2022年10月26日水曜日

〈藤原定家の時代160〉寿永2(1183)年12月1日~10日 義仲、院御厩別当に就任 「義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞う」(「玉葉」) 「南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと」(「玉葉」) 義仲、頼朝追討使に任命される             

 



寿永2(1183)年

12月

・大江広元、鎌倉へ下向。

大江広元:

文官貴族の家に生れる。中原親能(後白河院と頼朝の交渉使者)の弟。若い頃、外記局最高責任者・大外記清原頼業の補佐をする。

清原頼業:

清少納言の家系。藤原頼長に認められ、大外記・明経博士・高倉天皇侍読となる。後白河院・平家に批判的で九条兼実とは意気投合。

12月1日

・義仲、院御厩別当(いんのみうまやのべつとう)に就任。院御厩に集まる馬は宮廷儀礼や神事のために諸国から献上された儀礼用の馬であったが、義仲は軍馬の入手先として強引に要求。

12月2日

・義仲、摂関家領のうち85ヶ所を、5日には平家領全てを管領することを認めさせる。

「一所の御庄々八十五所、義仲これを申し給う。前の摂政御家領(高陽院・京極殿已下すでに多し)、元の長者に付けず。所々押し籠め御沙汰有りと。」(「吉記」同日条)。

「伝聞、義仲一所を賜い八十六個所を領すと。また新摂政政所始め去る二十八日と。」(「玉葉」同3日条)。

12月2日

・軍事的に劣勢となり、頼朝と平家に東西から挟撃され苦境に立った義仲は、翌年正月中旬まで、平家との間に和平の途を模索する。京都では平家入京近しの噂が頻々と流れた。いったんは義仲は後白河を平家に預け近江に下って頼朝軍を迎撃、平家は寿永3(1184)年正月13日に入京するという合意が成立したが、義仲が後白河を連れて本拠の北陸に下ると聞くに及んで、ご破算になる。

〈平氏の勢力恢復  前進基地一ノ谷陣地を構築〉

平氏側は、義仲の使者を播磨の室泊で迎えている。平氏は次第に勢力を恢復して、瀬戸内海沿岸を東に進み、諸処の要地を支配下に入れながら、寿永2年(1183)末頃には、播磨から摂津にまで、その勢力を及ぼして来ている。そして、京都を舞台に源氏同士の争いが展開されている間に、摂津の福原に前進基地の構築をすすめていた。いわゆる一ノ谷陣地である。

「伝聞、義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞うと。また聞く、去る二十九日平氏と行家と合戦す。行家軍忽ち以て敗績し、家子多く以て伐ち取られをはんぬ。忽ち上洛を企つと。また聞く、多田蔵人大夫行綱城内に引き籠もる。義仲の命に従うべからずと。」(「玉葉」同日条)。

「平氏一定入洛すべしと。行家去る二十八日合戦の由、世ニ嗷々す。」(「吉記」同3日条)。

12月5日

「伝聞、平氏猶室に有り。南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと。平氏竊に院に奏し可許有りと。また義仲使を差し同意すべきの由を平氏に示すと。平氏承引せずと。」(「玉葉」同日条)。

12月7日

・義仲は、近江・伊勢まで軍勢を進めた頼朝と戦うべく覚悟した時から、平氏と和平を結び、平氏の軍勢を京都に迎え入れて連合することを考えるようになった。九条兼実や吉田経房の掴んでいた情報から、平氏がこれを京都に帰るひとつの方法として、最大限に利用しようと交渉していたことがわかる。この日、平氏は義仲の提案を無下に却下せず、上洛を視野に入れた交渉に入ったと伝える情報が京都に流れている(『玉葉』)。

12月8日

「亥の刻に及び、或る人告げて云く、明日延暦寺を攻むべしと。驚奇極まり無し。凡そ日来山門衆徒蜂起す。甚だ以て甘心せられず。世の時として、訴訟も遺恨も有るべき事なり。近日の事、ただ知らざるが如く見えざるが如くにて有るべきの処、大衆蜂起の條、還って後鑒の恥を為すべき所たるか。当時またこの蜂起に依って、寄せ攻めらるべしと。」(「玉葉」同日条)。

「山僧東西の坂に城を構えんと欲す。また近江の通路これを塞ぐ。」(「吉記」同9日条)。

「山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もるの條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もるの條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、なり。而るに山門追討の儀、また忽ち然るべからずと。仍って義仲に触れらるるの処、案の如く許有り。・・・この夜臨時の除目を行わる。義仲左馬の頭を辞退す。また天台座主(俊尭僧正)を仰せ下さると。」(「玉葉」同10日条)。

「伝聞、山の大衆蜂起す。和平相半ばすと。」(「玉葉」同12日条)。"

12月10日

・義仲、法皇を強要し、院庁下文により頼朝追討使に任命される。

15日には、鎮守府将軍秀衡にも陸奥・出羽の兵を率い、義仲と共に頼朝を討つよう院庁下文が発給される。

「院の廰御下文到来す。鎮守府将軍(秀衡)に仰せらるる状に云く、早く左馬の頭源の義仲相共に陸奥・出羽両国の軍兵を率い、前の兵衛の佐頼朝を追討すべしと。」(「玉葉」同15日条)。

12月10日

・後白河、延暦寺の院家無動寺(むどうじ)に百ヵ日参籠すると称して登山し、義仲に身柄を拘束される前に京都を離れる。

12月10日

・藤原隆房(36)、参議兼右兵衛督となる。 この日の臨時除目は新任摂政師家(12歳)に代って父の(松殿)基房が執り行い「善政相交じはる」と評判が良かった(「吉記」)。


つづく



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