2012年2月23日木曜日

仁和3年(887) 光孝天皇没し、宇多天皇即位  阿衡の紛議起こる

横浜 東戸塚 白旗神社(2012-02-12)
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仁和3年(887)
8月22日
・太政大臣藤原基経たち公卿が光孝天皇に皇太子を立てることを請う。
光孝の健康状態がかなり悪化していたと考えられる。

天変地異の恐怖のなかで、老天皇は次第に気力を失い危篤に陥る。
光孝は、太政大臣基経を憚り、死期に臨んだ日にもまだ皇嗣を決めずにいた。

光孝は特定の人をあげなかったが、第七皇子源定省(さだみ)を密かに望んでいるらしいと察知して、基経はこれを推戴することに決め、廟議にかけた。
定省は臣籍に降下していたことが、先例が無いこともあり問題になるかも知れない。
先に光孝擁立の際、源融が自薦したところ、先例なしを理由にそれを退けたことがある。
しかし、融は、源定省推挙の時に左大臣として廟議に列していたが、ことさらにはことを荒らだてなかったようである。
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8月25日
・源定省(さだみ、21、後の字多天皇)を皇太子にすることに決し親王に復位、翌日立太子、ついで践祚。
直後に光孝天皇は没する。

基経は必ずしも源定省を気に入ってはいなかったが、基経の妹で当時後宮に大きな勢力を持っていた尚侍(ないしのかみ)藤原淑子(よしこ)が熱心に定省を推したので、これに従ったと言われている。

皇位についた宇多が、ある日、陽成院(廃帝後の居所)のそばを通ったところ、廃帝は憤懣の感情をこめて、「当代(宇多)は家人にあらずや」と側近にたいして嘲罵したという。
陽成在位の時代に、源走省は殿上人として奉仕しており、神社行幸にさいしては舞いを命じられたことがある。
陽成上皇から嘲られたが、少年期の終わり天皇家の「家人」として境遇で過ごし、そこでいくらか基経執政の内情に触れてきたことは、字多にとっては天皇としての強みであった。
また、老父光孝の親政への執念も知っていた筈である。

『三代実録』の記事が光孝天皇没の仁和3年8月条で途絶えてから、貴族の日記が出てくるまでの9世紀末~10世紀前半は、詳しい年代記に欠ける史料の空白時代である。

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11月
・阿衡の紛議

宇多天皇の治世に当たり、太政大臣基経は先に光孝天皇から与えられた事実上の関白の地位は一旦消滅したものと考えた。

宇多は、11月の即位式直後、勅書を基経に与えて切に教導を要望し、重ねて参議左大弁橘広相の起草した詔を基経に下した。
「それ万機の巨細、百官已(すで)に総(す)べ、みな太政大臣に関白し、然る後に奏下、一に旧事のごとく、主者施行せよ」というもので、「関白」がこの詔書で初めて用いられた。
だが、関白の職権そのものは先帝の時代からの最高執政の慣行であり、それの継続にあたって、その実態がより明確にされたまでのことであった。

閏11月26日
基経は、これに対し紀長谷雄の筆になる辞表を差し出した。
この辞意は、当時の高級官僚の礼に従ったもので、再三推譲のあとにその官職につくことが予想されているものである。

翌27日
天皇は、橘広相に命じて勅答を作らせ、これを基経に与えた。
それはさきの詔書の趣旨を一層懇切に敷衍し、強調したものであった。
ただそこに「宜しく阿衡(あこう)之佐(たすけ)を以て卿の任と為べし」という新しい文言があったために、事態が紛糾した。

「阿衡」は、股の時代の名相伊尹(いいん)が任じられた官と伝えられているが、具体的な職掌は明確でない。
任官命令は、諸葛孔明の例のごとく、三度は辞退するのが礼とされており、その辞退はもちろん認められるものではない。
宇多天皇の側としては、最初の命令を撒回して名誉職に任じたつもりではなかった。

関白は、光孝天皇が考え出した特殊な任務であるが、基経は関白に執着したようで、ここで関白を制度的に確立しておこうとした。
もし、「阿衡」を引き受けると、単なる名誉職に追い込まれる可能性もありえる。
また、自分の権威を新天皇に見せつけておこうという腹もあった。

更に、「阿衡」の勅命を起草した橘広相に対する反感もあった。
広相は、宇多の近臣であり、参議左大弁で、文人貴族の代表である。
その娘義子(ぎし)は、源定省時代の宇多と結婚しており、義子と宇多との間には、既に斉中(ときなか)・斉世(ときよ)の2人の皇子がいた。天皇の長子維城親王(後、敦仁親王、醍醐天皇)は藤原高藤の娘が産んでおり、この時点では基経は外戚ではなかったので、基経に万一のことがあれば、広相が天皇の外戚になることも十分に予想された。

また、宇多は広相を「学士」(翰林学士)と呼んでいた。
翰林学土は、中国では皇帝の諮問に与る直属の官職で、宇多は、広相に翰林学士を重ね合わせ、藤原氏に対抗しようとしていた。

また、学者同士の反目がこれに絡む。
9世紀には唐風文化に基づいて、中国に対する知識が豊富で漢詩文をうまく作れる人物が重用された。
これら「文人貴族」の多くは派閥を形成し、互い牽制しあっていた。
藤原氏に近いのが藤原佐世(すけよ)・三善清行(みよしのきよつら)らで、宇多天皇に近侍したのが橘広相・菅原道真らである。

広相を追い落とそうとする三善清行らは、基経の不安を煽り立てた。
紀伝博士の藤原佐世(すけよ)は、基経に対し、「阿衝は位貴きも職掌なし、依りて公は摂政を停められしものと解すべきではないか」と説き、基経は佐世の説をうけいれ、それ以後、朝政をすてて顧みなかった。

年を越えても阿衡を巡る天皇と太政大臣基経の確執は解けず、国政は渋滞した。

仁和4年4月
左大臣源融はこの間題に介入し、博士善淵愛成(よしぶちのちかなり)、大学の助教中原月雄らに依嘱して、阿衡がはたして職掌がないかを考究させた。
かれらの結論は佐世の解釈とほぼ同様であった。
広相は、これに反駁する一文を朝廷にさしだした。
朝廷が、藤原佐世・三善清行・紀長谷雄らに、これについての所見を求めると、彼らは広相の説をしりぞけた。

阿衡の紛議は泥仕合の醜状を呈してきた。

藤原佐世は、基経の家司(いえづかさ)をつとめたことがあった。
藤原氏のなかでは数すくない儒臣で、氏長者としての基経はつねに目をかけていた。立身欲につかれた佐世には、同じ儒臣である橘広相が参議にまでのぼり、その女義子(ぎし)が天皇の女御になり、二人の皇子をもうけていることが妬ましいかぎりであった。
彼はこの点にふれて基経の猜疑をあおったのであろう。
儒臣の学閥争いが政争に絡んでいる。
宇多天皇は難局の打開に窮し、広相・佐世を殿上に招致して対論させたりもしたが、ことここにいたっては解決がつくはずもなかった。
基経はがんとして態度をかえなかった。

広相は、「阿衡」は三公に当たることを認め、その上で、三公に職が無いのは、周の時代の話であって、後代の三公の職は、統べないところがない、という論理で論駁しようとしていた(『宇多天皇日記』仁和4年6月5日条)。
しかし、唐の三師三公を引き合いに出して太政大臣に職掌なし、という結論が引き出されたばかりであり、「阿衡」が三公に当たるとすると、「阿衡」に職掌無し、ということになる。

宇多も認めてるように、広相の文章は華麗に走りすぎ、いたずらに「阿衡」の語を引いたばかりに、つけいる隙を与えてしまった(『宇多天皇日記』仁和4年9月10日条)。
有力文人である藤原佐世(すけよ)も広相の論には矛盾があるとして基経の姿勢に理解を示した。

基経が関白の地位を確立し、且つ広相を追い落とすことを目的としていた以上、「何が問題なのか分からない」という守勢に立つ広相は、結局は不適切な表現であったと詫びざるをえなくなった。

天皇は阿衡の言葉の失当を認める宣命をくだして、基経の圧力に屈服せざるをえなかった。

朝廷は、阿衡の紛争にほぼ半年を空費した。

もともと天皇には、正面から基経とことをかまえる腹は全然なく、また二人の不和につけこんでなにごとかを策する勢力もなかった。
他方、基経も、天皇に対して嫌がらせをしているだけで、それで即位したばかりの字多の出鼻をくじくことができれば、まずしめたものだくらいの思惑であった。
天皇の屈服によって広相もまたこの論争から手をひかねばならなかった。

事件の結果、宇多は心ならずも広相の非を認め、基経を新たに関白とし、基経の娘である温子(おんし)を入内させることで事態の収拾をはかった。

宇多の治世は、基経への屈服という屈辱的なかたちで開始される。

都を逐われ讃岐守にあった学界の旗頭菅原道真は、いたたまれずに上京し、この論争の不毛性を基経に訴える。
広相も藤原佐世も道真の父是善の門人であり、また佐世には道真の娘が嫁いでいるという関係なので、仲裁に出た。
しかし道真も、かつて三公には職掌無しと奉答しており、論理的に広相を庇うことは出来ない。

10余年後、右大臣にまで昇った道真は、大宰府に左遷されるが、その時の藤原時平側の不安材料の中には、道真の地位だけではなく、娘を宇多天皇の後宮に入れたり、宇多と広相の娘義子との間に生まれた斉世親王に嫁がせたりする道真の姿勢にもあった。
外戚の地位に就く可能性を求めた点では、道真は広相の轍を踏んだことになる。
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11月17日
・定省親王が即位し、第59代天皇・宇多天皇となる。
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2012年2月22日水曜日

「除染」で溜まった汚染土を、校庭に埋めている(米CBSニュース)

アメリカCBSニュースが、

「除染」で溜まった汚染土を、校庭に埋めている南相馬の除染作業を

報道した。


ブログ「みんな楽しくHappyがいい」さんが、いつものように日本語を起こしてくれている。

たいへんな間違いを犯してませんか?

栃木県の渓流のヤマメから最大248ベクレルの放射性セシウムが検出される

栃木県の渓流のヤマメから最大248ベクレルの放射性セシウムが検出され、栃木県は渓流釣り解禁延期を要請したという。

読売オンライン

MSNニュース

水清き渓流に、目に見えぬ放射能汚染が広がっている。

山に降り積もった放射能が、雨に流されて渓流に流れ込む。

そして、幾つかの渓流が大河となって、放射能を海に流し込む。

海には半減期がくるまで消え去らない放射能が蓄積される一方だ。

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河川・湖沼への放射能汚染の調査結果(環境省による)が出た(コチラ)。
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群馬県でも渓流のヤマメに最大336ベクレル検出したが、対応は、食用にしないように指導を徹底する、というもの(?)(コチラ)
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(追記)
「フライの雑誌社」(コチラ)では、埼玉、東京、神奈川などの川魚の汚染データが纏めてある。
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東京 北の丸公園の梅 2012-02-22

今日(2月22日)は一日中曇天、暖かい

北の丸公園の梅、
開花のスピードは遅い

2月23日の雨の日の北の丸公園の梅、マンサク、ナンテンはコチラ


2月24日の北の丸の梅、開花目前のカワヅザクラなどはコチラ




川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(17) 「十四 歌舞伎-愛すべきいかがわしさ」(その二)

京都 法然院(2011-12-30)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(17) 
「十四 歌舞伎-愛すべきいかがわしさ」(その二)
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荷風は、左團次のために、二本の台本を書く。
明治43年明治座上演「平維盛」、大正11年帝国劇場上演の「秋の別れ」。
いずれも一幕もの、上演は客の関心を呼ばず成功にはならなかった。
「平維盛」は、いかにも荷風らしい、敗北趣味、反武断主義がうかがえる。
平維盛は、富士川の合戦で敗走した弱将。木曾義仲と闘ったときも大敗し、西国に落ち、高野山に入山したが、最後には、那智の海に入水して死んだ。武将としては駄目だが、しかし、文人としては才があったという。
荷風はこの弱さを主人公に選んだ。敗れていくもの、消えていくものに思い入れをする荷風好みの主人公。
「平維盛」は、維盛が高野山に落ちていく姿を描いているが、劇的盛り上がりはほとんどなく、おそらく退屈な舞台になっただろうと推測されるが、最後のところで、荷風ならではの敗北趣味、貴族趣味が出ている。

落ちていく維盛ら一行が、おぼろ夜のなかで、岩の上から海に身を投げようとする、平家一門の姫らしい「美しき女性」をみとめる。
助けるいとまもなく姫は、海に身を投じ、あとは「たゞ波の面に、不知火の光の湧立つばかり」。
それを見て、維盛は、あの姫はあれでよかったのではないかという。
「平維盛」はこの維盛の台詞だけでいまもなお生命を持った作品になっている。

「哀れな事を致したなア。然し與三兵衛、やがて滅行く我一族の、殊にはかよはき女の身、人知れず此の夜更に入水なせしは、あるにかひ無き憂世にさすらひ、厭(イトハ)しき矢喚(ヤサケビ)の聲に魂を消さんより、必定西の御国を志す、深さ覚悟があつての事ならん。死を恐るゝ世の常の習慣に捉れ、其れを引止め妨げなば、徒に穢土の苦しみを蒙らすも同じ事。路隔りて助くる事もかなはざりしは、却て互の仕合であった。南無西方極楽世界。いざ、急いで参らう」

自らも海に身を投げる運命にある維盛が、入水した同門の姫の死こそをむしろ讃える。
戦いの世から去って平安な「西の御国」を目ざす姫にこそ美しいものを見る。

荷風の敗北趣味と、武断的なものに対する嫌悪があらわれている。

小木新造「荷風の『江戸芸術論』考」(「木村修一先生喜寿記念論文集①、知識人社会とその周囲」雄山閣、昭和50年所載)。
「平維盛」に、荷風の反権力思想を読みとる。
「荷風はこの作品を通じて、矢たけびの声に魂をかき消されて、武人の誉れに生きるだけが人間の真の生き方なのだろうか、と疑問符を観客に投げかけているのではないか」。

この戯曲が書かれた明治43年は、「ふらんす物語」「歓楽」が発禁処分になった直後。
荷風は、水鳥の羽音に驚いて逃げ出した敵将のほうが、武断的な猛将よりもいいのではないかと反語的にいっているのだろう。
「戦争のむなしさを、残酷さを問う課題は永遠の意味をもつ」(小木新造)

明治の歌舞伎も、新時代に応じて改革が必要と、市川團十郎らを中心に現代的にアレンジされた「活歴」が上演されるようになる。
荷風はこの現代的な歌舞伎を嫌い、歌舞伎のよさは旧態依然たるところにあり、新時代に迎合することなどないという頑固なまでに保守の立場をとる。

左團次が、歌舞伎の外側で自由劇場を創設したことは支持した荷風も、歌舞伎そのものに関しては、古い型を残す昔のままの歌舞伎をよしとした。
「大窪だより」では、歌舞伎座で「勧進帳」を見たとき、弁慶の引込みに、花道揚幕のところから電気仕掛けで役者の顔を明るくしているのを見て、激怒したことが記されている。
従って、荷風は、新しい改良歌舞伎を試みる團十郎を嫌い、古い歌舞伎を継承する菊五郎のほうを支持する。

「團十郎が明治初年の官僚界に贔屓層多く遂に括歴と呼べる似而非藝術を起したるに引換へ菊五郎は名人小團次の後を継ぎ長く江戸町人の趣味を維持せしめ候段感謝の外無之候」

荷風には、團十郎が明治の官僚勢力を背にした新時代の旗手に、菊五郎が江戸町人の趣味を維持しようとする江戸文化の継承者に、見える。
ここでも、明治と江戸という二重性が荷風の認識の核になっている。

荷風の鴎外に対する唯一度の反論。
鴎外「旧劇の未来」(大正3咋)で、歌舞伎も時代に応じて変っていかないと古臭くて取り残されると書く。
荷風はただちに「江戸演劇の特徴」(大正3年)を書き、歌舞伎は古臭いからいいのであって、新しい「藝術」になどなって欲しくないと反論。

荷風の歌舞伎擁護は、「江戸町人の趣味」という言葉にあらわれるように、江戸時代の歌舞伎を、封建権力に対する江戸町人の抵抗の文化、平民芸術ととらえているところから生まれている。
だからこそ荷風は、明治の官僚をバックにした活歴に反発した。

「一見、保守的でうしろ向きの江戸趣味に淫しているように見える荷風は、実は歌舞伎を江戸町人の抵抗の文化としている点で、ひとりの抵抗者なのである。」(川本)

古い江戸の歌舞伎こそを支持しようとする荷風には、「明治国家が否定してやまない江戸文化の復権があり、荷風の意識の底には国家権力に対する秘めたる反骨精神が脈打っている」(小木新造)

「一幕見」(3頁ほどの短い歌舞伎擁護の随筆、”いかがわしさ”礼讃というべき過激な内容)。
吉原を遊廓として生理的に道徳的に警察的に見るのは「明治の見方である、文明の見方である」。
しかし、吉原は、いかがわしく、危険な悪風があるからこそいいのである。
同じように歌舞伎もまた悪弊があるからこそいいのである。

「(自分は)退歩と放棄を夢みるものである」
「役者はよろしく不品行なるべし。家柄、系図を重ずべし。交際をはでにすべし」
ここには、「ふらんす物語」「歓柴」の発禁処分直後の荷風の、明治文明への批判精神が脈打っている。

左團次は、昭和15年2月23日、胃癌のため死去。
当日の「日乗」、
「晴。午前猶睡眠中浅利鶴男氏来り名刺に杏花君病没の事をしるして去れり。午後往きて吊辞を陳ぶ。偶然梓月子の来るに會ふ。杏花君とは去年中秋の夕築地河岸の藍亭といふ酒楼に招かれしがこの世の名残りなりしなり。昨夜半過 十二時五分 木挽町南大曹病院にて入院数日の後歿せしと云。行年六十一なり。余杏花君と初て交を訂せしは明治四十二年秋自由劇場創立の時なりき」と記している。
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仁和3年(887)7月30日 「五畿七道大地震」(南海・東南海・東海地震) 直後に台風襲来

横浜 東戸塚 白旗神社(2012-02-12)
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仁和3年(887)
この年
・出羽国守から中央政府へ、国府を新しい地に遷建することについての申請書が出された。
太政大臣基経はこの件に関し、出羽国での経験者の意見を聴取した。
まず、民部大輔惟良高尚(たかひさ)、大膳大夫小野春風、左京亮藤原高松らの所見を聞くと、彼らの主張はまちまちであった。
次に、伊予国守藤原保則を招致してその意見を聞き、結局、保則の方策を採択し、国府の地を動かさないことに決めた。
高尚・春風・保則らは出羽国の経験者である。
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5月
・この年、鬼が女を殺したという怪談が宮中から巷に流れ、この月から霖雨(りんう)降り続き、京師の人々は飢えに喘いでいた。
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7月2日
・大地震。6日にも。
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7月27日
・光孝天皇、この日まで3日連続で相撲(すまい)を見物。
この時点で光孝の健康に異常はないと思われる。
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7月30日
・「五畿七道大地震」(南海・東南海・東海地震)
1ヶ月ほど前から前震が続いていたが、この日午後3時頃大地震が発生。
都では官衙や民家が倒壊し、多くの人々が圧死した。
畿内でも同様の被害が報告され、とくに被害の大きかった摂津国では巨大な津波が押し寄せ、溺死する者も多かった。
その後も余震が20日以上も続き、虫や鳥に異常な行動がみられ、奇妙な噂話も囁かれたという。


M8.0~8.5。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる(「理科年表」)

『日本三代実録』より
7月30日 申の時、地大震動し、数剋を経歴して震ることなほ止まず。
天皇、仁壽殿を出でて紫宸殿の南庭におはし、大蔵省に命じて七丈の幄二つを立てて御在所と為し給ひき。
諸司の倉屋及び東西京の蘆舎、ところどころ顛覆(てんぷく)し、圧殺せらるる者おほく、或は失神して頓死する者有りき。
亥の時、また震ること三度。
五畿内七道の諸国も同日に大震ありて官舎多く損じ、海潮陸に漲りて溺死者あげて計るべからず、そのうち摂津国もっとも甚(はなはだ)しかりき。
夜中、東西に声有り、雷の如き者二(ふたたび)なりき。

8月1日
昼夜に地震ること二度なりき。

8月2日
昼地震ること三度なりき。

8月4日
地震ること五度なりき。
この日、達智門上に気有り、煙の如くにして煙に非ず、虹の如くにして虹に非ず、飛び上がりて天につきき。
或は人見て、皆曰ひけらく、『これ羽蟻なり』と。時人云ひけらく、『古今未だかくの如き異有らず』と。
陰陽寮占ひて曰ひけらく、『大風洪水失火等の災有るべし』と。

8月5日
昼、地震ること五度、夜大いに震りき。京師の人民、家より出でてみちに居りき。

8月7日
地震。

8月8日
羽蟻あり。大蔵の正蔵院より出で、群れ飛びて天をきはめ、船岳につく。
その気、虹の如くなりき。

8月9日、13日、14日、16日、23日地震。
24日二度地震。
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8月20日

・余震も続く中、この日、山城国に大風雨。
多くの建物が潰され、鴨川・葛野川が氾濫し、再び多くの死者が出た。
巨大地震と台風、その被害の大きさは想像を絶するほどであっただろう。
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2012年2月21日火曜日

東京 江戸城(皇居)東御苑 梅林坂の梅 2012-02-21 ほのかに梅の香が漂う

今日(2月21日)も昨日に続いて快晴かつ温暖
コートなしで江戸城(皇居)東御苑へ
もちろんお目当ては梅林坂の梅

ほのかに梅の香が漂っている

さすがに今日は人出も多い

▼最初から咲き続けている紅冬至という品種
 


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▼以下が、このところ咲き始めてきたもの



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▼梅林坂の全体ではまだこんな状況
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2月28日の梅林坂の梅、本丸休憩所前のカンザクラはコチラ
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「今、地方自治体がメルトダウンしていくという恐怖感さえ持っている」(桜井勝延南相馬市長)


南相馬市の桜井勝延市長が、東京都内での講演で、震災後の退職者が150人に達し、「今、地方自治体がメルトダウンしていくという恐怖感さえ持っている」と訴えた、という。

「家族を(津波で)流されても頑張ってきた職員たちが、耐えきれなく離脱している」という。

「時事ドットコム」の記事をご参照下さい(コチラ)。

永禄12年(1569)1月27日 足利義昭のための二条御所造営を始める [信長36歳]

東京 江戸城(皇居)梅林坂(2012-02-21)
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永禄12年(1569)
1月27日
・信長、本圀寺の防御が弱いことを懸念して村井貞勝・島田秀満に命じて二条御所(「勘解由小路室町真如堂光源院の御古城(義輝御所の跡地)また御再興」(『言継卿記』同日条))の造営を着工させる。

2月2日、石垣普請開始。14ヶ国衆(通常2万5千、少ない時でも1万5千)が従事。
7日午前、山科言継、普請場に信長を見舞う。西方石垣は大方完成。聖護院道澄・三好義継が見舞に来訪。聖護院道澄・徳大寺公維以下方々より多くの贈物が届けられ山科言継は驚く。
9日、石垣南岸が崩壊し人夫7、8人が死亡。普請には日々数千人が携わる(「言継卿記」4)。
13日、義昭が見物。
14日、山科言継、普請場に信長を見舞う。
19、23、24、26~29日、3月1、2日にも。以降も続く。

天皇と信長の懸案①:
信長は二条新第の石垣に京都の石仏・石地蔵を徴発、これを割って石垣の材料とする。また、殿内装飾に大寺社の金襴の飾りを集めようとする。
仏教徒らは、天皇に直訴して信長の暴挙を止めさせようと願出るが、効果なし。
天皇をもってしても信長の政策を変更できず。

この時信長に従い上洛したのは五畿内・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波11ヶ国の軍勢で、御所造営には伊賀・播磨の武士も加わる(「言継卿記」正月12日・2月2日条)。
これらの国が義昭・信長の命令が直接及ぶ範囲。

越前朝倉義景は上洛命令を無視し、敦賀の金ヶ崎・天筒山両城や北陸道の木ノ芽峠、湖北の木ノ本方面と結ぶ中河内・椿坂などの諸城を固めさせる(「越州軍記」)。

この御所は石垣で築かれた二重の堀をもち、「天主」(『元亀二年記』)と呼ばれた「三重櫓」(『言継卿記』元亀元年七月二十二日条)も備えた、近世的な城郭の先駆けと評価できるもの。

規模は、義輝の新御所をはるかに上回り、その範囲は、北は近衛大路(のちの出水通り)、南は春日小路(のちの丸太町通り)、東は東洞院大路、西は室町小路(室町通り)に及ぶ。

山科言継の記録。
「今日より石蔵これを積むと云々。尾州・濃州・勢州・江州・伊賀・若州・城州・丹州・摂州・河州・和州・泉州・播州少々悉く上洛、石これを持つ。先づ西の方云々。」(「言継卿記」2月2日条)。
「西方石蔵大概出来、今少し残り了んぬ。高さ四間一尺と云々。」(同7日条)。
「日々数千人の普請なり。」(同9日条)。「石蔵西面悉く、又南面半分過出来(シュッタイ)なり。」(同14日条)。
「西南石蔵大概出来す。」(同19日条)。
「内の磊(クラ)大概今日悉く出来。」(同3月7日条)。
「南御門昨日櫓を建てこれを揚ぐ。」(同11日条)。
「西の門矢蔵(ヤグラ)これを取り立つ。御庭の石大概これを立つ。三四百計りか。」(同28日条)。
「磊三重悉く出来の上、又南巽のダシノ磊出来。只今東のダシこれを沙汰す。少々出来。」(4月2日条)。

「耶蘇会士日本通信」のフロイス書翰の記録。
「三つの堀と数箇所の新なる稜墜」を備えた堅固の要塞(天正元年(1573)5月27日付)。

「工事は日本に於ては嘗て見たることなき石造とするに決せしが、これに用ふる石なきを以て多数の石像を倒し、頸に縄を付けて工事場に引かしめ
・・・石の祭壇及びフオトケス(仏)即ち偶像を地上に倒して之を破壊し、車に積んで運搬し・・・」
「都の人、偶像を尊崇すること大にして、異常の恐怖を懐きたり。領主の一人その部下を率い、各寺院より日々一定数の石を搬出せり。
・・・又は堀を掘り、土を運び、他の者は山中に於て木材を伐り、恰もイェルサレムの殿堂の建築、又はデイドのカルタゴ市建築工事の絵図を見る如くなりき。」(永禄12年(1569)6月1日付)。

昭和49(1974)年6月~京都市営地下鉄烏丸線建設に伴う遺跡調査の結果、出水~丸太町間(勘解由小路~春日通り)の発掘現場で旧二条城の石垣が発見された。
まず中御門大路(椹木町通り)で南面の石垣と犬走を伴う堀が発見され、出水・下立売(烏丸勘解由小路)・丸太町(烏丸春日)の4ヶカ所でも同時代の濠が確認され、南北約390mという広大な城郭の基盤部分が明らかになった(烏丸線内遺跡調査会烏丸レポート発行部会編「烏丸レポート5」)。
濠幅16.7m、石垣高さ3.8m超で、石材には石仏・板碑・礎石・五輪塔などが転用され、その石地蔵・石仏の殆どが腹部で真っ二つに断ち割られていた。
フロイスの記録の正しさが確認できた。
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①二条御所跡の碑(コチラ)

②現在の二条城にある石垣遺構(コチラ)

③京都御苑内にある石垣遺構(コチラ)

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元慶9年/仁和元年(885)~仁和2年(886) 開聞岳噴火 上総、下総、安房で大地(新島向山の噴火)震

東京 北の丸公園(2012-02-17)
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元慶9年/仁和元年(885)
1月
・太政大臣基経の長子時平(16)の元服式。宮中の仁寿殿(じしゆうでん)。
天皇は自ら加冠の役をつとめ、時平に正五位を与え、その告身の文は参議橘広相が草す。
基経が祝いの品々を仁寿殿の東庭に並べたが、供御の器物はすべて金銀ぞろいであった。
管絃が奏せられ、故清和上皇の第八皇子貞数(さだかず)親王をはじめ四位以上の児童10人ばかりが舞いを演じ、公卿以下群臣の宴飲が夜におよぶ。
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5月
・太政大臣基経、「年中行事御障子(ぎようじのみしようじ)」を天皇に献上。
年中恒例の行事を、簡単な標題で列記したもの。
この障子は清涼殿の殿上の間から孫庇(まごひさし)に上る時に通る落板敷(おちいたじき)に設置され、常時参照された。
ここに掲げられた諸行事が、以後の『西宮記(さいきゆうき)』『北山抄』『九条年中行事』『小野宮年中行事』といった儀式書の構成に踏襲されていく。
嵯峨朝に本格化した年中行事の発達・整備は、9世紀末の基経によって固定化され、以後の宮廷社会に引き継がれていった。
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6月
・肥前国に来着した新羅使を帰国させる。
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8月11日
・開聞岳噴火。

10月9日の大宰府の報告。

肥前国
6月より澍雨(じゅう)降らず。
7月11日国司諸神に奉幣し、僧をまねきて経を転ず。
13日夜、陰雲晦合して雨声の如きを聞き、遅明に粉土屑砂ふりて、こもごも境内に下るを見る。水陸田の苗稼、草木の枝葉、みなことごどく焦枯す。・・・
8月11日、震声雷の如く、焼炎はなはださかりに、雨砂、地に満ち、昼にしてなほ夜のごとし。
12日は、辰より子にいたるまで雷電し、砂の降ること止まず、砂石地に積り、あるところは一尺以下、あるところは五六寸以上、田野埋瘞(まいえい)して人民騒動す」といへり。
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9月21日
・仁和に改元
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仁和2年(886)
1月16日
・菅原道真(42)、讃岐守に任ぜられる。
式部少輔・文章博士・加賀権守の三官を辞め、3月末、京を発つ。
4月に着任。
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5月24日
・上総、下総、安房で大地震。

8月4日の報告。
去る5月24日の夕べ、黒雲有りて南海より群起し、その中に電光現れ、雷鳴地震して通夜止まず。
26日の暁、雷電風雨あり、巳の時天色清朗にして砂石粉土地上に遍満し、山野田園降らざるところなし。
或るところは厚さ二三寸、或るところはわづかに地をおほふ。稼苗草木、皆ことごとく凋枯し、馬牛の粉のつける草を食ひて死斃するもの甚だ多し。
(新島向山の噴火)
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10月
・美濃国で班田
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