治承4(1180)
8月17日
・興福寺追討はしないと決定。少僧都の覚憲・範玄など、以仁王の乱に荷担した弟子たち差し出さなかった僧らの所領没収を決める。翌日、三井寺の門徒僧綱の所領没収処分を解除。
8月19日
・頼朝、北条政子を伊豆山文陽坊覚渕に託し、所領寄進を約束。三島大社に所領寄進。
「関東事施行の始め」として蒲屋御厨安堵の下文発給(親王宣旨状(令旨)により東国沙汰権(支配権)を認められたと主張。頼朝を単なる謀反人と区別するのがこの令旨の存在)。
安房在庁武士安西景益に在庁官人の帰属要請。江戸重長に武蔵在庁官人・郡司の支配権を与える。史大夫中原知親の伊豆目代を解官。
□「吾妻鏡」。
「兼隆が親戚史大夫知親、当国蒲屋の御廚に在り。日者非法を張行し、土民を悩乱せしむの間、その儀を停止すべきの趣、武衛下知を加えしめ給う。邦道奉行たり。これ関東の事施行の始めなり。その状に云く、
下す 蒲屋の御厨住民等の所
早く史大夫知親が奉行を停止すべき事
右東国に至りては、諸国一同、庄公皆御沙汰を為すべきの旨、親王宣旨の状明鏡なり。てえれば、住民等その旨を存じ、安堵すべきものなり。仍って仰せの所、故に以て下す。
治承四年八月十九日
またこの間、土肥の辺より北條に参るの勇士等、走湯山を以て往還の路と為す。仍って多く狼藉を見るの由、彼の山の衆徒等参訴するの間、武衛今日御自筆の御書を遣わされ、これを宥め仰せらる。世上無為に属くの後、伊豆の一所、相模の一所、庄園を当山に奉寄せらるべし。凡そ関東に於いて、権現の御威光を耀かし奉るべきの趣、これを載せらる。茲に因って、衆徒等忽ち以て憤りを慰むものなり。晩に及び、御台所走湯山の文陽房覚淵の坊に渡御す。邦道・昌長等御共に候す。世上落居の程、潛かにこの所に寄宿せしめ給うべしと。 」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「己亥。兼隆の親戚にあたる史大夫(中原)知親は、現在伊豆国の蒲屋御厨におり、日頃から非法ばかり働いて土地の人々を悩ませていたので、それを止めるようにと武衛が御命令を出された。(藤原)邦通が奉行した。これが関東における施政の始めである。その文書は次の通りである。 「下命する 蒲屋御厨住民等の所に。 早く史大夫知親の奉行を停止すべきこと。 右、東国では、全ての国々の庄園・公領はみな(頼朝の)支配下に置くと、親王(以仁王)の宣旨に明らかであるので、住民等はそのことを弁(ワキマ)え、安堵しなさい。そこで、御命令になったところを特に命ずる。 治承四年八月十九日」 またこの時期、土肥の辺りから北条にやってくる勇士たちが、走湯山を往還の道としていた。そのため狼籍が多く見られたと走湯山の衆徒が訴えてきたので、武衛は今日、自筆の御書を送られ、お宥めになった。世情が安定したならば、伊豆国で一カ所、相模国で一カ所の庄園を走湯山に寄進すること、関東において権現の御威光を輝かせるようにするとの趣旨をお書きになった。これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵の坊にお渡りになった。邦通と昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
8月20日
・北条・奈古谷・宇佐美・土肥・土屋・佐々木・中村ら46武将、蛭島郷に参集。頼朝、伊豆を出て相模の土肥郷(神奈川県湯河原町)に入る。21~22日、軍議。
伊豆工藤介茂光・下総千葉介常胤・下野小山介朝政、源氏に味方する。
伊豆国在庁工藤茂光は、藤原秀衡を頼って奥州に逃れた源有綱(伊豆は源頼政の知行国。有綱は頼政の孫)の替わりに頼朝を担ぐ決心をし、一族を率いて頼朝のところに赴く。工藤一族の参加で、80騎に過ぎなかった頼朝の軍勢は、平氏家人伊東祐親と同じ規模の300騎に膨れ上がった。
平家方は、①伊豆伊東祐親(本領の久須美荘の領家は平重盛)、②上野新田義重(新田荘の領家は平清盛娘婿父の藤原忠雅)、③上総千田親正(妻が平清盛の姉)、④下野足利俊綱・忠綱父子(秩父氏と合戦繰返し、女性凶害で足利荘没収されそうなとこを重盛の口添えで安堵される)。
「三浦の介義明が一族已下、兼日進奉の輩有りと雖も、今に遅参す。これ或いは海路を隔てて風波を凌ぎ、或いは遠路を避けて艱難に泥むが故なり。仍って武衛先ず伊豆・相模両国の御家人ばかりを相率い、伊豆の国を出て、相模の国土肥郷に赴かしめ給うなり。扈従の輩 北條四郎 子息三郎 同四郎 平六時定 籐九郎盛長 工藤介茂光 子息五郎親光 宇佐美三郎助茂 土肥次郎實平 同彌太郎遠平 土屋三郎宗遠 次郎義清 同彌次郎忠光 岡崎四郎義實 同余一義忠 佐々木太郎定綱 同次郎経高 同三郎盛綱 同四郎高綱 天野籐内遠景 同六郎政景 宇佐美平太政光 同平次實政 大庭平太景義 豊田五郎景俊 新田四郎忠常 加藤五郎景員 同籐太光員 同籐次郎景廉 堀籐次親宗 同平四郎助政 天野平内光家 中村太郎景平 同次郎盛平 鮫島四郎宗家 七郎武者宣親 大見平二家秀 近藤七国平 平佐古太郎為重 那古谷橘次頼時 澤六郎宗家 義勝房成尋 中四郎惟重 中八惟平 新藤次俊長 小中太光家」(「吾妻鏡」同日条)。
『吾妻鏡』における義時の初見
治承4年(1180)8月20日条の三郎(宗時)と四郎(義時)である。すなわち、山木兼隆を急襲して後、相模国土肥郷をめざした頼朝勢四十六人のなかに、北条四郎時政とともに記載される。
○宗時(?~治承4)。北条時政の男。石橋山の戦いで討死。
○義時(1163長寛元~1224元仁元)。北条時政の男。伊豆国の江馬に居住し、江馬小四郎と称す。父と共に頼朝の挙兵に参じる。
○時定(1145久安元~93建久4)。北条時兼の男。時政の甥。
○親光(生没年未詳)。狩野(工藤)茂光の男。父と共に頼朝の挙兵に加わる。
○宗達(?~1213建保元)。中村宗平の男。相模国大住郡土屋に居住。
○義清(?~建保元)。岡崎義美の男。母は中村宗平の女。
○忠光(生没年未詳)。土屋弥次郎と称される。
○政景(生没年未詳)。天野遠景の男。
○政光(生没年未詳)。宇佐美実政の兄。宇佐美平太・大兄平太を称す。
○実政(?~1213建保元)。宇佐美政光の弟。宇佐美平次・大兄平次。
○景義(?~1210承元四)。景能とも。大庭景忠の男。大庭平太・懐嶋平権守。
○景俊(生没年未詳)。大庭景忠の男。景能の弟。豊田五郎を称す。
○忠常(?~1203建仁3)。新田四郎・仁田四郎と称す。
○景員(生没年未詳)。加藤景清の男。加藤五郎・加藤五を称す。『延慶本平家物語』によれば景員は工藤茂光の婿。
○光員(生没年未詳)。加藤景清の男。加藤太と称す。
○助政(生没年未詳)。堀平四郎・堀四郎。
○光家(生没年未詳)。天野平内。頼朝挙兵時の側近。
○景平(生没年未詳)。中村太郎。
○盛平(生没年未詳)。中村次郎。
○宗家(生没年未詳)。鮫島四郎。
○家秀(生没年未詳)。大兄平次(二)。
○国平(生没年未詳)。近藤七。武勇が認められ、のち鎌倉殿御使として畿内近国に派遣される。
○為重(生没年未詳)。平佐古太郎。
○頼時(生没年未詳)。那古谷橘次。のち、北条氏被官としても活動。
○宗家(生没年未詳)。沢六郎を称す。『源平盛衰記』によれば石橋山の戦で討死。
○成尋(生没年未詳)。小野成任の男。中条氏の一族で、義勝房を称す。
○惟重(生没年未詳)。中原氏。中四郎。○惟平(生没年未詳)。維平とも。中原氏。中八。
○俊長(生没年未詳)。鎌田政家の男。藤井氏。鎌田新藤二。のち、鎌倉幕府政所の案主に就任。
○小早河(土肥)遠平:土
肥実平の嫡子。弥太郎・早河太郎とも称する。父土肥実平と共に、頼朝蜂起に参画。頼朝が真名鶴崎より安房国に向かう際、遠平は使者として、伊豆山の北条政子に頼朝の消息を伝達(「吾妻鏡」治承4年8月28日条)。平家没官領として長門国阿武郡を拝領(「同」文治5年2月30日条)。文治5年(1189)頼朝奥州進発に随行。相模国早河荘内土肥郷(小田原市)を本拠とし、遠平の代から小早河(川)氏を称する。また、戦功により安芸国沼田荘の地頭職に任じられる。建仁2年(1202)早河荘が箱根権現と中分する(「同」建仁2年5月30日条)。実子惟平が和田合戦で処罰され、平賀義信の子景平を養子とし、その子茂平の時、安芸国沼田荘に移住。
つづく
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