2022年10月25日火曜日

居酒屋のレジェンド 三州屋銀座本店で同級生交歓(昼飲み) 2022-10-25

 10月25日(火)、曇り

今日は、居酒屋のレジェンド、三州屋銀座本店で同級生交歓、昼飲み。

居酒屋のレジェンドといっても、昼はほぼすべてのお客さんがお昼の定食をめあてに来る人たち。客足が途絶えることはなかった。時折、大盛ご飯が運ばれていて、あれをモリモリ食べれる時代もあったなと感慨しきり。その活気を眺めているだけでも楽しい。

カキフライ、鶏豆腐が人気メニューというネット情報により、まずこれをオーダーした。鶏豆腐は、ついついうっかり写真撮るのをわすれてしまった。サンマのタタキ、いける。アジフライ、これもいける。

もう一回行くかと誘われたら、イクイク、だね。




▼キンキの煮つけ、あるのかな?と思いながらオーダーしたら、キンキないけどキンメあるよ、とのことでキンメの煮つけ。

▼アジフライ

▼品川駅

▼有楽町駅前


〈藤原定家の時代159〉寿永2(1183)年11月21日~29日 「九郎の勢、僅かに五百騎。その外伊勢の国人等多く相従うと。また和泉守信兼同じく以て合力すと。」(「玉葉」) 基通の摂政解任 松殿基房の嫡男師家(12)が摂政就任 行家、室山の合戦で大敗、河内へ逃亡          

 



寿永2(1183)年

11月21日

・源光長等首111を五条河原に晒す。

11月21日

・後白河院は、法住寺合戦の直前に院北面の近習二人を伊勢国に遣わし、都の緊迫した情勢について義経・親能に伝えた。両人は急ぎ飛脚を鎌倉の頼朝のもとに送り、頼朝の命令を待って入京すると回答。帰京した院の使者は、義経・親能が東国から率いてきた軍勢は、実は僅か500騎ほどであり、それ以外は、多くの伊勢国の布地武士や和泉守平信兼が義経軍に加勢していたと報告。

「伝聞、去る二十一日院の北面に候する下臈二人(公友なり)伊勢の国に到り、乱逆の次第を頼朝代官(九郎、並びに齋院次官親能等なり)に告示す。即ち飛脚を差し頼朝の許に遣わす。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。当時九郎の勢、僅かに五百騎。その外伊勢の国人等多く相従うと。また和泉守信兼(のぶかね)同じく以て合力すと。」(「玉葉」12月1日条)。

和泉守平信兼は、河内守・和泉守・出羽守などを歴任した有力な京武者で、伊勢平氏の出身でありながら、平氏一門からは独立して活動し、本国(伊勢国)では一志(いちし)郡曾禰荘を中心に強大な勢力を誇っていた人物。信兼は平氏都落ちに同行せず、子息らと伊勢に戻り、揺れ動く内乱情勢を観察していた。

伊勢・伊賀両国は、10世紀末の平維衡に始まる伊勢平氏の本拠地であり、平氏都落ち後も、信兼のような自立的な伊勢平氏や、平氏都落ちに同行しなかった小松家・池家の家人などが在国していたが、彼らは義経・親能が伊勢に入ると、鈴鹿山を切り塞いで都の義仲に公然と敵対し、積極的に義経軍を支援した。おそらくは、平氏一門を追い落とした義仲、あるいは地域的な競合関係にあった近江源氏の山本義経・柏木義兼らとの対抗関係から、頼朝が派遣した義経軍に加勢したものと考えられる。義経の郎等として著名な伊勢三郎義盛も、『平家物語』が語るような盗賊ではなく、この時にしたがった伊勢の布地武士の一人と推測される。

平信兼は、朝が伊豆で挙兵した際に、最初に討たれた山木判官兼隆の父にあたるが、そもそも兼隆の伊豆配流自体が信兼の訴えによるものであり、兼隆の討死は信兼の政治的行動に影響を与えなかった。

11月22日

・摂政基通は合戦直前に宇治に脱出。11月20日、(松殿)基房が基通の旧邸である五条東洞院第に迎えられた。翌日、義仲は政務を基房と申し合わせ、沙汰すると決定し、この日(22日)、基通は摂政を解任されて、基房の嫡男師家(12歳)が摂政になった。師家が摂政になったのは、基房がすでに出家していたためで、基房はかたち上、師家を摂政にして、実権は自分が掌握した。

基房は、兄基実没後の遺産相続以来の積年の雪辱を果たす。基房は基通から摂関家代々の家産を奪い、完全な摂関家嫡流の地位をつかむ。摂関家領について義仲は、はじめ基通に「相違有るべからず」と伝えたという(義仲は基通にも接近を図っていた)。ところが、基房は万事「押沙汰(おしざた)」し、強引に摂関家領を奪い取ってしまう(「玉葉」11月27日条)。摂関家代々の日記・文書も同様であった。慈円『愚管抄』(巻第5)に、「一ノ所ノ家領文書ハ松殿(基房)皆スベテサタセラルべキニテ、近衛殿(基通)ハホロホロト成リヌル」とある。

しかし結果的に、摂政松殿師家は義仲滅亡とともに辞任し、その後は松殿家から摂政・関白を出すことはなく、これ以降、摂関家は近衛と九条の二家に固まっていく。

義仲は院御厩の別当となる(12月1日)。法住寺御所にいた久我通親は義仲政権に参加。

義仲、師家姉(16、後土御門通親側室)を妻にする。

11月28日

・源行家、備前の室山の合戦で大敗。~29日。行家の郎従100余人が討死或いは生け捕りになったという(「玉葉」12月2日条、「吉記」12月3日条)

行家は、石川義兼の勢力を頼って河内国長野城に入り、南河内・和泉に地域的軍政を展開して、都の義仲に敵対していく。

長門本『平家物語』は、「平家、室山・水嶋両度の軍に打勝ちて、会稽の恥をはきよめられけれ」と、室山合戦も会心の勝利と伝えている。

室山合戦の勝利により、平氏の正面に義仲の軍勢がいなくなる。後白河院と義仲が京で激しい権力抗争をしている間に、平氏は播磨国まで戻ってきた

平家、義仲を討つ為、知盛・重衡を大将軍に越中次郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清を侍大将として、1万余で播磨室山(室津港の背後にある丘陵)に布陣。源行家3千余が室山に押し寄せる。平家は、1陣を盛嗣、2陣を伊賀平内左衛門家長、3陣を忠光・景清、4陣を重衡、5陣を知盛として、行家軍を引き入れこれを討つ作戦。行家軍は、大軍に取り込められ大敗。

平家、摂津福原へ進出、一ノ谷の陣地構築。

備前下津井(岡山県児島市)の平教盛・平通盛・平教経、源氏側へ走り淡路福良に城郭を構える阿波・讃岐の在庁官人を攻め、100余人を斬って福原に引き上げる。

平教経、伊予の河野通信を討つため讃岐屋島へ向う。河野通信は安芸の沼田次郎の許へ逃れる。平教経は備前蓑島から安芸へ入り、沼田次郎を捕らえて福原へ引上げる。また、平教経は、京の源氏へ兵糧米を送ろうとする淡路の安摩六郎忠景を小舟10艘で追い落とし、同調する紀伊の園辺忠康を攻め、2百余人を斬り引き上げる。更に、平教経3千余騎と援軍は、備前今木城へ向う河野通信・豊後の臼杵惟高・緒方惟義2千余を攻撃、河野を伊予に、臼杵・緒方を豊後に追い返し福原へ引上げる。

11月29日

・後白河、諸卿に8月に践祚した後鳥羽天皇の即位式実施について議論させる。多くは「延引時議に叶ふか」であったが、基房は「歳内」に執着した。院宣は「延引宜しかるべし」であった(「玉葉」)。


つづく


「財務省幹部も『介入で円安が止まるとは思っていない』と話し、あくまで投機筋による行き過ぎた円安の速度調整が目的との考え方を示している」 / 6(10/24)朝8時半に149円70銭くらいをつけていたドル/円は介入(まず間違いない)で145円46銭まで下落したが今は149.40に戻った。何だ、朝の介入は。10時間半しか持たなかったのか。(藤巻健史) / 今では、介入で円高に振れたタイミングでドルを安く買う「介入待ち」勢力もいて、介入後に円安が進みやすい。短期筋から見れば 介入は「おいしい局面」でしかない / 21日の円買い介入、過去最大の5.5兆円規模か 市場推計(日経) / (10/22)「日経新聞1面トップによると144円まで下落していたとのこと。、、、終値が147.73銭だから、その日のうちに半値戻ししてしまったということだ。だらしね~な、介入」(藤巻健史) / 【速報】円相場が一時1ドル=151円台に / 1ドル150円「国力低下を市場に見抜かれている」 元財務官の憂い(朝日) / 円32年ぶり150円台 円の実力低下、人材・資本日本離れ(日経) / 日銀 黒田総裁 円安「急速かつ一方的 わが国経済にマイナス」(NHK) / 32年ぶりの円安・ドル高水準に 引責辞任を求める声に日銀・黒田総裁は「やめるつもりはありません」(TBS) / 149円台突入 32年ぶり円安水準更新 鈴木財務相「過度な変動に対応」(FNN) / 財務官「断固たる対応の用意ある」 円148円台下落で(日経) / 【速報】円急落、一時148円86銭 32年ぶり安値更新―NY市場(10/15時事) / 米財務長官「市場で決まるレートが最良」 ドル高批判受け(10/15日経) / 円安さらに進行 148円台半ばまで 黒田総裁「金利上げる必要ない」(10/15FNN) / コラム:「国際金融のトリレンマ」からみた円安、150円目指す動き濃厚=内田稔氏(ロイター) / 円が一時1ドル=147円66銭に 1990年8月以来32年ぶりの円安水準 / 円相場一時147円台後半つけ円安加速 日銀黒田総裁 大規模緩和継続を強調 / “1日で1円以上” 進む円安 146円台後半に下落で24年ぶり円安更新 G20前に「介入しづらい」見方も(TBS) / 茶番の為替介入…日銀よ、おまえたちは手品師のつもりなのか(浜矩子);「異次元緩和を継続している以上、どんなに為替介入を実施しても悪循環の繰り返し。日本の金利上昇を日銀が容認しない限り、悪循環は断ち切れない。この解けない結び目をどうやって解いてみせようというのか。日銀よ、おまえたちは手品師のつもりなのか……。」(日刊ゲンダイ)    

 


 


 

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2022年10月24日月曜日

明日になったら、また記憶にないとか言うんじゃないだろうな(大笑) → 24日夜、記者団に「岸田総理大臣に辞表を提出してきた。このタイミングを逃すわけにいかないと思った」と述べました(NHK) / 「今からでも遅くないです、山際さんをクビにしてください」(立憲、杉尾 議員) / 小西議員「ネパールではスピーチの写真もあるが、スピーチした記憶もないのか?」 山際大臣「ございません」 / 「瀬戸際大臣」は山際氏を指す、石井準一氏が認める…「野党だらしない」発言を謝罪(読売) / 自民・石井準一氏「野党だらしない」「瀬戸際大臣の首とれんのか」…首相と会食中に(読売); 石井準一参院議院運営委員長 ← この舐めきった態度! / 山際大臣、旧統一教会との関係「新しい事実出てくる可能性ある」(TBS) ← これでもまだクビにしないのか!  / 山際経済再生担当相「重ねておわび」 旧統一教会との関係巡り(産経);「出席した会合を自身で確認することができず、説明責任を果たせない事態となった。重ねておわびしたい」 / 斎藤美奈子氏の、山際大臣が辞めない理由についての洞察が鋭い。「山際大臣が辞めたら、旧統一教会と関係のある他の議員にも影響が及び、辞任の連鎖を招いて政権は崩壊。ひいては党そのものが瓦解する」。 / 山際経済再生相「職責を果たしたい」 旧統一教会問題による辞任否定(朝日) / 山際経済再生担当相「丁寧に説明する」 旧統一教会巡る国会論戦へ 閣僚の職責挙げ「確実に結果出るよう進める」(カナロコ by 神奈川新聞)           


 

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〈藤原定家の時代158〉寿永2(1183)年11月17日~21日 後白河、法住寺殿に兵を集める 法住寺合戦(義仲クーデタ) 義仲は合戦には勝利するが、京都で政治的に孤立     

 



寿永2(1183)年

11月17日

・後白河、鼓判官平知康を使者に義仲に京退去を命じ(挑発)、兵を法住寺殿に集める。

法住寺殿には荷車を使ってバリケードが築かれ、逆茂木を引き堰を掘るなど、義仲を挑発(「吉記」18日条)

「院中の武士、多田蔵人太夫行綱己以下、済々なり。義仲に相従うの輩、大略参入するか。」(「藤原経房日記」)。

「平旦人告げて云く、院中武士群集す。京中騒動すと。何事を知らず。また人云く、義仲院の御所を襲うべきの由院中に風聞す。また院より義仲を討たるべきの由、彼の家に伝聞す。両方偽詐を以て告言の者有るか。此の如き浮説に依って彼是鼓動す。」(「玉葉」同日条)。

「世上物騒、逐日倍増す。然る間浮言多く出来す。御所の警固法に過ぐ。義仲また命に伏すの意無きに似たり。事すでに大事に及ぶ。」(「玉葉」同18日条)。

11月18日

・後白河院のもとに引き取られていた北陸宮が、法住寺殿から姿を消した。北陸宮は嵯峨に隠棲して野依宮(のよりのみや)とも呼ばれるようになったと、『平家物語』は伝える。藤原定家は、園城寺を本山とする天台宗寺門派の桜井僧正法円が北陸宮(還俗宮)であるとの風説を伝える。義仲と後白河院の権力抗争の板挟みとなることを嫌った側近が御所の外へ導いた。

11月19日

・法住寺合戦(義仲クーデタ)

後白河院の法住寺御所に集まった軍勢は、後白河院が再編成した京の武者、美濃源氏土岐氏や宇多源氏など院御所に仕える武者、院御所に出仕する高僧に従う権門寺院の衆徒、印地打ちや河原者といった浮浪人。兼実は、後白河院自らが軍勢を集める状況を「もっぱら、至愚の政なり」(『玉葉』)と批判している。総大将は、「鼓判官」の主人公壱岐(いき)判官中原知康。この日の知康の武装は、四天王の絵を描いて貼り付けた兜をかぶり、鎧を着ずに直垂を着し、右手に金剛鈴(こんごうれい、密教の修法に用いる鈴)を持ち、左手に鉾(仏教の祭祀用具)を持って法住寺殿四面の築垣(ついがき)で舞を舞ったという。これに先だって行われた義仲調伏の祈祷の効力を高めようとしたのであろうが、周囲の人々は知康の所行を物狂いとしか思わなかった。

知康は、壱岐守知親の子で仁安3年(1168)右馬允に任じ、左兵衛尉、左衛門尉を経て、寿永2年(1183)7月、検非違使の宣旨をこうむり従五位下に除された。今様や鼓に長じていたので、後白河院の近臣になり鼓判官と呼ばれた。

義仲の側に参加した武者は、根井行親、樋口兼光、今井兼平ら信濃国で挙兵した時から従ってきた人々が中核。他には志田義広や近江源氏の山本義経らに限られ数的には劣勢。義仲の北陸進撃に合流した今参りの郎党の多くは、朝敵の汚名を着ることになる戦いまでつきあう必要はないと判断して、義仲のもとを去った。

・この日辰刻(午前8時前後)、義仲は七条河原に集結させた軍勢を後白河院の法住寺御所に向けた。義仲は主力を西門に配置し、東門に搦手の軍勢(樋口兼光)を差し向けた。

昼頃戦端が開かれ、大手の義仲が法住寺殿の西方七条河原から、志田義広がその少し南の最勝光院の八条の門から攻撃。今井兼平・樋口兼光は法住寺殿の東側、瓦坂(現、智積院の南あたり)から新熊野社を攻めた。攻撃が始まると、総大将の知康や院の招きに応じて集まった人々はすぐに逃亡。

義仲は北門周辺に火を放って出口を塞いだので、脱出しようとした人々は源仲兼が守る南門に集中した。多田行綱は、後白河院方として出陣して七条末まで軍勢を進めたが、義仲の動きを牽制することもできぬまま、戦わずに退いた。義仲と戦ったのは、美濃源氏の土岐光長・光経父子と信濃国の赤塚判官代の一族など一部の人々であった。義仲方の武者は後白河院の姿を知らないので、高位の者を見つけると思いつくままに捕らえ、討ち取っていった。『平家物語』巻8によれば、翌日六条河原に懸け並べられた首の数は630余たといい、『百錬抄』には院中の輩の首111とある。

この戦いで、天台座主明雲、前園城寺長吏円恵(えんえ)法親王(後白河の第四皇子)をはじめとした高位の人々や、主水正清原近業(ちかなり)のような朝廷の将来を担うことになる官人が命を落とした。他に源光長・越前守藤原信行・近江守高階重章らが討死。

権中納言藤原頼実は、武士の衣装を着ていたので危うく首を切られるところを、たまたま顔を見知った一般の人が本人と証言したので何とか命拾いをした(「玉葉」11月22日条)。

「愚管抄」(巻5)によれば、明雲を討った武士が義仲に手柄を語ると、義仲が「なんでうさる者(そんな者がなんだ)」と言ったので、首を西洞院川に捨てたという。明雲は、延暦寺のトップで、平家全盛時には「ひとへの平家の護持僧(むやみやたらに平家を支持する僧)」(愚管抄」巻5)と評された。延慶本「平家物語」では、後白河は自分の身代わりになった明雲の非業の死を悼んでいるが、参議藤原定能によれば「殊に御嘆息の気も無」かったという(「玉葉」11月25日)

後白河院も、信濃源氏の根井小弥太と矢島行綱に捕らえられ、五条内裏(摂政藤原基通邸五条東洞院清浄光院)に軟禁された(12月に六条西洞院の大膳大夫成忠邸に移す)。

南門を守る源仲兼は多くの者が御所から脱出してもまだ守っていたが、木曽方の錦織義弘から誰も残っていないことを知らされて南に向かって脱出し、摂政近衛基通と出会って宇治まで護衛することになった。

合戦には勝利したものの、義仲は京都で政治的に孤立し、京都周辺で義仲の支持勢力として残ったのは、信濃・上野から引き連れてきた郎等を中心とした直属の軍勢、頼朝に対して敵意を持つ志太義広、近江源氏の山本一族ぐらいになっていた。

「義仲の軍兵、すでに三手に分ち必定寄すの風聞、猶信用せざる処、事すでに実なり。余の亭大路の頭たるに依って、大将の居所に向かいをはんぬ。幾程を経ず黒煙天に見ゆ。これ河原の在家を焼き払うと。また時を作ること両度。時に未の刻なり。申の刻に及び官軍悉く敗績す。法皇を取り奉りをはんぬ。義仲士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五條東洞院摂政亭に渡し奉りをはんぬ。武士の外、公卿侍臣の矢に中たり死傷の者、十余人と。」(「玉葉」同日条)。

「早旦大夫史隆職告げ送りて云く、権大納言師家内大臣に任じ、摂政たるべきの由仰せ下されをはんぬと。伝聞、座主明雲合戦の日、その場に於いて切り殺されをはんぬ。また八條圓恵法親王、華山寺の辺に於いて伐ち取られをはんぬ。・・・抑も今度の乱、その詮ただ明雲・圓恵の誅に在り。未だ貴種の高僧此の如き難に遭うを聞かず。仏法の為希代の瑕瑾たり。悲しむべし。」(「玉葉」同22日条)。

「前摂政家領等、違乱有るべからずの由、義仲本所に示すと。然る間新摂政皆悉く下文を成し、八十余所義仲に賜うと。狂乱の世なり。」(「玉葉」同28日条)。

「解官 中納言籐朝方 参議右京大夫同基家 太宰大貳同實清 大蔵卿高階泰経 参議右大弁平親宗 右中将播磨守源雅賢 右馬頭源資時 肥前守同康綱 伊豆守同光遠 兵庫頭藤章綱 越中守平親家 出雲守藤朝経 壱岐守平知親 能登守高階隆経 若狭守源政家 備中守源資定 左衛門の尉平知康(大夫の尉) この外衛府二十六人と。」(「玉葉」同29日条)。"

「午の刻南方火有り。院の御所辺と。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以て通ぜず。・・・後聞、御所の四面皆悉く放火す。その煙偏に御所中に充満し、万人迷惑す。義仲軍所々に破り入り、敵対に能わず。法皇御輿に駕し、東を指して臨幸す。参会の公卿十余人、或いは鞍馬、或いは匍匐、四方に逃走の雲客已下その数を知らず。女房等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同子廷尉光経已下合戦す。その外併しながら以て逃げ去る。義仲清隆卿堂の辺に於いて追参し、甲冑を脱ぎ参会す。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に駕す。時に公卿修理大夫親信卿・殿上人四五輩御供に有り。摂政の五條亭に渡御すと。」(「吉記」同日条)。

「今日伯耆の守光長已下の首百余、五條河原に懸く。人以て目すと。義仲検知すと。」(「吉記」同21日条)。

越前守藤原信行はこの戦闘で討たれ、若狭守は源政家に替わり義仲与党の近江源氏山本義経がなる(「吉記」12月10条)。義仲は北陸道諸国に対する支配強化したかに見えるが、与党の筈の河合系斎藤友実を解官している点からみて、基盤自体が分裂、京都における義仲の立場は孤立・弱化している。


つづく



2022年10月23日日曜日

〈藤原定家の時代157〉寿永2(1183)年11月2日~12日 頼朝に代って義経が上洛 行家、平家追討のため播磨へ出発 後白河、南都北嶺の権門寺院に対し義仲調伏の祈祷を指示       

 



寿永2(1183)年

11月2日

・頼朝の上洛には兵糧など問題あり、弟の「九郎御曹司」が代官として上洛するという情報が伝わる(「玉葉」)。

4日の参議藤原経房の日記「吉記」には、「舎弟字九郎冠者、その名は義経」と明記されている。

義経、先遣隊となる。その頃、頼朝は有力御家人の上総介広常を「謀反心ノ者」(「愚管抄」)として誅殺するなど、御家人に不信感があり、頼朝の存在を都に知らせるためには弟を派遣するのが重要と考える。但し、都の事情通である斎院次官藤原親能らに義経を補佐させ監視する。

「粮料蒭等叶うべからざるに依って、忽ち上洛を停止し、本城に帰り入りをはんぬ。その替わり九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)を出立し、すでに上洛せしむと。」(「玉葉」同日条)。

「伝聞、頼朝の上洛決定延引しをはんぬ。その弟九郎冠者、五千騎の勢を副え上洛せしむべしと。」(「玉葉」3日条)。

11月4日

・義経、美濃不破関に到着という(「玉葉」)。10日、近江にあり。18日、伊勢神郡に到着という。

「伝聞、頼朝使供物に於いては江州に着きをはんぬ。九郎猶近江に在ると。澄憲法印を以て、御使として義仲の許に遣わす。頼朝使の入京、欝存すべからずの由と。悦ばずの色有りと雖も、なまじいに領状するか。勢無きに於いては強ち相防ぐべからざるの由、申せしむと。」(「玉葉」同10日条)。

11月8日

・源行家、平家追討のため僅か270騎を率い播磨へ出発。この出陣により、行家はその後、後白河院と義仲の衝突の圏外に出ることができた。これに先立ち、河内源氏の石川義兼は兼実のもとに赴き、行家の出陣に加わるので所領(大阪府河内長野市)に戻ると伝えている(「玉葉」)。

「今日、備前の守源行家、平氏を追討せんが為進発す。見物の者語りて云く、その勢二百七十余騎と。太だ少たり如何。今日義仲すでに打ち立つ。只今乱に逢う事の如し。院中已下京都の諸人、毎家鼓騒す。抑も神鏡劔璽、無事迎え取り奉るの條、朝家第一の大事なり。仍って余竊にこの趣を以て行家に含めをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

11月9日

・重衡を大将軍とする300騎の平家軍が備前国に押し寄せ、備前国在庁検非違使所別当の惟資を大将とする国衙軍1千騎と戦い、昼の合戦では惟資を負傷させる勝利を収めたが、同夜に惟資の夜襲を受けて反撃されたと行家の使者が京に報告している(「吉記」)。

また11月28日には、安芸国志万庄(しまのしょう)の使者が、重衡の軍勢の先陣が室泊(むろのとまり、兵庫県たつの市御津町の室津港)に到着したと伝えてきた。室は瀬戸内でも有数の良港として知られた交通の要衝。

「前の兵衛の尉国尚、備前の守行家の随兵として西国に下向す。途中より書状を送りて云く、去る九日、三位中将重衡大将軍として、三百余騎の勢を以て、備前の国東川に寄せしむの間、当国検非違使所別当惟資・国武者相共に合戦す。惟資手を負う。武蔵の国住人□四郎介並びに子息打ち取られをはんぬ。仍って惟資国府を引き山に入りをはんぬの後、惟資西川より千騎ばかりの勢を以て、申の刻ばかりに寄せしむの間、平氏の兵勝ちをはんぬ。少々物具を脱ぎ棄つと。件の日暮れをはんぬ。明暁すでに寄せしむの由、国人申せしむと雖も、検非違使所別当即時に寄せしむの間、酉の時ばかりに押し寄せ合戦す。平氏方五十四人討ち取られ、源氏方国人雑人二十人ばかり打たれをはんぬてえり。」(「吉記」同28日条)。

11月10日

・後白河院は南都北嶺の権門寺院に対し、義仲調伏の御敵降伏の祈祷を行うよう指示。

この日、醍醐三宝院の勝賢僧正(信西入道の子)が担当となった大威徳転法輪調伏法(だいいとくてんぽうりんちようぷくほう)に供僧として参列した覚禅の記録が、真言密教の図像集『覚禅抄』に残っている。この調伏法は、南都北嶺の権門寺院の高僧を一斉に招き、護国の修法として行われた。このことを聞いた義仲は、後白河院を攻める決断をした。

また、義仲の動きは後白河院の側にも伝わり、双方が軍勢を集め始めた。

後白河院側は、伊勢国まで進出していた源頼朝の先遣隊が京都に入ることを期待するが、総大将源義経は中原親能と打ち合わせ、伊勢の国内に残る平氏家人の追討を擾先させた。

『平家物語』に描かれる、義仲が後白河院の使者を愚弄するエピソード

①後白河院の使者藤原光隆にわざと信濃国の田舎料理で饗応して怒らせ、交渉の本題に人らせなかった「猫間」と、②院近習中原(平)知康を愚弄した「鼓判官」。

「猫間」

後白河院の使者猫間中納言(藤原光隆)をもてなす饗応の準備にあたり、何を用意するか尋ねた根井戸行親に対し、義仲は信濃の料理でよいと回答した。義仲は山盛りの飯や平茸(ひらたけ)の汁をおいしそうに食したが、藤原光隆は義仲が用意した膳に閉口して箸をつけることもできなかった。結局、光隆は用件も言わずに帰っている。義仲は相談に入ることを拒否するため、光隆が箸をつけられないような田舎料理を出した。宮廷の儀礼では、饗応の膳は一箸つけるだけで、残すのが作法であるが、義仲は、光隆に対し、膳を平らげなければ話に応じないとせまった。用件が何かわかっていたうえで、聞く意思のないことを態度で示した。

「鼓判官」

義仲が後白河院の近習中原知康を愚弄する物語である。法住寺合戦の直前、後白河院は中原知康を義仲のもとに派過し、勢力を回復してきた平氏を追討すること、洛中の狼籍を鎮めることを命じようとした。この対面で、義仲は知康が鼓判官と呼ばれていることを話題にし、「万(よろず)の人に打たれているのか、張られているのか」と愚弄した。知康はこの一言に怒り、後白河院に対して義仲とは交渉の余地なしと報告した。

11月12日

・平資盛(26)が後白河院近臣知康の許に使を送ったとの風聞(「玉葉」)。

人びとは神器をともなっての帰降かと思ったらしいが、たんに居心地のよい後白河の懐へ復帰の哀願だった。ところが同じころ、『右京大夫集』では資盛は愛人の右京大夫に、「前に申しておいたように、今は死んだも同然と思っているのだから、誰もそう思って私の後世を弔ってください」と書き送っている(217番歌詞章。彼女への手紙は「都出でての冬、僅かなる便りに付けて(寿永二年の冬、ちょっとした使いに託して)」とあるから、この月の院側近への使いに託したのだろう。後世を弔えというしおらしさと院への哀訴のコントラストは、この人物の不実と再起への藁をもつかむ思いを示しているだろう。

「伝聞、資盛朝臣使を大夫の尉知康の許に送る。君に別れ奉り悲歎限り無し。今一度華洛に帰り、再び龍顔を拝さんと欲すと。人々疑う所、若しくは神鏡劔璽を具し奉るかと。」(「玉葉」同日条)。


つづく


2022年10月22日土曜日

「大阪パビリオン」建設費上振れ、吉村知事が謝罪 25年関西万博(毎日);「2025年大阪・関西万博で、大阪府と大阪市などが出展する「大阪パビリオン」の建設工事費が当初の約73億円から115億円に上振れすると見込まれる」          

 



 

トランプ前大統領の側近に禁錮4月 議会襲撃めぐり侮辱罪で トランプ氏にも召喚状「平和的政権移行を妨害」(東京)

〈藤原定家の時代156〉寿永2(1183)年閏10月1日~27日 備中水島の戦い(海戦)で平家方勝利 義仲帰京 義経上洛の風聞 改めて義仲に平氏追討を命じる(義仲の関心は平氏よりの頼朝にある) 「義仲と行家とすでに以て不和なり」(「玉葉」)     

 



寿永2(1183)年

閏10月1日

・備中水島の戦い(海戦)。

延慶本『平家物語』によると、義仲方総大将矢田(足利)義清・侍大将海野幸広の軍勢5千騎は、備中国水島津(岡山県倉敷市)に布陣。この場所は、宗盛が安徳天皇の御座所を置いた屋島(香川県高松市)の対岸であり、瀬戸内海を隔ててのにらみ合いになった。足利・海野が率いる追討使は千余艘の軍船を保持していた。しかし、この二人は騎馬武者を率いる合戦は慣れていても、水軍の合戦には不慣れであった。平氏方は5百艘の軍船を四手に分けて攻める。

この日、平氏方は奇策を用いた。平氏方は、中核となる大手の船団の大将に重衡・資盛・通盛、三手に分遣する搦手の船団は知盛・敦盛・教経の三人を当てている。日蝕の起きることを知っていて合戦を始め、日蝕に動揺する源氏の軍勢を一気に攻め立てて圧勝したと伝える(『源平盛衰記』)。平氏は都落ちに同行した陰陽師安倍晴延から日蝕の情報を得ていたが、水島に居た追討使の軍勢は日蝕の起こることを知らなかった。

平家軍、備前国室泊へ向かう。

足利義清・義長兄弟、郎党高維長・維信兄弟、海野行広、討死。(義康3男の義兼が家督相続)

義清が義仲と結んだ理由。

義仲が信濃から上野に進出し、下野の足利俊綱を討とうとすることがあり、祖父義国以来梁田御厨領有を巡り藤姓足利氏と対抗関係にある義清は、義仲と連携し、足利俊綱を倒して足利地方を完全に支配下に置こうと考える。

閏10月5日

・頼朝、大軍を率いて一旦は上洛の途につくが、すぐに口実を設けて鎌倉に引き上げ、翌月、代わりに義経を上洛させる。

閏10月15日

・義仲、帰京。後白河法皇に西海の状況を報告。「頼朝の弟九郎」が兵11万率い上洛との噂あり急いで上洛したこと、もしこの噂がほんとうならば発向すると伝える。(「玉葉」閏10月17日条)

義仲は、寿永2年10月宣旨に猛然と抗議。後白河院は、頼朝に東海、東山、北陸三通での軍専指揮権を認めたが、義仲を宥めるため、北陸道をこの範囲から外し、頼朝に対する権限付与を東海道・東山道の二道とした。しかし、義仲の本拠地信濃・上野両国は、頼朝が権限を付与された東山道に属した。後白河院は、義仲をこの二カ国の知行国主とすることで納得させようとした。しかし、頼朝は残った権限で、義仲の本拠地に軍勢を入れることができた。

義仲は、平氏との合戦を一段落させ、郎党を美濃国に派遣して頼朝の動向を注視させた。

一方、頼朝は義経と中原親能を伊勢国に派遣し、都落ちに同行せず、本国に帰った関信兼以下の伊勢平氏の人々を鎮圧し始めた。中原親能はかつて村上源氏の源雅頼に仕えていたので、伊勢国で雅頼と使者のやりとりを行うなど、京都の情報を集めるとともに、後白河院に対する水面下の交渉も始めた。

閏10月17日

・頼朝弟九郎義経(25)が数万の軍を率い上洛するとの風聞、また、藤原秀衝が義仲と組んで鎌倉を襲うとの風説(「玉葉」)。

「静賢法印密々に告げ送りて云く、昨日義仲参院し申して云く、平氏一旦勝ちに乗ると雖も、始終不審に及ぶべからず。鎮西の輩、與力すべからざるの由仰せ遣わしをはんぬ。また山陰道の武士等、併せて備中の国に在り。更に恐るに及ぶべからずと。また頼朝弟九郎(実名を知らず)大将軍として、数万の軍兵を卒い上洛を企つの由、承りうべし。・・・或る人云く、頼朝郎従等、多く以て秀平の許に向かう。仍って秀平頼朝が士卒異心有るの由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す。この時東西より頼朝を攻むべきの由なりと。この告げを得て、義仲平氏を知らず、迷って帰洛すと。此の如き事実や否や知り難き事か。」(「玉葉」同日条)。

閏10月18日

「晩に及び範季来たり、世上の事を談る。この次いでに件の男云く、四方皆塞がり、中国の上下併せて餓死すべし。この事一切疑うべからず。西海に於いては、謀叛の地に非ずと雖も、平氏四国に在って通せしめざるの間、また同じ事なり。しかのみならず義仲の所存、君偏に頼朝を庶幾し、殆ど彼を以て義仲を殺さんと欲せられんかの由、僻推成るか。将又告示の人有るか。此の如きの間、法皇を怨み奉り、兼ねて又御逐電の事を疑う。これに依って忽ち敗績の官軍を棄て、迷い上洛する所なり。」(「玉葉」同日条)。

閏10月19日

・義仲、在京する源氏諸将を義仲邸に召集して、今後の軍事行動について議定。義仲は上洛しようとする頼朝を迎え撃つために、後白河院をともなって関東に下向するという計画を提案し、行家や光長に強硬に反対された。この計画はただちに行家によって後白河院に密告され、京中では、義仲が院や公卿を連行して北陸道に下向するという風聞が広がった。

この時点で、近江源氏と志太義広以外の武士は義仲から離反し、混成軍団は崩壊した。

閏10月20日

・後白河が派遣した使者静憲法印に対して義仲が語った、君を怨み奉ること二ヵ条。

一は、頼朝を召上げられ(抜擢すること)ないようにと申入れたのに御承引なく、なお召し遣わされていること。

二は、東海・東山・北陸等の国々に下された宣旨に、この宣旨に随わない輩があれば頼朝の命に随って追討すべし、とあるが、この状は義仲生涯の遺恨とするところである。

また東国へ下向するというのは、頼朝が上洛したら相迎えて一矢を射るべし、という意味だ。頼朝は既に数万の精兵をもって上洛することを企てているという、それを相防がんがために下向しようと考えているのであって、べつに驚かれることはなかろう。その際法皇を具して戦場に行くべし、と(義仲たちが)議論したことを聞かれたとのことだが、そんなことは考えてもいない。

「今日、静賢法印院の御使として義仲の家に向かう。・・・申して云く、君を怨み奉る事二ヶ條、その一ハ、頼朝を召し上げらるる事、然るべからずの由を申すと雖も、御承引無し。猶以て召し遣わされをはんぬ。その二ハ、東海・東山・北陸等の国々下さるる所の宣旨に云く、もしこの宣旨に随わざるの輩有らば、頼朝の命に随い追討すべしと。この状義仲生涯の遺恨たるなりと。」(「玉葉」同日条)。

閏10月21日

「義仲所望の両條、頼朝を討つべきの由御教書を申し賜う事、並びに宣旨の趣、御定に非ずんば、奉行人聊かも勘発有るべきの條、共に以て許さずと。」(「玉葉」同日条)。

閏10月22日

・義仲、義経・親能の伊勢進駐に乗じて、鈴鹿山を切り塞いで蜂起した伊勢国の在地武士に対抗するために、郎従を派遣。

頼朝は、「その宣旨を施行せんがため、かつがつ国中に仰せ知らしめんがため」義経と中原親能を伊勢(頼朝に与えられた権限範囲・東海道の西端)に派遣していた。

閏10月26日

・後白河院、頼朝と敵対関係にある志太義広を平氏追討使に任命することを拒絶し、この日、義仲にあらためて平氏追討を命じる院宣を発給。

閏10月27日

・「夜に入り或る者(源氏の武者なり。源義兼、石川判官代と号す。故兵衛の尉義時孫、判官代義基子なり)来たり云く、・・・義仲と行家とすでに以て不和なり。果たして以て不快出来すか。返す返す不便と。」(「玉葉」同日条)。


つづく



2022年10月21日金曜日

鎌倉広野緑地散歩 富士山眺望 相模湾眺望 コスモス ススキ ツリフネソウ 帰りは深沢まで歩いた 2022-10-21

10月21日(金)、はれ

今日は久しぶりに鎌倉の広町緑地に行ってみた。昨年の9月末にはアサギマダラに遭遇したけど、今日はダメだった。もう遅すぎたかな。
行きは、モノレール西鎌倉駅から歩いたが、緑地の外周を廻って、帰りは、昔住んでた深沢駅まで歩いた。今日の総歩数は2万1千歩だった。
 
▼富士山眺望ポイントからの富士山    

▼コスモス


▼ススキ

▼相模湾眺望ポイントから

▼ツリフネソウ

▼モノレール深沢駅からの富士山