〈藤原定家の時代160〉寿永2(1183)年12月1日~10日 義仲、院御厩別当に就任 「義仲使を差し平氏の許(播磨の国室泊に在りと)に送り和親を乞う」(「玉葉」) 「南海・山陽両道大略平氏に同じをはんぬと。また頼朝と平氏と同意すべしと」(「玉葉」) 義仲、頼朝追討使に任命される より続く
寿永2(1183)年
12月19日
・藤原定家(22)、八条院の年給により正五位下に叙任。
12月22日
・西国出撃遠征拒絶論掃討(粛清①)
有力御家人(三大功人の一人)上総権介広常、大倉御所に出仕し、双六に事寄せ、朝の密命受けた梶原景時により誅殺。広常嫡男能常、自殺。広常旗下の周西助忠など上総伊南・伊北・庁南・庁北・周東・周西の武士達は御家人となる。翌年1月8日、上総一宮奉納の甲の願文で上総広常の忠誠心が明らかになる。
「その介の八郎を梶原景時してうたせたる事、景時がかうみやう云ばかりなり。双六うちて、さりげなしにて盤をこへて、やがて頸をかいきりてもちきたりける。まことしからぬ程の事也。」(「愚管抄」)。
「まことしからぬ程の事也。」; 本当にあった事とは思えないほどだ。
広常の言葉、「なんでう朝家の事をのみ身ぐるしく思ぞ、ただ坂東にかくてあらんに」(「愚管抄」)。王朝側との関係修復への転換をめざす頼朝の政治方針は、広常にとっては東国の実力占拠を放棄した中央への屈伏とみえる。この前後、寿永2年の宣旨・治承年号の放棄など、この時期、頼朝は簒奪による反乱政権の限界を感じ、王朝への歩み寄りを始める。
建久元年(1190)上洛した頼朝が後白河に語った事として『愚管抄』が記す。
「広常は東国きっての有力者で、頼朝にとって功績ある者だったが、何かというと、頼朝はどうして朝廷や王家のことばかりみっともなく気にするのだ、ただわれわれが坂東でこうしてやっていこうとするのを、いったい誰が「引はたらか(力を及ぼ)」すことができるというのか、などと放言するような「謀反心」を持つ者だったので、かようなものを郎従にしておれば、頼朝まで神仏の加護を失うことになると思って殺した」
12月24日
・この日、兼実のところに大外記(げき)清原頼業(よりなり)が来て、世事を語りあった。外記は太政官の事務部門の一局、議政官の書記役で、詔書の検討、奏文の作成、公事・儀式への奉仕などをつかさどり、大外記はその長である。
頼業は安徳天皇が京都に還ってきたら、現在の後鳥羽天皇はどうなるのでしょうか、ことによると六条天皇のような形になるのでしょうかと問う。六条は20年近く前の永万元(1165)年6月、父二条天皇の病による退位をうけて2歳で即位した天皇で、仁安3(1168)年2月には、位を後白河上皇の皇子憲仁親王(高倉天皇)に譲って上皇になった。滋子を母とする皇子を即位させるためであるが、後白河からいうと天皇(高倉)は子(8歳)で上皇(六条)は孫(5歳)という例のない変則な事態であった。頼業は、兄の安徳が復帰すれば、弟の後鳥羽は数カ月の在位で、元服の式もないまま放置され13歳で亡くなった六条同様、まったく実権のない上皇に追いやられるのでは、と観測した。
こういう話題が出るのは、平家の京都奪還が現実味を帯び始めた証拠。
のちに捕虜となった重衡は、尋問を受け平家は兼実が「天下を知る(治める)べきの由」を決めていたと述べている(『玉葉』元暦元年2月19日条)。平家が天下の権を奪回した時は、兼実を幼主安徳の摂政とする天皇親政、つまり後白河を治天の君から追放する政権構想を固めていたことを意味する。
12月25日
・藤原定家(22)、賀茂臨時祭舞人を勤仕。
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