日月曜日

〈藤原定家の時代052〉治承4(1180)4月9日 「その頃一院第二の皇子以仁の王と申ししは、おん母加賀大納言季成卿のおん娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。、、、御手跡厳しう遊ばし、御才学すぐれてましましければ、太子にも立ち、位にも即かせ給ふべかりしかども、故建春門院の御猜によつて、押し籠められさせ給ひけり。、、、治承四年には、御年三十にぞならせましましける。」

 


〈藤原定家の時代051〉治承4(1180)4月9日 頼政の説得 「君若し思し召し立たせ給ひて、令旨を賜うづる程ならば、国々の源氏ども、夜を日に継いで馳せ上り、平家を亡さん事は、時日を廻らすべからず。」(「平家物語」巻4「源氏揃」)より続く

治承4(1180)

4月9日

□「平家物語」巻4「源氏揃」(げんじそろえ)の続き

○以仁王:

後白河院の第2皇子。三条高倉に住んだので高倉宮・三条宮とも称す。「王」「王女」は「親王」「内親王」の宣旨を受けられない皇子・皇女の称号。異母兄弟は天皇(兄は二条天皇、弟は高倉天皇)。白河・鳥羽・後白河の血の半分は閑院流で、以仁王はいとこ同士の父母による息子。母、閑院流藤原成子(高倉三位(タカクラノサンミ)局)は後白河の母・待賢門院の姪。後白河の最初の皇子は二条(1143生)、次が守覚法親王(法親王は、出家した親王)、3番目が以仁王(1151生)。守覚と以仁王は同母で、女流歌人式子内親王も同母。 異母弟の高倉(1161生)は以仁王よりも10歳年下。

後白河と成子(高倉三位)の間には男2女4の子が生まれ、男(守覚と以仁)は幼少期から出家の道に進み、守覚法親王は第6代御室(仁和寺の最高位)となる。女4人のいずれもが齋宮となり内親王となっている。長姉・亮子は安徳准母として殷富門院の院号を授けられている。つまり、以仁を除く全員が親王宣旨を受けている。

以仁王は、兄同様、出家のため天台座主最雲(堀河院皇子)に預けられるが、応保2年(1161)最雲が没し、その遺領城興寺領を譲られ、里に戻り、15歳の永万元年(1165)、近衛・二条の「二代の后」として知られた近衛河原の大宮多子の御所で元服。幼少の頃より、鳥羽上皇の妃で二条天皇の母である美福門院の娘八条院の庇護を受け、その猶子とされ、周囲から秘かに二条帝の流れを継ぐ皇位継承者と目されていたという。半年前に二条天皇が譲位して順仁親王(六条天皇)が帝位につくが、皇太子は決まっていなく、元服には皇位への希望が秘められていたと推測されている。しかし、その翌々年の仁安2年(1167)に後白河の寵妃建春門院(滋子)の生んだ憲仁親王が皇太子に立てられ、翌年に8歳で即位するにおよびその望みは断たれてしまう。こうしたことから建春門院に疎まれ、その圧迫により親王にもされず、無官の王として以仁王は不遇の日々を送る。「平家物語」に「故建春門院の御猜によって、押篭められさせ給ひけり」とある。

八条院猶子で、天台座主最雲法親王の遺領の城興寺とその荘園を伝領。八条院に出仕していた女房との間に、若宮(7)・姫宮(5)があり、八条院がこれを養育。

「平家物語」「吾妻鏡」のように頼政が高倉の宮に平家打倒を誘いかけたのではなく、事件の中心人物は高倉の宮であるとの説。

「頼政はそれまでの七十六年間にわたる生涯を大過なく過ごして来、多少歌道と武芸にすぐれた身が報われなかったとしても、とくに不遇であったとはいえない。ことに前年三位に叙せられたのも清盛の推挽によるもので、平家打倒に決起する動機を見いだしがたい。これに反して以仁王には、帝位への望みを平家ゆかりの高倉天皇の即位によって妨げられたうえ、師僧最雲の死後に譲られた常興寺とそれに付属する荘園を平氏の推す座主明雲のために没収されたことから、平家に対する宿怨が強く、これを排除しようとするじゅうぶんな動機をもっていた」と指摘(上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」)。

また、謀反発覚の際、頼政の子の兼綱がその追捕役人の中に含まれ、三井寺攻めの討手の大将の1人に頼政が選ばれるなど、当初は頼政を首謀者とする観測は全くない。「頼政に謀反の動機がなく、以仁王に動機が多いとすれば、『平家物語』にいうように頼政が以仁王をそそのかしたのではなく、以仁王が頼政を誘ったことになる。」という。また、「以仁王が令旨を発し、謀反をおこすにいたったのは、安徳の立太子により以仁王の皇位継承が絶望となった段階で、後白河が平氏に幽閉されたことがおそらく大きく影響しているであろう。」と、皇位継承の夢を断たれた無念の思いが、宮を平家転覆の反乱へと駆り立てたとの推測もある(五味文彦「平家物語・史と説話」)。

□「物語」に描かれる以仁王のプロフィール。

□「源氏揃」(「平家物語」巻第4):以仁王のプロフィール。

「その頃一院(後白河)第二の皇子(出家した守覚法親王は数えない)以仁の王と申ししは、おん母加賀大納言季成卿のおん娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。去(イ)んじ永萬元年(1165)十二月十六日、御年十五にて、忍びつゝ、近衛河原の大宮御所にて御元服ありけり。御手跡(シュセキ)厳(イツク)しう遊ばし、御才学すぐれてましましければ、太子にも立ち、位にも即かせ給ふべかりしかども、故建春門院の御猜(ソネミ)によつて、押し籠められさせ給ひけり。花の下の春の遊には、紫毫をふるって手づから御作をかき、月の前の秋の宴には、玉笛をふいて身づから雅音をあやつり給ふ。かくして明し暮らしさせ給ふ程に、治承四年には、御年三十にぞならせましましける。」

「高倉の三位と申すなる御腹に、仁和寺の宮の御室(オムロ)伝へておはしますなり。・・・次に元服せさせ給へる(以仁王のこと)おはしますなるも、御文にもたづさはらせ給ひ、御手など書かせ給ふと聞えさせ給ふ。」(「今鏡」巻8)。文芸に通じ筆跡も巧みですぐれた資質を備えているという。

「二条院かくれさせ給て、中納言実国卿、白河宮(以仁王)にまゐり見まゐらせけるに、故院にあさましく似まゐらせ給ひたりければ、・・・」(「古今著聞集」巻13)。二条天皇に生き写しという。

□皇統を巡る争い

以仁王は八条院の猶子となるが、その時期は不明。幼少時、天台座主最雲(法親王、堀川天皇の皇子)の弟子となるが、応保2年(1162)12歳の時、師が没し還俗。永万元年(1165)12月16日、15歳の時、大宮・多子の邸である大宮御所(向かいには頼政邸がある)で密に元服(5歳の弟宮(高倉)が親王宣旨を受ける9日前)。閑院家や六条家の流れは、以仁王担ぎ出しを企図し、平氏側はその弟宮憲仁(高倉)を皇位につける準備を進める。以仁王元服の2日後、元服式場を提供した大宮多子は出家し、4ヶ月後、王の生母の兄権中納言公光は免職されている。以仁王元服(15歳)時点では、5歳の弟親王に対しては、帝位候補者として優位な足場を固め、それ故に高倉帝位を実現させようとする平家側からは厳しい警戒とその後の圧迫(「建春門院(滋子)の御猜」)が想定される。

▽キー・パーソン八条院暲子(あきらこ、1136保延2~1211建暦元):

時子内親王。白河天皇の第三皇女。母は藤原長実の娘得子(美福門院)。保延4年に内親王、久安2年准三后。久寿2(1155)年、同母弟近衛が没し、翌年に父・鳥羽院が没し、保元の乱。翌保元2(1157)年、彼女自身も出家。鳥羽上皇と美福門院の膨大な遺産(荘園)が全て八条院が相続(「八条院領」)。この膨大な院領と鳥羽院政直系という血筋により、八条院暲子は平安末~鎌倉初めの政治情勢に深い影響を与える。

乱は八衆院を舞台に起こる。以仁王は八条院の猶子、頼政は八条院に仕え、令旨は八条院の蔵人に任じられた源行家により東国の源氏のもとに伝えられる(定家も八条院に仕える)。後白河から高倉・安徳と続く皇統に対して、八条院はそれに外れた皇統の庇護者となっている。

八条院は、未婚で実子はないが、1161年(25歳)、二条天皇の准母となって院号をもらい、次いで以仁王を猶子にする。二条帝・以仁王は、八条院の甥。八条院は実子を持たないが、自分と同系血筋で才能のありそうな者を猶子としていったと考えられる。

八条院の「三条の局」に以仁王が生ませた男女の若宮があり、男は出家させられ後に「安井の宮道尊」として名僧となる。女は「三条の姫宮」といわれ八条院の養女となる。1186年(50歳)、九条兼実の子・良輔を猶子とする。1196年(60歳)、女院が重態となった時、財産の大部分を三条姫宮に、残りを九条良輔へ譲る。結局、女院は長らえ、1204年三条姫君が夭折し、遺産は再び女院に戻る。後鳥羽天皇の昇子内親王を養女とし、最後はこの内親王が八条院領を継ぐ。八条院の猶子になっていることから、以仁王が八条院のメガネにかなった優れた人物である事が傍証できる。また、以仁王は女院の女房・三条の局に二人も子をつくるほど親しく通っており、この叔母-甥は親しい付き合いであったと考えられる。八条院は更にその子・三条姫宮を養女にし、膨大な遺産が後白河-閑院流の系統へ流れて行くべく工夫を凝らしている。女院は、頼政-以仁王の謀叛の財政的黒幕の位置にあり、謀叛の計画の一部始終を承知していたと考えられる。八条院暲子は建暦元年(1211)75歳で没。

□女院の制。

一条天皇が、皇太后藤原詮子の為に創始し、上皇に准ずる待遇と院号・門院号により生活と名誉を保証する制度。その後、女院は、その高い地位と豊富な経済力により、政界の隠然たる力となり、時には政治運動の有力拠点となり黒幕となる。女院は、年給(年官年爵)を賦与され、叙位・任官権の一部を握り、栄爵を求める多くの官僚と直接的に結びつくこととなる。

例えば、この年治承4年正月26日の春の除目の叙位案では、皇嘉門院・上西門院・八条院・中宮坊・春宮坊・後白河院皇女前女御琮子から夫々2人(皇嘉門院は1人)の推薦者が上程されている。このように、除目・叙位の度に、朝儀はこの「院宮中文」を受理してこれに応えている。この背後には、叙任されたり、官位を得たりする者と、申請者との間に、利益の交換があることをも意味する。

また、有力政治家は院宮らと結びつき、その力を万全なものにしようとする。例えば、近衛家は鳥羽院后高陽院と結んでその所領をうけ(「吉記」寿永2年12月2日)、松殿家は基房の子隆忠が上西門院の猶子となる(「玉葉」寿永元年7月9日)。九条家は、兼実の子良通が皇嘉門院の養子(「玉葉」承安5年3月6日)、次男良経は高松院の猶子(「玉葉」安元2年3月10日)、3男良輔は八条院の養子となり(「玉葉」文治2年2月4日)、兼実は、八条院女房三位局を娶る(「玉葉」元暦2年9月20日)。


つづく


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