2012年10月23日火曜日

1760年(宝暦10) 10代将軍家治(24)就任 フレンチインディアン戦争終結 【モーツアルト4歳】

東京 北の丸公園
*
1760年(宝暦10)
この年
・平賀源内(35)、ようやく高松藩薬坊主(やくぼうず)格、切米銀十匁四人扶持となる。
*
・7年戦争、この年の概観
プロイセンの苦しい状況は続く。
8月15日のリーグニッツの戦いでオーストリア軍に勝利するが、その後オーストリア・ロシア連合軍によってベルリンを一時的に占領される。
11月3日にトルガウの戦いで再度オーストリア軍に勝利するものの、プロイセン軍も大きな損失を被る。もはやプロイセン軍はぎりぎりの状態まで消耗していた。
フランスは北米やインドなどの植民地でイギリスに完敗し、プロイセンとの戦争どころではなくなる(北米のモントリオールが陥落しフランスは降伏。フランス領カナダの拠点は全て壊滅し全戦闘が終了)。
フランスは植民地での劣勢を跳ね返すために同じブルボン王家のスペインに応援をもとめた。しかしスペインの参戦も戦況を悪化させるだけであった。
イギリスは大艦隊を編成してスペイン植民地であるキューバのハバナやフィリピンのマニラを占領した。
オーストリアも戦費の負担にあえぎ、またオスマン帝国の脅威にも対処しなければならなかった。
*
・ジャマイカ、セント・メアリー、タッキー主導による奴隷の反乱。
*
1月15日
・幕府、油の流通を掌握するため、油の原料となる種物を扱う菜種問屋・綿実問屋それぞれの株数を定める。
*
1月24日
・彦根藩、長浜の縮緬の製造・販売について法度を定めて専売制を強化する。
*
1月24日
・マラーター軍、アフマダ・シャー・ドッラーニー占拠のデリー攻撃
*
1月29日
・(乾隆帝24年12月12日)「防範外夷規条」全5条決まる。
貿易は広州1港に限定。鎖国政策採用。
但し、不徹底。1839年6月アヘン戦争直前で、13省30ヶ所に西洋人神父65人、信徒30万。
*
2月5日
・明石屋火事。早朝、江戸・神田旅籠町の足袋商明石屋から出火。永代橋などを焼き、翌日深川州崎で鎮火。
幕府は、この月、江戸大火による職人の手間賃や物価の高騰に対し2度にわたり引下げを命じる。
*
2月22日
・南部藩、下北の檜山を藩所有とする。
*
2月24日
・福岡藩、紙すきの者に課す面役について、免除額を従来の1人約分から半人分に減らす。
*
3月3日
・幕府、野村屋五郎兵衛の出願を受けて、未精製の綿を延べ取引きする繰綿延売買会所の設置を許可する。
*
4月
・北米、フレンチ・インディアン戦争。サントフォワの戦い。
ケベック奪還を試みたフランス軍がイギリスに勝利。しかしイギリス軍は、城塞裏側に布陣して包囲戦に出た。
*
4月1日
・地震。城壁など57ヶ所が崩れ、余震が続く。
*
5月
・浜松藩、綿織物の規格を定め、領内産綿織物の流通を促進する。
*
5月
・北米、フレンチ・インディアン戦争。イギリス艦隊がケベックに入港したため、フランス軍は再びモントリオールに撤退。
*
6月
・尼崎の生魚問屋5軒、中在家町の瓜屋・貝屋の2軒が新たに生魚問屋を始めて生魚船との取引きを乱すのを禁じてほしいと尼崎藩に願う。
*
6月12日
・延岡藩、家臣困窮のため、屋敷修理や葬式の費用を身分に応じ貸し与える制度を定める。
*
6月23日
・7年戦争、ランデスフートの戦い。
フーケ中将指揮のプロイセン軍12,000、ラウドン対象指揮オーストリア軍に大敗。
*
7月
・置賜(おきたま)郡米沢藩領の11ヶ村の農民、青苧(麻の原料)に対する新税に反対して一揆をおこす。(青苧騒動

慶安4年(1651)、米沢藩は、置賜地方の田畑と青苧(あおそ、イラクサ科の多年草で麻の原料)の検地を行ない、この地へ青苧の皮530駄(1駄=37貫=139㌔)を割当て、これを藩が買い上げ御用商人を通して奈良晒(ならさらし)の産地である奈良市場へ売った。
その後、元禄以降になると選苧(えりそ)とも呼ばれ質の良い商人苧が出てきた。
その生産地は役苧畑が少なかった北条郷(現、高畠町・南陽市)へ広がっていた。
藩の郡代頭取・森平右衛門は、これを蔵苧と同じく統制品にする旨を北条郷に伝えると、北条郷の百姓がこれに反対して青苧騒動が起きる。

商人苧は、北条郷などの上層百姓が地方商人(じがたあきんど)として周辺百姓から青苧を買い集め、これを越後縮(えちごちぢみ)の原料として越後の小千谷・十日町などの青苧商人へ売っていた。
尚、森平右衛門は第8代藩主重定の寵臣だったが3年後、後に第9代藩主治憲によって国家老に登用される竹俣当綱(たけのまたまさつな)らに暗殺される。
*
7月11日
・幕府、将軍代替わり時慣例の諸国巡検使の派遣を決める。
*
7月28日
・会津藩、塩の専売制を始める
*
8月5日
・巡検使への法度を公布。
*
8月15日
・7年戦争、リーグニッツの戦い。
プロイセン・フリードリッヒ2世、シュレジエンのリーグニッツでオーストリア軍を急襲し破る。
*
8月26日
・幕府、前年冬から三都、とくに大阪で貨幣改鋳の噂が世上を惑わしているとして、改鋳をしないと触れをだし、流言をなす者を訴え出るよう命じる。
*
8月28日
・福岡藩、免許札のない者の郡内での商いを禁じる。
*
9月2日
家重の長男徳川家治(24)、第10代将軍に就任
5月3日、父の隠居により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承。
政治の舵取りは田沼意次になる
*
9月8日
北米、フレンチインディアン戦争終結
モントリオールのフランス軍、降服。ニュー・フランスは解体。
*
9月12日
・土佐藩、国産方会所を廃止し、生産者・商人直接の平紙取引きを認める。
*
9月20日
・フランス、アレクサンドル=テオドール=ヴィクトル・ド・ラメット伯爵(三頭派政治家、末弟)、パリで誕生。
*
9月20日
・竹島津継豊(60)、没。
*
9月23日
葛飾北斎となる中島時太郎(鉄蔵)、江戸本所の割下水に誕生。
*
9月30日
・薩摩藩、扶持米分以外の徳之島の年貢を砂糖上納とする。
*
10月9日
・ [露暦9月28日]7年戦争、ベルリン襲撃
ロシアの提案に従ってオーストリア軍とロシア軍が4日間にわたってプロイセン王国の首都ベルリンを占領。占領軍は同市から資金を徴収すると、プロイセン軍の接近とともに撤退した。

女帝エリザベータ、ベルリン急襲。焼きつくす。占領。

オーストリア軍はロシア軍に比べ、より熱心に市内で復讐行為に及んだ。ザクセンやオーストリアの占領地における、プロイセン軍の振る舞いが伝わっていたからである。
一方、国際的な名声の向上に心を砕いていたロシア軍は概ね、より節度をもって住民の尊重を重視していた。
なお市街の一部は占領軍によって略奪され、王宮のいくつかの建造物に火が放たれた。そしてマスケット銃約18,000丁と大砲143門が押収された。また過去の戦いで奪われた、オーストリアとロシアの軍旗は奪還され、捕虜およそ1,200名が解放された。
*
10月23日
・日本初の麻酔手術を行う華岡青洲、誕生。
*
10月25日
・英ジョージ2世(77)、没。孫ジョージ3世即位。
*
11月
・梶取屋治右衛門による日本初の鯨の専門書「鯨志」が刊行される。
*
11月3日
・7年戦争、トルガウの戦い。
プロイセン・フリードリッヒ2世軍、オーストリア軍をトルガウで破り、ドレスデン除く全ザクセンから駆逐。
*
11月23日
・フランソワ・ノエル・グラックス・バブーフ、北フランスのピカルディー地方サン・カンタンの貧農の家に誕生。
子供13人中4人しか成人できない劣悪な環境。
14歳、出稼ぎで生計を助け、ピカルディー運河建設作業に従事。
独学、美しい筆跡のため、15歳でロア役所で書記の下働き、80年父没後、兄弟を養い、2年後に結婚。
21歳、熟練土地台帳監視吏となるが、農民生活の実態にふれ、封建的土地制度の不公正に憤慨。一方、ピカルディー地方の貧農家庭の多くが最低限賃金で家内工業に従事し資本家に搾取されていることを知る。
救貧の道を求めルソーやマブリら啓蒙思想家の著作を読み、問題の根底には、個人の所有権、とりわけ大土地所有にあると確信。
85年~88年、アラス・アカデミーの開明派終身書記官デュボワ・デ・フォスーと文通、その手紙では集団農場など幾つかのアイデアを構想。
87年、アカデミーが率先して理想社会建設の為の取り組みをすべきと提案、土地共同所有や相互扶助による全ての人に平等な理想社会について思いを巡らす。
89年8月4日の封建制廃止決議後、土地台帳監視吏の職を棄て、パンフレットを書きつつ革命家の道を歩き始める。
*
11月25日
・幕府の私領巡見使が尼崎藩領などを巡見。
*
12月
・幕府、国産の明礬が専売以外で取引きされているとして、定められた会所で売買するよう触れを出す。
*
・ルソー、 「エミール」と「社会契約論」執筆に本格的に取り組む。
*
12月2日
・仙台藩が1745年からこの年までの開墾による田高を幕府へ報告する。
*
*

0 件のコメント: