寿永2(1183)年
10月17日
・この日、頼朝が軍勢を上洛させたとの風聞が京都で流れる。これは、伊勢国に残る平氏残党を牽制することを目的とした源義経と、京都で旧主前大納言源雅頼を通じて後白河院と交渉するために派遣された文官中原親能の率いる軍勢であった。
中原親能は、治承4年(1180)平時実(時忠の子)から頼朝の縁者として追捕を受けて出奔するまで、源雅頼の嫡子兼定の後見をつとめていた。村上源氏の有力な分家に仕えていた地下官人であり、旧主を通じた後白河院との交渉は容易であった。
義経率いる遠征軍の目的はまず伊勢国に残る平氏残党の掃討であったが、京都にいる義仲はその意図を計りかね、大きな脅威と感じていた。この時期、頼朝と義仲の勢力圏の境界は美濃と尾張の境を流れる墨俣川であった。
10月18日
・八条院にかくまわれていた池大納言平頼盛(54)、身の危険を感じ息子と共に関東下向(「玉葉」10月20日条)。
鎌倉の頼朝は、命の恩人の子である頼盛の来訪を歓待。後に、頼朝は頼盛の官位を元に戻すことを朝廷に申請し、領地を返還する。池大納言家は、頼朝の恩返しによって存続できた。
閏10月、藤原基家(平頼盛の婿)、逐電。
閏10月下旬、頼盛の妹婿藤原能保、単身鎌倉に奔る。
頼盛の下向については、
『平家物語』巻10では翌元暦元年(1184)5月4日に出立、同16日に下着して頼朝と対面とある。『吾鏡』元暦元年5月19日条に、この日、武衛が池亜相頼盛と甥の一条能保らを伴って海浜を逍遥し、由比が浜で船に乗り、杜戸(もりと)に行って小笠懸を見物したという記事があり、頼盛の下に、「この程鎌倉にあり」という注を付している。
10月19日
・兼実、能登国若山荘(石川県珠洲市)を元のごとく九条家に領掌せしめるように命じたこの日付けの同国宛官宣旨を発給させる。
10月20日
・平家、九州在地武士(豊後代官藤原頼経・緒方惟義・臼杵・戸槻・松浦党)と筑紫高野木庄で合戦、小松家兄弟の交渉失敗。九州を退去。
「平氏始め鎮西に入ると雖も、国人必ずしも用ひざるに依り逃げ出し長門国に向ふの間、また国中に入らず、仍りて四国に懸かり了んぬ。」(「玉葉」同年閏10月2日条)。
「或る説に云ふ。平氏讃岐八島にあり、九国の輩、菊池已下追討を進むる為、已に文司の関(門司の関)を出了んぬと云々。また安芸志芳脚力到来して云ふ、平氏十月二十日一定鎮西を逐出され了んぬ。事すでに必然なり。哀れむべし。哀れむべし。また出家の人その数ありと云々。」(「吉記」同年11月4日条)。
平氏は都落ち後、九州太宰府に向かうが、地侍の襲撃を受け、多くの武者を失い、郎等の逃散も相次ぐ。箱崎~遠賀郡芦屋に逃れ、船で「柳ヶ浦」に向う(門司「柳ヶ浦」、宇佐市長洲「柳ヶ浦」の説あり)。しかし、四国に渡った一族が阿波・讃岐の反平氏勢力を討伐したため、四国の屋島に逃れ本拠を築く。阿波重能の力により屋島に内裏建設。
平季貞と摂津判官盛澄、筑後竹野郡竹野郷で惟栄の大軍と戦い敗走。
平重衡、備前の国務権・備後太田庄の領主権を預所職で保有。
九州を離れる際、小松家の清経(維盛の弟)は柳ヶ浦(門司説もある)で前途を悲観して入水したとされる。『右京大夫集』に「心とかくなりぬる(自分の意志でこのようになった)」ことが述べられているので、史実であろう。彼は院近習だった成親と極めて緑が探かったがゆえに、それが災いになって鹿ヶ谷事件以後ふるわなかった。西走後、自分の幸福も光栄も、生きているうちは決してないと悟った時、前途はいよいよ暗かった。
安芸国志芳(しわ)荘から領家藤原経房(つねふさ)にもたらされた脚力の情報には、平氏軍本隊が九州を離れる際に、「出家する人、其の数有り」(「吉記」11月4日条)とあり、出家して九州にとどまる武士が相当数いたことを伝えている。そのなかの一人に、父家貞の代から長年にわたり九州経営にあたっていた小松家家人の平貞能がいる。『玉葉』には、「平氏始め鎮西に入ると雖も、国人等用ひざるに依り、逃げ出で、長門国に向ふ間、また国中に入れず、偽って四国に懸り了んぬ。貞能は出家して西国に留り了んぬと云々」(閏10月2日条)とある。
貞能は、その後、文治元年(1185)6月頃、鎌倉の宇都宮朝綱の許を訪ね、宇都宮に隠遁。
清盛・重盛に仕えた譜代の平氏家人の代表的存在であった貞能が、ここで戦線離脱したことは、その後の平氏軍の動向に大きな影響を与えた。重盛死後、貞能が補佐した「小松殿の公達」のうち、小松家嫡流の地位にあった資盛は、一説には貞能とともに豊後の緒方氏に降伏したとされ、壇ノ浦合戦で討死したとする『吾妻鏡』や『平家物語』の記事とは異なる所伝が存在している。弟の清経は、平氏軍が九州を離れる際に入水したと伝えられている。長兄の維盛は、翌年2月までに屋島の本営を船団を率いて離脱したといわれ、同じく屋島を離れた忠房も、紀伊国の有力家人であった湯浅宗重のもとに文治元年(1185)まで匿われていたという。屋島に本営をすえた平氏軍本隊は、瀬戸内海の制海権を握り、なお西国の支配を維持したが、小松家を中心に戦線離脱者も相次ぎ、その規模は徐々に縮小していった。
九州を離れた平氏の船団は、阿波民部成良(栗田成良、重能)の出迎えを受けて屋島(香川県高松市)を拠点に定めた。重能は栗田を姓(かばね)とする豪族で、弟の良遠も太政官の外記を勤めた阿波国在庁官人である。成良は、清盛が大輪田泊(兵庫県神戸市)を築いた時に活躍した有力な家人である。
土佐には、頼朝の弟希義を寿永元年に討った蓮池家綱がいた。伊予国の家族河野氏は、敵対する立場を明確にしていた。
屋島を本拠地とした平氏は、ここを安徳天皇行宮(あんぐう)とすると共に、知行国として長く治めた長門国に知盛を派遣し、その二カ所を拠点に勢力の回復を計りはじめた。
阿波民部成良;
本姓は粟田。粟田氏一族は、弟の良遠が阿波で存在感を示し、成良が民部大夫という中央の官職を名乗っているので、兄弟で都・鄙の活動を分担していたと推測できる。民部大夫は民部省の大丞か少丞で五位の位階を有している。民部省の丞は外記・史・式部省の左右衛門尉と並んで、顕官と呼ばれ才器ある者を任ずべき京官の一つで、権門に近侍する侍としては、主人出行の先導者として、また雑事担当責任者として活動した。成良の主人は宗盛なので、宗盛家の侍であり御家人つぃて幅を利かせていた。
成良は平家水軍の一翼を担ったが、かれの一族が阿波国衙の船所を掌握する立場にあって成良の活動を支えたので大規模な水軍を編成できた。
清盛は承安2年(1173)に摂津大和田泊の近隣に、対宋貿易に備え海を埋め立てて宋船を繋留できる人工島(経島)を築造したが、阿波民部はその奉行を務めた。
平家は寿永2年11月までに、讃岐の屋島に拠点を構築し、安徳天皇以下が住まいするようになった。延慶本『平家物語』(巻8・14)には、「成良が沙汰にて、内裏とて板屋の御所を造給けり」とある。
屋島が選ばれた理由;
鳴門海峡の紀伊水道側(福良)と播磨灘側(丸山)間は10km弱しかないが、自然の偶然で一方が満潮なら他方は干潮と、干満が同時に現れ、4~6時間後には干満が逆転する。この時の水位差で海峡部には滝のような潮流が現れ、その潮流が海峡に突き出す二つの岬にぶつかって渦を作る。
鳴門海峡は船舶の航行には向いていないが、明石海峡は、潮流は早いが潮位の差は瀬戸内海最小で、4~6時間後に潮流は逆転するので、潮待ちの港さえ確保できれば潮流に乗って通過はずっと楽になる。清盛の経島築造は阿波民部自身の利害にも合致していた。
もし阿波に拠点を置いたとすれば、鳴門海峡は使えない、明石海峡は敵に掌握されているという状況になり動きが取れなくなる。
讃岐の屋島は、後背地に片本(かたもと)の湊、同じ湾内に新たに形成された野原荘(高松市)、野原湊という流通拠点がある。屋島北方には、小豆島と豊島・直島・男木島・女木島の直島諸島がある。屋島西方の宇多津の北方には本島以下の塩飽諸島があり、双方は島嶼部を伝って備前の児島に至る、本州と四国を結ぶ東西二つの南北ラインをなしえいる。東の直島諸島のラインは、明石海峡から西に進む場合の最初の狭隘部になっていて、東から攻めてくる水軍を島陰から迎え撃つには絶好の海峡である。また、屋島は内陸を南下して国境に横たわる阿讃山脈を越え阿波と連絡ができる。瀬戸内海支配を考えると、西の本州最西端部の長門彦島(下関市)と東の屋島を押さえることが絶対に必要だった。
・後白河、俊堯僧正の諫言を「善し」とし、義仲に上野・信濃二国を賜い、北陸を虜掠すべからずとの綸旨を下す。同時に頼朝には両国を義仲に賜わって和平すべしと命じる。
つづく
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