1901(明治34)年
3月12日
貴族院に増税案の成立を命じる詔勅。
16日、一旦否決した増税案を可決。
3月12日
「不平十ヶ条
一、元老の死にさうで死なぬ不平
一、いくさの始まりさうで始まらぬ不平
一、大きな頭の出ぬ不平
一、郵便の消印が読めぬ不平
一、白米小売相場の容易に下落せぬ不平
一、板ガラスの日本で出来ぬ不平
一、日本画家に油絵の味が分らぬ不平
一、西洋人に日本酒の味が分らぬ不平
一、野道の真直について居らぬ不平
一、人間に羽の生えて居らぬ不平
(三月十二日)」(子規「墨汁一滴」)
3月12日
ロンドンの漱石
漱石に宛てて子供の誕生を知らせる手紙が山川信次郎(1月28日付け)から届く。子供はは女子で1月16日に生れていた。
「三月十二日(火)、白シャツ・下着・股引を替える。 Dr. Craig の許に赴く。帰途、 Bond Street (ボンド街)から東南に向って、Piccadilly Circus (ピカデリー広場)を経て、St. John's Park (聖ジョン公園)に赴く。公園の芝生に咲いている黄色と藤色のチューリップが美しい。山川信次郎からの葉書(一月二十八日(月)付)で、鏡が一月十六日(水)に出産との知らせある。(戸籍上は一月二十六日出生)」(荒正人、前掲書)
3月12日付け漱石の『日記』。
「西洋人ハ執濃(シツコ)イヿガスキダ。華麗ナヿガスキダ。芝居ヲ観テモ分ル。食物ヲ見テモ分ル。建築及飾粧ヲ見テモ分ル。夫婦間ノ接吻や抱キ合フノヲ見テモ分ル。是ガ皆文学ニ返照(ヘンセウ)シテ居ル。故ニ洒落超脱(シヤラクテウダツ)ノ趣ニ乏シイ。出頭天外シ観ヨト云フ様ナ様ニ乏シイ。又笑而不答(ワラツテコタヘズ)心自閑(ココロオノヅカラカン)ト云フ趣ニ乏シイ」
*「出頭天外看」;
「天外に出頭して看よ」。雲を突き抜けて澄み切った空がひろがる天から自分を見なさい、という意味の禅語
*「笑而不答心自閑」;
李白の七言絶句『山中答俗人』の一節。
問余何意棲碧山 笑而不答心自閑
桃花流水杳然去 別有天地非人間
(下し文)
余に問ふ 何の意ありてか碧山に棲むと 笑って答へず 心自(おのづか)ら閑なり
桃花 流水 杳然(ようぜん)と去る, 別に 天地の 人間(じんかん)に非ざる有り
(現代語訳)
わたしに尋ねた人がいる「どんな気持ちで、緑深い山奥に住んでいるのか」と
わたしはただ笑って答えはしないが、心は自ずとのどかでしずかでのんびりしている
「桃花源」の花びらははるか彼方に流れ去っていく
そこにこそ別の世界があるのであり、俗世間とは異なる別天地なのだ
3月13日
荻原守衛(21)、横浜港から香港丸で出航、美術修行のためニューヨークまでの片道切符だけを手にしてアメリカに向かう。アメリカ、ヨーロッパに滞在し、41年3月11日に神戸に帰着。
3月13日
この日付、与謝野晶子の滝野(鉄幹の内妻)宛書簡。滝野は鉄幹との離別の意志を晶子に伝え、晶子はそれに返書。
晶子の上京(出奔)の決意を容易にする、滝野の晶子と鉄幹との結婚の承諾、鉄幹と滝野との離別の意志を伝えられたであろう書簡に対する晶子の返書。
「うれしく候 ミ情うれしく候 君すゐし給へみたりこゝちの 者に候やさしの姉君は そはすゐし給ふべく かゝるかなしきことになりて きこえかはしまゐらすちきりとは おもはず候ひし 人並ならぬつたなき手もつ子 それひたすらはづかしとおもひながらいつかはのとかに かきかはしまゐらすこと ゆるし給ふ世あるべく たのミ候ひしおもひ候ひし おのれか奇矯を売らむとてのうた その為に 師なる君にまであらぬ まかツミかけまゐらせし この子 にくしとこらし 給ハぬがくるしく候 この後はたゞたゞひろき ミ文をさしたのミまゐらすべく候 ゆるさせ給ふべくや つミの子この子かなしく候 おなつかしく候やさしさのミ文 涙せきあへす候ひし けふまことそゞろがき ゆるし給へ 何も何もゆるし給へ 御返しまで 候ひし この夕 晶子 姉君の ミ前に」
3月13日
柳家金語楼、誕生。
3月13日
米第23代大統領ハリソン(67)、没。
3月13日
ロンドンの漱石
「三月十三日(水)、午後四時頃から、 Mrs. Brett 過去のイギリス人の不品行について話す。日記」)」(荒正人、前掲書)
3月13日付「日記」
「Knightの『沙翁集(シェイクスピア全集)』その他合して50円ばかりの書籍を買う。 書物屋の主人曰く、厭なお天気ですな、しかし書物ばかり読んでいる人には宜しゅう御座んしょう、と。 この日 Baker Streetにて中食す。 肉一皿、芋、菜、茶一椀と菓子二つなり。 一シリング十ペンスを払う。」(「日記」3月13日(水))
3月14日
北京列国公使団、義和団事件の賠償範囲及び算定基礎を確定。
3月14日
「 今日は病室の掃除だといふので昼飯後寐牀(ねどこ)を座敷の方へ移された。この二、三日は右向になつての仕事が過ぎたためでもあるか漸(ようや)く減じて居た局部の痛(いたみ)がまた少し増して来たので、座敷へ移つてからは左向に寐て痛所をいたはつて居た。いつもガラス障子の室に居たから紙障子に松の影が写つて居るのも趣が変つて初めは面白かつたが、遂にはそれも眼に入らぬやうになつてただ痛ばかりがチクチクと感ぜられる。いくら馴(な)れて見ても痛むのはやはり痛いので閉口して居ると、六つになる隣(となり)の女の子が画いたといふ画(え)を内の者が持つて来て見せた。見ると一尺ばかりの洋紙の小切(こぎれ)に墨で画いてある。真中に支那風の城門(勿論輪郭ばかり)を力ある線にて真直に画いて城楼(じょうろう)の棟には鳥が一羽とまつて居る。この城門の粉本(ふんぽん)は錦絵にあつたかも知らぬが、その城楼の窓の処を横に三分して「オ、シ、ロ」の三字が一区劃に一字づつ書いてあるのは新奇の意匠に違ひない。実に奇想だ。それから城門の下には猫が寐て居る。その上に「ネコ」と書いてある。輪郭ばかりであるが慥(たし)かに猫と見える。猫の右側には女の立つて居る処が画いてあるが、お児髷(ちごまげ)で振袖で下駄はいてしかも片足を前へ蹈み出して居る処まで分る。帯も後側だけは画いてある。城門の左側には自分の名前が正しく書けて居る。見れば見るほど実に面白い。城門に猫に少女といふ無意識の配合も面白いが棟の上に鳥が一羽居る処は実に妙で、最高い処に鳥が囀(さえず)つて居て最低い処に猫が寐て居る意匠抔(など)は古今の名画といふても善い。見て居る内に余は興に乗つて来たので直(ただち)に朱筆を取つて先づ城楼の左右に日の丸の旗を一本宛画いた。それから猫に赤い首玉を入れて鈴をつけて、女の襟と袖口と帯とに赤い線を少し引いて、頭には総(ふさ)のついた釵(かんざし)を一本着(つ)けた。それから左の方の名前の下に裸人形の形をなるべく子供らしく画いて、最後に小鳥の羽をチヨイと赤くした。さてこの合作の画を遠ざけて見ると墨と朱と善く調和して居る。うれしくてたまらぬ。そこで乾菓子(ひがし)や西洋菓子の美しいのをこの画に添へて、御褒美(ごほうび)だといふて隣へ持たせてやつた。
(三月十四日)」(子規「墨汁一滴」)
3月14日
3月14日~15日 ロンドンの漱石
「三月十四日(木)、汚ない街を通ると、盲人がオルガンを弾き、イタリア人がヴァイオリンを弾いて、その傍に四歳ばかりの女の子、其赤な着物に其赤な頭巾を被って音楽にのって踊っている。
三月十五日(金)、日本人は中国人といわれると嫌がる。中国人は日本人よりも遥かに名誉ある国民である。現在は不振である。日本人と呼ばれるよりも、中国人と呼ばれるほうが名誉だと思ったほうがよいと記す。(「日記」)」(荒正人、前掲書)
3月15日 この日付け漱石の『日記』。
「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿