2022年10月27日木曜日

大船フラワーセンター 明日(10/28)から菊花大会 秋バラ ススキ センジュギク フユザクラ サザンカ シュウメイギク デュランタ コスモス(どんどん花の数が増えて元気) 2022-10-27

 10月27日(木)、晴れのち曇り

大船フラワーセンター。

コスモスが依然元気。まだどんどん花の数を増やしている。残念なのが秋バラ。気のせいかな、枝ぶりが貧弱でさびしいように見える。

▼明日(10/28)から菊花大会 写真は準備中の菊


▼秋バラ 上が「春の舞」、下が「トーナメント・オブ・ローゼス」



▼ススキ

▼マリーゴールド、と思ったが、グーグル・レンズはセンジュギク(アフリカンマリーゴールド)だと教えてくれている。

▼フユザクラ

▼サザンカ(七福神)

▼シュウメイギク

▼デュランタ(青)

▼コスモス



ふざけるな! 政府税調「消費税増税」大合唱の不可解 日本だけ物価高に苦しむ庶民に追い打ち(日刊ゲンダイ); 「政府税制調査会」で、複数の委員から「消費税率をアップすべき」との意見が相次ぎました。庶民が生活苦に喘いでいることも知らないのでしょうか。本来、国民生活を守るために消費税は「増税」ではなく「減税」するのが当たり前なのでは?     

〈藤原定家の時代161〉寿永2(1183)年12月19日~25日 定家(22)正五位下叙任 広常誅殺(粛清①)「双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸をかいきりてもちきたりける。まことしからぬ程の事也。」(「愚管抄」) 平家の京都奪還が現実味を帯び始めてくる       


 〈藤原定家の時代160〉寿永2(1183)年12月1日~10日 義仲、院御厩別当に就任 「義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞う」(「玉葉」) 「南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと」(「玉葉」) 義仲、頼朝追討使に任命される より続く

寿永2(1183)年

12月19日

・藤原定家(22)、八条院の年給により正五位下に叙任。

12月22日

・西国出撃遠征拒絶論掃討(粛清①)

有力御家人(三大功人の一人)上総権介広常、大倉御所に出仕し、双六に事寄せ、朝の密命受けた梶原景時により誅殺。広常嫡男能常、自殺。広常旗下の周西助忠など上総伊南・伊北・庁南・庁北・周東・周西の武士達は御家人となる。翌年1月8日、上総一宮奉納の甲の願文で上総広常の忠誠心が明らかになる。

「その介の八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなり。双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸をかいきりてもちきたりける。まことしからぬ程の事也。」(「愚管抄」)。

「まことしからぬ程の事也。」; 本当にあった事とは思えないほどだ。

広常の言葉、「なんでう朝家の事をのみ身ぐるしく思ぞ、ただ坂東にかくてあらんに」(「愚管抄」)。王朝側との関係修復への転換をめざす頼朝の政治方針は、広常にとっては東国の実力占拠を放棄した中央への屈伏とみえる。この前後、寿永2年の宣旨・治承年号の放棄など、この時期、頼朝は簒奪による反乱政権の限界を感じ、王朝への歩み寄りを始める。

建久元年(1190)上洛した頼朝が後白河に語った事として『愚管抄』が記す。

「広常は東国きっての有力者で、頼朝にとって功績ある者だったが、何かというと、頼朝はどうして朝廷や王家のことばかりみっともなく気にするのだ、ただわれわれが坂東でこうしてやっていこうとするのを、いったい誰が「引はたらか(力を及ぼ)」すことができるというのか、などと放言するような「謀反心」を持つ者だったので、かようなものを郎従にしておれば、頼朝まで神仏の加護を失うことになると思って殺した」

12月24日

・この日、兼実のところに大外記(げき)清原頼業(よりなり)が来て、世事を語りあった。外記は太政官の事務部門の一局、議政官の書記役で、詔書の検討、奏文の作成、公事・儀式への奉仕などをつかさどり、大外記はその長である。

頼業は安徳天皇が京都に還ってきたら、現在の後鳥羽天皇はどうなるのでしょうか、ことによると六条天皇のような形になるのでしょうかと問う。六条は20年近く前の永万元(1165)年6月、父二条天皇の病による退位をうけて2歳で即位した天皇で、仁安3(1168)年2月には、位を後白河上皇の皇子憲仁親王(高倉天皇)に譲って上皇になった。滋子を母とする皇子を即位させるためであるが、後白河からいうと天皇(高倉)は子(8歳)で上皇(六条)は孫(5歳)という例のない変則な事態であった。頼業は、兄の安徳が復帰すれば、弟の後鳥羽は数カ月の在位で、元服の式もないまま放置され13歳で亡くなった六条同様、まったく実権のない上皇に追いやられるのでは、と観測した

こういう話題が出るのは、平家の京都奪還が現実味を帯び始めた証拠。

のちに捕虜となった重衡は、尋問を受け平家は兼実が「天下を知る(治める)べきの由」を決めていたと述べている(『玉葉』元暦元年2月19日条)。平家が天下の権を奪回した時は、兼実を幼主安徳の摂政とする天皇親政、つまり後白河を治天の君から追放する政権構想を固めていたことを意味する。

12月25日

・藤原定家(22)、賀茂臨時祭舞人を勤仕。


つづく


岸田内閣「更迭候補33人」疑惑底なし!旧統一教会問題ノーマークの大串副大臣から始まる“辞任ドミノ”(日刊ゲンダイ) / 山際経済再生相“更迭”で始まった岸田内閣の辞任ドミノ…次にクビになるのは「この大臣」(日刊ゲンダイ);「野党が真っ先にターゲットに挙げるのは、親族を通じた政治資金還流が取り沙汰される秋葉復興相だ…寺田総務相にも同様の脱税疑惑が浮上…「教団との関係の説明責任を果たしていない点では、細田衆院議長も萩生田政調会長も“同罪”です」」    

大阪万博の「闇」第4回 「ホンマにやりたい放題や」…関係者も呆れる「大阪万博」の理解しがたい実態  / 第3回 「大阪万博」が汚れた東京五輪の二の舞に…シャワーヘッド「ミラブル」を売る新興企業の正体 / 第2回「大阪万博・大阪パビリオン」プロデューサーの顧問先企業が”最高位”スポンサーに決定した「不可解」 / 第1回 「大阪ワクチン」失敗のお騒がせ男が、「大阪万博」総合プロデューサーになっていた! (森 功, 週刊現代)   



 

2022年10月26日水曜日

杉田政務官 総務省の中傷対策「知らない」と唖然の答弁連発「資格も資質もない」と怒りの声(女性自身) / 杉田水脈・総務政務官、総務省のSNS誹謗中傷対策「存じ上げない」(毎日) / 杉田水脈政務官、初答弁で「控えたい」繰り返す 過去の発言や判決に(朝日) / 杉田水脈氏、中傷ツイートに「いいね」で名誉毀損判決 総務政務官続投でも「いいね」なの?(東京) ← 任命責任も問われるべき / 杉田水脈議員が敗訴 高裁で「いいね」が名誉感情を害する意図があると認められた理由(小川たまか) / 伊藤詩織さんに「女として落ち度」 杉田水脈氏の差別発言の数々(毎日) / 伊藤詩織さん「指先一つでどれだけ傷つけるか、深く受け止めて」杉田議員に逆転勝訴、ネット中傷への心情明かす 杉田水脈議員の事務所は判決を受け、「原審と異なる判断をされたことから、判決内容をよく精査し、対応を検討します」とのコメントを出した。(ハフポスト日本版) / 中傷投稿「いいね」、名誉侵害 伊藤さん逆転勝訴、杉田氏賠償―東京高裁(時事); ジャーナリストの伊藤詩織さんが、ツイッター上で自身を中傷する多数の投稿に「いいね」を押され、名誉を傷つけられたとして、自民党の杉田水脈衆院議員に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は請求を棄却した一審判決を変更し、杉田氏に55万円の賠償を命じました。 / 岸田さんが総務政務官に任命した杉田水脈議員 / 「『枕営業の失敗』などとする複数の匿名の投稿がされた。杉田議員は18年6~7月、こうした投稿25件に『いいね』を押した」   


 

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七里ヶ浜からの富士山 2022-10-26

 10月26日(水)

七里ヶ浜からの富士山(午後1時頃)。

昨日は、かなり下の方まで雪が積もった富士山だったが、今日はだいぶ解けたようだ。


▼風が強い割に波の静かな海だった。



▼行合橋と江ノ電

▼インスタグラム(駐車場から見た富士山)

旧統一教会との「関係を断つ」盛り込まず 自民党の行動指針改定はあいまい表現、統一地方選でも抜け道(東京);「立候補者の公認などは「各都道府県連が指針に基づいて判断することになる」(党幹部)見通しだ。事実上、地方組織に丸投げする形で、東海地方の自民党市議は「地方議員の中には現役の信者と思われる人物もいる。何かがあった時、党本部に責任が飛び火しないよう予防線を張ったのでは」と話す。」   

年金“65歳まで納付”に?5年延長で負担100万円増 「信じられない」「諦めの境地」と不安の声…老後の暮らしどう守る(FNNプライムオンライン) / 年金保険料「納付5年延長」の衝撃! 1人100万円の“大増税”を国民に押し付け、給付はケチる(日刊ゲンダイ); 厚労省が社会保障審議会の年金部会で、国民年金保険料の納付期間を、現行の20歳から59歳までの40年間から、64歳までの45年間に延長する議論をスタートさせました。 年間約20万円、5年間で約100万円も国民の負担が増えることになります       

 

〈藤原定家の時代160〉寿永2(1183)年12月1日~10日 義仲、院御厩別当に就任 「義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞う」(「玉葉」) 「南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと」(「玉葉」) 義仲、頼朝追討使に任命される             

 



寿永2(1183)年

12月

・大江広元、鎌倉へ下向。

大江広元:

文官貴族の家に生れる。中原親能(後白河院と頼朝の交渉使者)の弟。若い頃、外記局最高責任者・大外記清原頼業の補佐をする。

清原頼業:

清少納言の家系。藤原頼長に認められ、大外記・明経博士・高倉天皇侍読となる。後白河院・平家に批判的で九条兼実とは意気投合。

12月1日

・義仲、院御厩別当(いんのみうまやのべつとう)に就任。院御厩に集まる馬は宮廷儀礼や神事のために諸国から献上された儀礼用の馬であったが、義仲は軍馬の入手先として強引に要求。

12月2日

・義仲、摂関家領のうち85ヶ所を、5日には平家領全てを管領することを認めさせる。

「一所の御庄々八十五所、義仲これを申し給う。前の摂政御家領(高陽院・京極殿已下すでに多し)、元の長者に付けず。所々押し籠め御沙汰有りと。」(「吉記」同日条)。

「伝聞、義仲一所を賜い八十六個所を領すと。また新摂政政所始め去る二十八日と。」(「玉葉」同3日条)。

12月2日

・軍事的に劣勢となり、頼朝と平家に東西から挟撃され苦境に立った義仲は、翌年正月中旬まで、平家との間に和平の途を模索する。京都では平家入京近しの噂が頻々と流れた。いったんは義仲は後白河を平家に預け近江に下って頼朝軍を迎撃、平家は寿永3(1184)年正月13日に入京するという合意が成立したが、義仲が後白河を連れて本拠の北陸に下ると聞くに及んで、ご破算になる。

〈平氏の勢力恢復  前進基地一ノ谷陣地を構築〉

平氏側は、義仲の使者を播磨の室泊で迎えている。平氏は次第に勢力を恢復して、瀬戸内海沿岸を東に進み、諸処の要地を支配下に入れながら、寿永2年(1183)末頃には、播磨から摂津にまで、その勢力を及ぼして来ている。そして、京都を舞台に源氏同士の争いが展開されている間に、摂津の福原に前進基地の構築をすすめていた。いわゆる一ノ谷陣地である。

「伝聞、義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞うと。また聞く、去る二十九日平氏と行家と合戦す。行家軍忽ち以て敗績し、家子多く以て伐ち取られをはんぬ。忽ち上洛を企つと。また聞く、多田蔵人大夫行綱城内に引き籠もる。義仲の命に従うべからずと。」(「玉葉」同日条)。

「平氏一定入洛すべしと。行家去る二十八日合戦の由、世ニ嗷々す。」(「吉記」同3日条)。

12月5日

「伝聞、平氏猶室に有り。南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと。平氏竊に院に奏し可許有りと。また義仲使を差し同意すべきの由を平氏に示すと。平氏承引せずと。」(「玉葉」同日条)。

12月7日

・義仲は、近江・伊勢まで軍勢を進めた頼朝と戦うべく覚悟した時から、平氏と和平を結び、平氏の軍勢を京都に迎え入れて連合することを考えるようになった。九条兼実や吉田経房の掴んでいた情報から、平氏がこれを京都に帰るひとつの方法として、最大限に利用しようと交渉していたことがわかる。この日、平氏は義仲の提案を無下に却下せず、上洛を視野に入れた交渉に入ったと伝える情報が京都に流れている(『玉葉』)。

12月8日

「亥の刻に及び、或る人告げて云く、明日延暦寺を攻むべしと。驚奇極まり無し。凡そ日来山門衆徒蜂起す。甚だ以て甘心せられず。世の時として、訴訟も遺恨も有るべき事なり。近日の事、ただ知らざるが如く見えざるが如くにて有るべきの処、大衆蜂起の條、還って後鑒の恥を為すべき所たるか。当時またこの蜂起に依って、寄せ攻めらるべしと。」(「玉葉」同日条)。

「山僧東西の坂に城を構えんと欲す。また近江の通路これを塞ぐ。」(「吉記」同9日条)。

「山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もるの條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もるの條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、なり。而るに山門追討の儀、また忽ち然るべからずと。仍って義仲に触れらるるの処、案の如く許有り。・・・この夜臨時の除目を行わる。義仲左馬の頭を辞退す。また天台座主(俊尭僧正)を仰せ下さると。」(「玉葉」同10日条)。

「伝聞、山の大衆蜂起す。和平相半ばすと。」(「玉葉」同12日条)。"

12月10日

・義仲、法皇を強要し、院庁下文により頼朝追討使に任命される。

15日には、鎮守府将軍秀衡にも陸奥・出羽の兵を率い、義仲と共に頼朝を討つよう院庁下文が発給される。

「院の廰御下文到来す。鎮守府将軍(秀衡)に仰せらるる状に云く、早く左馬の頭源の義仲相共に陸奥・出羽両国の軍兵を率い、前の兵衛の佐頼朝を追討すべしと。」(「玉葉」同15日条)。

12月10日

・後白河、延暦寺の院家無動寺(むどうじ)に百ヵ日参籠すると称して登山し、義仲に身柄を拘束される前に京都を離れる。

12月10日

・藤原隆房(36)、参議兼右兵衛督となる。 この日の臨時除目は新任摂政師家(12歳)に代って父の(松殿)基房が執り行い「善政相交じはる」と評判が良かった(「吉記」)。


つづく