大杉栄とその時代年表(321) 1901(明治34)年2月17日~23日 「国を出てから半年許りになる。少々厭気になつて帰り度なつた。御前の手紙は二本来た許りだ。(略)早く満期放免と云ふ訳になりたい。(略)おれの様な不人情なものでも頻りにお前が恋しい。」(漱石の妻への手紙) 「もう英国も厭になり候。吾妹子を夢みる春の夜となりぬ」(漱石の虚子への手紙) より続く
1901(明治34)年
2月24日
ロシアの対清協約草案12項に列国の反対おこる。
2月24日
愛国婦人会結成。戦死者および準戦死者の遺族救済のため。会長奥村五百子(いおこ)。肥前唐津生まれ。少女の頃、男装して倒幕運動に関わる。2度の結婚・破婚。子育てしながら中国で学校を開くなど活躍。
2月24日
「 羽生(はにゅう)某の記する所に拠(よ)るに元義は岡山藩中老池田勘解由(かげゆ)の臣(しん)平尾新兵衛長治(ながはる)の子、壮年にして沖津氏の厄介人(やっかいにん)(家の子)となりて沖津新吉直義(退去の際元義と改む)と名のりまた源猫彦と号したり。弘化(こうか)四年四月三十一日(卅日の誤か)藩籍を脱して(この時年卅六、七)四方に流寓(りゅうぐう)し後遂ついに上道(じょうとう)郡大多羅(おおたら)村の路傍ろぼうに倒死せり。こは明治五、六年の事にして六十五、六歳なりきといふ。
(後略)
(二月二十四日)」(子規「墨汁一滴」)
2月24日
2月24日~2月26日 ロンドンの漱石
「二月二十四日(日)、 Harold Brett (ハロルド・ブレット)から、日本人を改良するには、西洋人と結婚するとよいという意見聞く。
二月二十五日(月)、松本某(不詳)から「七言律」を贈られる。表通りを歩いていると、道を掃く人と小さい女児が ""Good Morning"" と云う。前者は金が欲しいのだが、後者はよく分らない。夜、シャツと白シャツ襟を着換える用意をする。
二月二十六日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。 Shelly Society (シェリー協会)の刊行物二冊を借りる。夜、 Kennington Theatre (ケニントン劇場)で、 ""The Sign of the Cross""(『十字架のしるし』)を見る。大入りである。劇中の服装など大いに参考になり、面白い。」(荒正人、前掲書)
2月25日
貴族院委員会、北清事変などのための増税案否決。
27日、本会議上程、10日間停会命令。3月9日から5日間再停会。
2月25日
「 (前略)
以上事実の断片を集め見ば元義の性質と境遇とはほぼこれを知るを得べし。国学者としての元義は知らず、少くとも歌につきて箇程(かほど)の卓見を有せる元義が一人の同感者を持たざりしを思ひ、その境遇の箇程に不幸なりしを思ひ、その不平の如何に大なりしやを思ひ、その不平を漏らす所なきを思ひ、而して後に婦女に対するその熱情を思はば時に彼の狂態を演ずる者むしろ憐(あわれ)むべく悲しむべきにあらずや。
(二月二十五日)」(子規「墨汁一滴」)
2月25日
米、財閥モルガン、カーネギー製鋼会社とフェデラル製鋼会社を合併してUSスティール会社設立。資本金14億ドル。初の10億ドル企業。
2月26日
「 (前略)
万葉以後において歌人四人を得たり。源実朝(みなもとのさねとも)、徳川宗武(とくがわむねたけ)、井手曙覧(いであけみ)、平賀元義(ひらがもとよし)これなり。実朝と宗武は貴人に生れて共に志を伸ばす能はざりし人、曙覧と元義は固(もと)より賤(いや)しききはにていづれも世に容(いれ)られざりし人なり。宗武の将軍たる能はざりしに引きかへ実朝が名のみの将軍たりしはなほ慰むるに足るとせんか、しかも遂に天年(てんねん)を全うするに至らざりしは千古の惨事とすべし。元義の終始不遇なるに対して曙覧が春嶽(しゅんがく)の知遇を得たるは晩年やや意を得たるに近し、しかも二人共に王家の臣たる能はざりしは死してもなほ遺憾あるべきにや。
曙覧は汚穢(おわい)を嫌はざりし人、されど身のまはりは小奇麗(こぎれい)にありしかと思はる。元義は潔癖の人、されど何となくきたなき人には非(あらざ)りしか。
四家の歌を見るに、実朝と宗武とは気高くして時に独造の処ある相似たり。但(ただし)宗武の方、覇気やや強きが如し。曙覧は見識の進歩的なる処、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但伎倆の点において調子を解する点において曙覧は遂に元義に如かず。故に曙覧の歌の調子ととのはぬが多きに反して元義の歌は殆(ほとんど)皆調子ととのひたり。されど元義の歌はその取る所の趣向材料の範囲余りに狭きに過ぎて従つて変化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以(ゆえん)なり。彼にしてもし自(みずか)ら大歌人たらんとする野心あらんかその歌の発達は固もとより此ここに止まらざりしや必せり。その歌の時に常則を脱する者あるは彼に発達し得べき材能の潜伏しありし事を証して余(あまり)あり。惜しいかな。
(二月二十六日)」(子規「墨汁一滴」)
2月27日
川上音二郎(37)、横浜・羽衣座で3月1日まで興行。
2月27日
「 近来雑誌の表紙を模様色摺(いろずり)となしかつ用紙を舶来紙となす事流行す。体裁上の一進歩となす。
雑誌『目不酔草(めざましぐさ)』の表紙模様不折(ふせつ)の意匠に成る。面白し。但(ただし)何にでも梅の花や桜の花をくつつけるは不折の癖と知るべし。
雑誌『明星(みょうじょう)』は体裁の美麗(びれい)なる事普通雑誌中第一のものなりしが遂に廃刊せし由(よし)気の毒の至なり。今廃刊するほどならば最後の基本金募集の広告なからましかば、死際一層花を添へたらんかと思ふ。是非なし。
(中略)
雑誌『太陽』の陽の字のつくり時に易(えき)に(从)したがふものあり。そんな字は字引になし。
(二月二十七日)」(子規「墨汁一滴」)
3月1日に誤記訂正あり。
「○正誤 前々号墨汁一滴にある人に聞けるまま雑誌『明星』廃刊の由(よし)(記したるに、廃刊にあらず、只今印刷中なり、と与謝野(よさの)氏より通知ありたり。余はこの雑誌の健在を喜ぶと共にたやすく人言(じんげん)を信じたる粗相(そそう)とを謝す。」
2月27日
2月27日~2月28日 ロンドンの漱石
「二月二十七日(水)、 ""Hundred Pictures"" の Part Ⅰ(Part ⅩⅦで完結)
二月二十八日(木)、 Hernr Hill (ハーン・ヒル)に赴く。」(荒正人、前掲書)
2月28日
東京帝国大学史料編纂掛『大日本史料』刊行開始。
2月28日
「『日本』へ寄せらるる俳句を見るに地方々々にて俳句の調にもその他の事にも多少の特色あり、従つて同地方の人は万事をかしきほどに似よりたる者あり。同一の俳句または最も善く似たる俳句が同地方の人二人の稿に殆ど同時に見出ださるる事などしばしばあれど、この場合にはいづれを原作としいづれを剽窃(ひょうせつ)とせんか、ほとほと定めかねて打ち捨つるを常とす。総じてその地方の俳句会盛(さかん)なる時はその会員の句皆面白く俳句会衰ふる時はあるだけの会員悉(ことごと)く下手になる事不思議なるほどなり。
(後略)
(二月二十八日)」(子規「墨汁一滴」)
2月28日
子規「吾寒園の首に書す」(「ホトトギス」)。竹村鍛の人となりを紹介。
2月28日
ボーア戦争終結、第1次平和会議開催、決裂
つづく
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