2012年12月4日火曜日

長和4年(1015)7月~12月 三条天皇退位を決意。「こころにもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜はの月かな」

江戸城(皇居)東御苑
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長和4年(1015)
7月
・入宋の天台僧寂照の弟子念救が宋に戻る。
道長は、多くの公卿の知識物とあわせて、琥珀や水晶の念珠、螺細蒔絵厨子、砂金百両、奥州の貂裘(ちようきゆう、貂の皮衣)を送る。
尚、この時に先に延暦寺に送られた品々が座主故覚慶の弟子院源が隠匿していたことが発覚して問題になった。
道長が天台山に答えた書によれば、天台山は大慈寺再建の助成を求めたようで、道長以下はそれに応えて砂金等を送ったらしい。
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・この月、道長は宋僧から『白氏文集』を贈られて感激している。
一条朝を中心とする時代は『白氏文集』がもっとも愛好された時代。
三蹟の真跡とされるのは多くが『白氏文集』である。
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7月5日
・この日、六衛府の連中が八省院の廊に集合して相談を始めた。
これは数日前に蔵人藤原親業が左近衛番長茨田弘近の欠礼を怒り、弘近をつかまえて首に水をあびせたという一件があり、これを知った衛府の適中が憤慨してのこと。
蔵人頭に弘近の親である左近衛将監茨田重近から訴え出て、それから衛府の連中一同、陽明門に集まって騒ぎたてようということになったらしい。
訴を受けた蔵人頭藤原資平は直ちに左大臣道長にこれを報じ、道長の命で左近衛府以下の連中を説諭して解散させた。
道長の指示は、蔵人親業の行為は別に厳罰に処すべきほどのことではないが、やはり不当であると、衛府の連中にも達するようにというもの。
これは発展すれば衛府のストライキにもなりかねない事件。この頃の世相の一端を示している。
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8月
・8月に入ると、道長の三条天皇に対する退位要求は一段と頻繁に、かつ公然化して来たようである。
目が見えなくては官奏や、叙位・除目が行なえないので、この月、天皇は官奏を代わって見るように道長に言ったが、道長は辞退し、政務は停滞、三条天皇は追い込まれていった。
そしてついに天皇は、焼失後、目下新築中の内裏が完成して皇居に入ったのち、なおも目が見えないようだったら道長の意に従うほかはないと漏らすに至った。
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9月14日
・三条天皇が眼病の平癒を祈って立てようとした諸社奉幣使が、4月以降7回の延期を重ね、ようやく伊勢神宮以下諸社に派遣される。
天皇は最後の望みを諸社にへの祈願に託した。
通例、諸社に祈願を立てる奉幣使は、殿上人とか蔵人の役であるが、天皇のこの時の祈願は特別で、皇大神宮をはじめ、石清水・賀茂社以下の諸大社に公卿を使いとして派遣し、眼病の平癒を祈ろうという意向だった。
この計画は4月から天皇の意中にあったようで、6月に入って道長にも打ち明けて実行に移そうとしたが、その実現には異常な障害が重なった。
使いに選ばれた公卿が急に病気を申し立てたり、使いの家や皇居内に死体が発見されて触穢として延期になったり、ようやくこの日、中納言クラスの連中が使いとなって諸社に向かうまで前後7回にわたって延期を重ねた。
天皇の平癒を喜ばない道長の意中を察した故意の故障があると推測できる。
天皇は、これらの故障の続出を道長が天皇の計画を妨害するものと思い、なおさらその実現に躍起となったが、こうしておこなわれた祈願も効果なしと知ると、絶望して日々の神拝も止めてしまうという混迷に陥った。
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9月20日
・新造内裏が完成。三条天皇は里内裏であった道長の枇杷殿(びわどの)から移る。ここで道長はまた改めて譲位を天皇にしきりに迫ったらしい。
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10月2日
・この日、天皇は密かに道長からの退位圧力について資平に告げ、次のような話も打ち明けた。
「道長は自分の前で、退位後、つぎの東宮には敦明親王以下、自分の子供たちはみなその器ではない、故一条天皇の皇子、今の東宮敦成親王(後一条天皇)の弟である敦良親王こそ、次代の東宮たるにふさわしい、と放言した。もうこうなっては譲位の事などはいっさい思いとどまった」
さすがに天皇は道長の態度に憤激して、このときはあくまでも踏みとどまって道長と対決しようと思ったのであろう。
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10月27日
・道長、准摂政となる。
三条天皇の眼病が悪化し、除目や官奏が行なえず、政務が停滞し、道長を摂政に准じて行なわせることとした。
それを伝える前日の『小右記』には、「摂政の例に准じて、官奏を見る事、除目を行なふべき事、一上の事を行なふべき事等、明日仰せらるべきなり。是れ相府(道長)の詞なり」とあり、摂政と同じく官奏や除目を行なうのに、例外的になお一上のことを手放さないと付け足していることがわかる。
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11月17日
・新造内裏がまたも焼亡。天皇は再び里内裏へ移る。
火は内裏の東側から起こり、西北風を受けてしだいに燃え広がったので、天皇は一時、内裏北側の桂芳坊に避難し、そこもあぶないとなって太政官に入り、翌日、2月前まで里内裏であった枇杷殿に再び戻ることになった。
こうして、譲位するにしても、せめて新しい内裏で引退の式を挙げようとする天皇の志も、むなしく潰えた。
鎮火の直後、道長は天皇に譲位を迫った。
たび重なる内裏の焼失は、天皇の不徳を天が責めているのだというような論法を用いたのであろう。
天皇は、いまは気が顛倒しているから、落ち着いてから考えて返答しようと答えたが、もはや事態は決定的。新しい内裏が僅か2ヶ月でまたも焼けてしまったことは、まさに天に見放された形である。
世人は天下滅亡の時といったという。人心の動揺はもう抑えることはできない。
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12月
・三条天皇の退位はすでに決した。
天皇の病は一向によくなることなく、12月なかば、月明の夜に、天皇はつぎの一首を詠じた。

   こころにもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜はの月かな
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