寿永2(1183)年
閏10月1日
・備中水島の戦い(海戦)。
延慶本『平家物語』によると、義仲方総大将矢田(足利)義清・侍大将海野幸広の軍勢5千騎は、備中国水島津(岡山県倉敷市)に布陣。この場所は、宗盛が安徳天皇の御座所を置いた屋島(香川県高松市)の対岸であり、瀬戸内海を隔ててのにらみ合いになった。足利・海野が率いる追討使は千余艘の軍船を保持していた。しかし、この二人は騎馬武者を率いる合戦は慣れていても、水軍の合戦には不慣れであった。平氏方は5百艘の軍船を四手に分けて攻める。
この日、平氏方は奇策を用いた。平氏方は、中核となる大手の船団の大将に重衡・資盛・通盛、三手に分遣する搦手の船団は知盛・敦盛・教経の三人を当てている。日蝕の起きることを知っていて合戦を始め、日蝕に動揺する源氏の軍勢を一気に攻め立てて圧勝したと伝える(『源平盛衰記』)。平氏は都落ちに同行した陰陽師安倍晴延から日蝕の情報を得ていたが、水島に居た追討使の軍勢は日蝕の起こることを知らなかった。
平家軍、備前国室泊へ向かう。
足利義清・義長兄弟、郎党高維長・維信兄弟、海野行広、討死。(義康3男の義兼が家督相続)
義清が義仲と結んだ理由。
義仲が信濃から上野に進出し、下野の足利俊綱を討とうとすることがあり、祖父義国以来梁田御厨領有を巡り藤姓足利氏と対抗関係にある義清は、義仲と連携し、足利俊綱を倒して足利地方を完全に支配下に置こうと考える。
閏10月5日
・頼朝、大軍を率いて一旦は上洛の途につくが、すぐに口実を設けて鎌倉に引き上げ、翌月、代わりに義経を上洛させる。
閏10月15日
・義仲、帰京。後白河法皇に西海の状況を報告。「頼朝の弟九郎」が兵11万率い上洛との噂あり急いで上洛したこと、もしこの噂がほんとうならば発向すると伝える。(「玉葉」閏10月17日条)
義仲は、寿永2年10月宣旨に猛然と抗議。後白河院は、頼朝に東海、東山、北陸三通での軍専指揮権を認めたが、義仲を宥めるため、北陸道をこの範囲から外し、頼朝に対する権限付与を東海道・東山道の二道とした。しかし、義仲の本拠地信濃・上野両国は、頼朝が権限を付与された東山道に属した。後白河院は、義仲をこの二カ国の知行国主とすることで納得させようとした。しかし、頼朝は残った権限で、義仲の本拠地に軍勢を入れることができた。
義仲は、平氏との合戦を一段落させ、郎党を美濃国に派遣して頼朝の動向を注視させた。
一方、頼朝は義経と中原親能を伊勢国に派遣し、都落ちに同行せず、本国に帰った関信兼以下の伊勢平氏の人々を鎮圧し始めた。中原親能はかつて村上源氏の源雅頼に仕えていたので、伊勢国で雅頼と使者のやりとりを行うなど、京都の情報を集めるとともに、後白河院に対する水面下の交渉も始めた。
閏10月17日
・頼朝弟九郎義経(25)が数万の軍を率い上洛するとの風聞、また、藤原秀衝が義仲と組んで鎌倉を襲うとの風説(「玉葉」)。
「静賢法印密々に告げ送りて云く、昨日義仲参院し申して云く、平氏一旦勝ちに乗ると雖も、始終不審に及ぶべからず。鎮西の輩、與力すべからざるの由仰せ遣わしをはんぬ。また山陰道の武士等、併せて備中の国に在り。更に恐るに及ぶべからずと。また頼朝弟九郎(実名を知らず)大将軍として、数万の軍兵を卒い上洛を企つの由、承りうべし。・・・或る人云く、頼朝郎従等、多く以て秀平の許に向かう。仍って秀平頼朝が士卒異心有るの由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す。この時東西より頼朝を攻むべきの由なりと。この告げを得て、義仲平氏を知らず、迷って帰洛すと。此の如き事実や否や知り難き事か。」(「玉葉」同日条)。
閏10月18日
・「晩に及び範季来たり、世上の事を談る。この次いでに件の男云く、四方皆塞がり、中国の上下併せて餓死すべし。この事一切疑うべからず。西海に於いては、謀叛の地に非ずと雖も、平氏四国に在って通せしめざるの間、また同じ事なり。しかのみならず義仲の所存、君偏に頼朝を庶幾し、殆ど彼を以て義仲を殺さんと欲せられんかの由、僻推成るか。将又告示の人有るか。此の如きの間、法皇を怨み奉り、兼ねて又御逐電の事を疑う。これに依って忽ち敗績の官軍を棄て、迷い上洛する所なり。」(「玉葉」同日条)。
閏10月19日
・義仲、在京する源氏諸将を義仲邸に召集して、今後の軍事行動について議定。義仲は上洛しようとする頼朝を迎え撃つために、後白河院をともなって関東に下向するという計画を提案し、行家や光長に強硬に反対された。この計画はただちに行家によって後白河院に密告され、京中では、義仲が院や公卿を連行して北陸道に下向するという風聞が広がった。
この時点で、近江源氏と志太義広以外の武士は義仲から離反し、混成軍団は崩壊した。
閏10月20日
・後白河が派遣した使者静憲法印に対して義仲が語った、君を怨み奉ること二ヵ条。
一は、頼朝を召上げられ(抜擢すること)ないようにと申入れたのに御承引なく、なお召し遣わされていること。
二は、東海・東山・北陸等の国々に下された宣旨に、この宣旨に随わない輩があれば頼朝の命に随って追討すべし、とあるが、この状は義仲生涯の遺恨とするところである。
また東国へ下向するというのは、頼朝が上洛したら相迎えて一矢を射るべし、という意味だ。頼朝は既に数万の精兵をもって上洛することを企てているという、それを相防がんがために下向しようと考えているのであって、べつに驚かれることはなかろう。その際法皇を具して戦場に行くべし、と(義仲たちが)議論したことを聞かれたとのことだが、そんなことは考えてもいない。
「今日、静賢法印院の御使として義仲の家に向かう。・・・申して云く、君を怨み奉る事二ヶ條、その一ハ、頼朝を召し上げらるる事、然るべからずの由を申すと雖も、御承引無し。猶以て召し遣わされをはんぬ。その二ハ、東海・東山・北陸等の国々下さるる所の宣旨に云く、もしこの宣旨に随わざるの輩有らば、頼朝の命に随い追討すべしと。この状義仲生涯の遺恨たるなりと。」(「玉葉」同日条)。
閏10月21日
・「義仲所望の両條、頼朝を討つべきの由御教書を申し賜う事、並びに宣旨の趣、御定に非ずんば、奉行人聊かも勘発有るべきの條、共に以て許さずと。」(「玉葉」同日条)。
閏10月22日
・義仲、義経・親能の伊勢進駐に乗じて、鈴鹿山を切り塞いで蜂起した伊勢国の在地武士に対抗するために、郎従を派遣。
頼朝は、「その宣旨を施行せんがため、かつがつ国中に仰せ知らしめんがため」義経と中原親能を伊勢(頼朝に与えられた権限範囲・東海道の西端)に派遣していた。
閏10月26日
・後白河院、頼朝と敵対関係にある志太義広を平氏追討使に任命することを拒絶し、この日、義仲にあらためて平氏追討を命じる院宣を発給。
閏10月27日
・「夜に入り或る者(源氏の武者なり。源義兼、石川判官代と号す。故兵衛の尉義時孫、判官代義基子なり)来たり云く、・・・義仲と行家とすでに以て不和なり。果たして以て不快出来すか。返す返す不便と。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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