2022年8月2日火曜日

〈藤原定家の時代075〉治承4(1180)6月 頼朝の登場 〈流人頼朝のネットワーク〉 〈頼朝挙兵へと動く〉 〈温情の人〉   

 


〈藤原定家の時代074〉治承4(1180)6月7日~17日 「興福寺の衆徒和平しをはんぬ。」(「玉葉」) 福原(和田)は狭小なので、小谷野や印南野などの案が出て、都地選定は思うにまかせない状況 より続く

治承4(1180)6月

頼朝の登場が近づいてきたので、以下、予備情報として、

〈流人頼朝のネットワーク〉

頼朝は久安3年(1147)生まれ。平治元年(1159)12月の平治の乱での敗走中に、父義朝の一行とはぐれた頼朝(13)は、翌永暦元年(1160)2月、近江国で平頼盛の郎等平宗清に捕えられた。その後、頼朝の身柄は池家(頼盛の一族を六波羅の本邸池殿の名から池家と呼ぶ)のもとに確保され、頼盛の生母で、清盛の義母、池禅尼(いけのぜんに)の保護下に置かれたうえ、伊豆の配所では禅尼の姪(牧の方)の夫となる北条時政の監視と庇護を受けることになった。

頼朝の配所は、北条時政の本拠地である伊豆国田方(たがた)郡北条の蛭ケ島に設けられた。蛭ケ島は、狩野川が田方平野につくり出した中州の一つ。この場所は、江戸中期の郷土史家秋山富南(ふなん)が頼朝配所と考証した地で、寛政2年(1790)の「蛭島碑記」が建てられた。

20年に及ぶ流人生活の間に、頼朝の居所は蛭ケ島から北条の中心部に移り『吾妻鏡』に時政の「北条館」と区別して登場する「北条御亭(ほうじようのごてい)」が頼朝の邸宅にあたると思われる。

頼朝は都に生まれ都に育った人間で、早くから東国で暮らして狩猟や合戦で日を送っていた兄の悪源太義平とは違って都の貴族に近い感覚を持っていた。頼朝は後年に至るまで京都の文物や、京都文化を身につけた人物を愛好していた。

そうした頼朝にとって流人生活の最大の苦痛は「孤独」ということだったろう。大小の武士団が相互に助け合いながら集団行動をとっている東国社会で、13~14歳の頼朝は孤独であったろうと推測できる。

だが、この孤独の中で生き抜いたことによって、頼朝は政治家に必要ないくつかの特性を身につけることができた。その最大のものは、時機が来るまで徹底的に待つという忍耐力である。その他にも頼朝の持っている人間的特性のかなりの部分が、この流人時代に獲得されたものと思われる。そうした特性には、孤独な人間が往々にして内面に抱え込む人なつこさ、人情味、集団の狭間に生きる人間として集団同士をいかに結合させ、あるいは時にいかに解体させるかという政治技術と、その前提としての人間に対する理解力、常に他人の力を使って事を運ぶことを要求されることからくる調和的な態度などが挙げられる。

頼朝の居所には様々な人々が出入りしたが、その関係を整理すれば、

①伊豆・相模の布地武士、②頼朝の乳母関係者、③浪人(亡命者)など

に分類できる。

①伊豆国の布地武士としては、北条時政の一族のほか、工藤茂光宇佐美祐茂(すけしげ)・天野遠景(とおかげ)などが、挙兵前から頼朝のもとに祇候していた(『吾妻鏡』)。

相模国の武士としては、土肥実平(さねひら)・岡崎義実(よしざね)などの名があげられる。土肥実平は在京経験をもち、平氏のもとで閑院内裏の大番役などを務めており、その際に預かった囚人の興福寺西金堂衆土佐房昌俊(とさのぼうしようしゆん)を配所の頼朝に祇候させた。

②頼朝の乳母については、保元4年(1159)3月に没した頼朝の生母が、在京して活動する熱田大宮司藤原季範の娘であり、頼朝も京で生まれ育ったために、多様な人々が関わっている。

まずあげられるのは、頼朝の伊豆配流とともに、夫の掃部允(かもんのじよう)をともなって京から武蔵国比企郡に下向し、配所の頼朝を援助し続けた比企尼である。比企尼は、娘の婿に迎えた安達盛長・河越重頼・伊東祐清に対して、流人の頼朝を扶助するように命じたと伝えられ、実際に、武蔵国の安達盛長は、流人頼朝に近侍し側近として活動した。盛長の年長の甥である足立遠元は、京に出仕し、娘を後白河院近臣の藤原光能の妻にしていたが、盛長自身も京に人脈をもち、「洛陽放遊の客」(『吾妻鏡』治承4年8月2日条)であった大和判官代藤原邦通を、頼朝に右筆(書記役)として推挙している。流人であった頼朝は、側近の盛長を通して京の事情にも通じていたと思われる。

なお、京の最新情報については、頼朝の乳母の妹を母にもつ朝廷の実務官人の三善康信が、毎月三度使者を頼朝のもとに遣わして、洛中の出来事を知らせていたという。

また土肥実平の所領である相模国早河荘には、源義朝の乳母(摩々局ままのつぼね)と頼朝の乳母(摩々)が京から戻り住んでいたことが知られ、二人とも実平と同じ中村氏一族であったと推測される。実平の頼朝に対する献身的な奉仕も、乳母関係者の活動としてとらえられる。

③浪人(亡命者)としては、近江国の佐々木秀義や伊勢の加藤景員(かげかず)が有名である。佐々木秀義は、平治の乱後に本拠地の近江国佐々木荘を没収されたため、奥州藤原秀衡を頼り、子息を連れて相模国まで下ったところ、渋谷荘を本拠地とする渋谷重国に引き留められ、重国の婿となって20年にわたり同地に滞在した。その間、子の定綱・盛綱を配所の頼朝に祇候させて、惜しみない援助を行った。加藤景員は、伊勢国北部を本拠地とする平氏家人であったが、同じ平氏家人の伊藤氏と紛争を起こして伊勢を逐電し、子息を連れて伊豆国の工藤茂光のもとに身を寄せたと伝えられる。佐々木秀義と同じく、景員も茂光の婿となって長期にわたり伊豆に滞在し、子息の光員・景廉(かげかど)が頼朝のもとに祇候した。のちに石橋山合戦に際して北条政子を囲うなど、頼朝に協力した伊豆走湯山(そうとうさん、伊豆山神社)の僧文陽房覚淵も、その兄弟の一人である。

このように流人頼朝の周辺には、近隣の東国武士だけでなく、畿内近国に本拠地をもっていた武士や、京の官人など、様々な人々や情報が集まっていた。

〈頼朝挙兵へと動く〉

既に4月27日、頼朝の叔父源行家が頼朝に以仁王の令旨を届けていたが、頼朝の実際の挙兵は8月17日で、この間3ヶ月以上が経っており、頼朝の挙兵は、以仁王の令旨に応じてなされたものではなかったと考えられる。

頼朝の挙兵準備は、6月19日、三善康信の使者が伊豆に来てからのことである。(次回)

〈温情の人〉

頼朝は実の弟の義経・範頼、叔父の行家など清和源氏一族の有力者たちを滅ぼして自らの地位を固めてきたため、一般には苛烈な情の薄い人物と見られている。だが、時には涙もろい人物ではないかとさえ思える逸話もある。例えば、いつも伊豆権現に参詣する途中、旗挙げ直後の石橋山の合戦で先駆けして命を落とした佐奈田与一・豊三らの墓を見て頼朝が落涙するため、参詣路を変更したという話、鎌倉の頼朝のもとへ父義朝の乳母が参上したので、昔のことを偲びながら、ともに涙したという話などは、頼朝のそうした側面を物語っている。

頼朝は、不遇であった流人時代に世話になった人びとや、義朝ないしそれ以前の旧縁につながる人びとに対して、一貫して手厚い態度をとっている。

頼朝を命乞いしてくれた池禅尼の息子で清盛の異母弟、平瀬盛は平氏が西海へと逃れた際、同行せずに逆に鎌倉へ奔って、頼朝の歓待を受けている。以後、その一族は所領の保持をはじめ頼朝の心の籠った庇護を受ける。あるいは流される頼朝に従者を付けて送ってくれた長田資経(おさだすけつね)の子孫、配所にある頼朝に毎月使者を遣わしてくれた頼朝の亡母の弟祐範(ゆうはん)ら熱田大宮司家の人びと、頼朝の配流に際して夫と共に武蔵国までやって来た比企尼とその一族などが、頼朝に厚く報われている。

だが、頼朝がそうした情愛深く涙もろい面を露わにするのは、女性、僧侶、孤立した武士など、頼朝の地位や生命を脅かす可能性のない人間に対してであった。頼朝は、自然な感情の豊かさの反面、そうした感情に流されない強さの持ち主でもあった。

山内経俊(やまのうちつねとし)は石橋山の合戦で大庭景親方に属して頼朝と戦い斬られることになった。頼朝の乳母であった経俊の老母が助命に参上すると、頼朝は何もいわずに石橋山で着ていた鎧を持ってこさせ、それを老母に示した。鎧の袖に立っている矢の巻口の上に経俊の名が記してあった。それを示された老母は重ねての懇願もできずに退出した。この話が史実だとすれば、頼朝の態度は、単なる人情家には不可能なものである。


つづく


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