2022年8月1日月曜日

〈藤原定家の時代074〉治承4(1180)6月7日~17日 「興福寺の衆徒和平しをはんぬ。」(「玉葉」) 福原(和田)は狭小なので、小谷野や印南野などの案が出て、都地選定は思うにまかせない状況

 


〈藤原定家の時代073〉治承4(1180)6月2日 福原行幸(遷都) 安徳天皇は頼盛邸、高倉上皇は清盛邸雪御所、後白河法皇は教盛邸 「疑うらくは南都を攻めらるべき〈大衆猶蜂起す。敢て和平無しと云々。〉の間、不慮の恐れ有るべきか。・・・或る説、遷都有るべしと。」(兼実「玉葉」) より続く

治承4(1180)

6月7日

「興福寺の衆徒和平しをはんぬ。逃げ籠もる所の者等、上下相併せ二十余人、仰せに随い早く召し進すべきの由申せしむと。」(「玉葉」同日条)。

6月9日

・大納言藤原実定・参議源通親・左中弁藤原経房ら、福原遷都の下見に差遣される。

「輪田において、遷都の地を点定す。左京条里足らず、また右京なしと云々。」(「百錬抄」同日条)。

北に六甲の山迫り、南は海までの傾斜地。九条の筋をつけて地を割ろうにも、一条から五条までで地が尽きる。それなら播磨の印南野か摂津の昆陽野に都を作るべきか、「公卿僉議ありしかども、事行くべしとも見えざりけり。旧都をばすでに浮かれぬ〔離れ出てしまった〕、新都は未だ事行かず。ありとしある人は、身を浮雲の思ひをなす。もとこの所に住む者は地を失って慾へ、今遷る人々は土木の煩ひを欺きあへり。」(「都遷みやこうつり」(「平家物語」巻5)

6月10日

・平清盛(63)に准三宮(太皇太后・皇太后・皇后に準ずる)の宣下。

6月11日

・頼盛の家で議定。遷都が議され、輪田をあてることになるが、その場では決まらず、兼実を呼んで意見を聞くよう清盛が求め、14日の兼実到着を待つ。

輪田は都を造るのには狭いが、どうしたものかとの諮問に対し、兼実は狭くても仕方がないと答える。厳島の内侍が小屋野に造都の地を改めるべしとの託宣を語り、播磨の印南野(イナミノ)に都を造る案も出る、結局、福原を暫定的皇居となし、宅地を人々に配分することで落ち着く。

6月11日

「女院の御方に参る。伝聞、遷都の事、大略一定たりと雖も、下官の参入を待たるると。この事敢えて定め申すべきの趣無し。ただ形勢に随うべきなり。万人此の如し。」(「玉葉」同日条)。

6月12日

・藤原定家(19)、高松院御忌日仏事の参仕。

15日、法勝寺の盂蘭盆に行く。

17日、父俊成の供をして好子内親王に参る。

27日、高倉院の七瀬御祓の使を勤める。

6月14日

・右大臣九条兼実、福原に参向。同月20日に帰洛。

15日、福原から寺江に戻る途中で浜風に吹かれて病状を悪化させ、18日、病のため京都に戻ると高倉院に告げる。以降は、福原に参ることはなかった。

8日、遷都のことについて相談したいので福原に参るようにという高倉上皇の院宣が伝えられ、13日に京都を出発。兼実は病をおして供の諸大夫5人・侍4人・随身2人・女房4人を連れ、草津(京都市右京区)から船に乗り、淀川を下って福原に向かう。兼実と女房の乗る船は藤原邦綱が手配し、その他の船は皇嘉門院の荘園から召したという。

14日寅の刻(午前4時)頃、神崎川河口にある邦綱の寺江山荘に到着。8日の院宣で「福原には住む所がないので、邦綱の寺江山荘に参り、そこから早朝福原に参上し、夜また寺江に帰りなさい」といわれていた。寺江山荘は現在の兵庫県尼崎市内で、福原からは直線で約20km、牛車で半日かかった。この日、寺江ではしばらく休息、未(ひつじ)の一点(午後1時頃)に寺江を発ち、戌の刻(午後8時頃)福原に到着、院御所である頼盛邸に参った。すでに院はお休みとのことで、女房に挨拶だけ済まして退出し、内裏(清盛邸)にも行けなかった。

兼実が諮問された項目は、「一、左京、条里不足の事 一、右京、平地幾(イクバク)ならざるの事 一、大嘗会の事」の3ヶ条。前2条(福原(和田)の地は狭小で宮城や京城(条里)を十分確保できない)について、兼実は、地形の広狭によって定めればよい、不足ならば宮城を縮めても差支えないと述べる。

鴨長明「方丈記」は、「所の有様を見るに、その地(福原)、ほど狭くて、条里を割るに足らず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音つねにかまびすく、潮風ことにはげし」と述べている。

そんな中で、和田郡をやめて摂津国の小屋野(こやの、昆陽野、現伊丹市)にすべきとの意見もあり、清盛も一旦そのように定めるが、厳島内侍の託宣は播磨国の印南野(いなみの)にすべきであったりで、都地選定は思うにまかせない状況となる。

7月になって結局、福原に落着し、そこに内裏を造ることとし諸人への宅地班給や道路開通に取りかかる。

6月16日

・以仁王の乱鎮定祈願の功で石清水別当慶清、弥勒寺講師喜多院院司に還任、権別当成清は弥勒寺の修理を完成したところでその職を解かれる。成清は失脚し、秋頃には石清水を去り、都の西郊・仁和寺の寺域内の近衛紙屋川の旧居に住むことになり、姉の出家した小侍従も同行(小侍従の大宮御所への再出仕の契機となる)。

元暦元年(1184)11月24日成清は5年前の宇佐の殿堂修理の労をねぎらわれ、頼朝の尽力により弥勒寺講師喜多院院司に返り咲く。成清は、仁和寺の閑居を出て高野山随心院に隠遁するが、隠遁中の文治4年(1188)正月10日石清水別当に補任、私財を投じ随心院を再建寄進し、文治5年(1189)3月高野山を出て石清水のに帰る。

6月17日

・藤原定家(19)、父俊成と共に前斎宮亮子のもとに参向。

「六月十七日。晴天。入道殿ノ御供ニテ、前斎宮ニ参ズ。又右少将ノ許ニ渡ラシメ給フ。七条坊門ニ留マリ了ンヌ」(「明月記」)。


つづく



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