2024年11月16日土曜日

大杉栄とその時代年表(316) 1901(明治34)年1月23日~27日 見舞い人に人の耳ばかり見て居ると笑われる 鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり (墨汁一滴) 日本ハ真面目ナラザルべカラズ日本人ノ眼ハヨリ大ナラザルベカラズ(漱石「日記」) 漱石の次女恒子誕生   

 

漱石の次女恒子

大杉栄とその時代年表(315) 1901(明治34)年1月17日~22日 岡麓が持ってきてくれた春の七草のこと 根岸の地図、くねった道路のこと 勾玉が送ってくれた草々と目録のこと(子規「墨汁一滴」) 英ビクトリア女王(81)没 より続く

1901(明治34)年

1月23日

名古屋地方で恐慌。

1月23日


「 病床苦痛に堪へずあがきつうめきつ身も世もあらぬ心地なり。傍(かたわら)に二、三の人あり。その内の一人、人の耳ばかり見て居るとよつぽど変だよ、など話して笑ふ。我は健(すこや)かなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ。

(一月二十三日)」(子規「墨汁一滴」)


1月23日

珍田捨己駐露公使、韓国中立化の露提案は、満州から露軍が撤退した後に交渉すべき旨回答。

1月23日

漱石、黒ネクタイを締め黒手袋を買う。


「一月二十三日(水)、朝、黒ネクタイをする。黒手袋を買う。店員は、 ""The new century has opened rather inauspiciously"" 「新しい世紀は、ひどく縁起の悪い始り方をしたもんだ。」と云う。半旗翻る。街中喪に服す。」(荒正人、前掲書)


1月24日

露、キエフ大学生183人を兵籍に編入。

1月24日

漱石に鏡子からの手紙が届く。この日、第37代英国王にエドワード7世が即位。


「出国以来ようやく二通目となる前年十二月二十一日付のその手紙で鏡子は、生まれてくる子供の命名を頼んできた。二番目となるその子は、勘定してみると間もなく生まれるか、もう生まれたか、そんな頃合であった。返事を書いて翌日投函したが、アメリカまわりの船便の所要日数を考えれば間に合うはずもない。漱石は、鏡子の呑気さにあきれつつ懐かしく思った。」(関川夏央、前掲書)


「一月二十四日(木)、鏡から前年十二月二十一日付の手紙届く。子供が生れた場合の命名を頼んでくる。夜、返事を普く。(薄葉に毛筆) 入浴に行く。散歩しないと腹具合悪い。散歩すると二円位必ず使う。

一月二十五日(金)、鏡宛の手紙を投函する。日記に、西洋人の一部は、日本の進歩を知り、今迄軽蔑していた者が生悪気なことをしたと驚く。だが、大部分の者は、驚きもしないし、知りもしない。下宿屋の老爺などでも、内心では軽蔑している。日本の自慢をしても、相手の知識以上のことを云うと、自惚れだと思う。黙って努力するのがよい、(「日記」要約)と記す。」(荒正人、前掲書)


1月25日

福澤諭吉、脳溢血が再発。

1月25日

「 去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹(てっかん)子規(しき)と並記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾以為(おも)へらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹是(ぜ)ならば子規非(ひ)なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。乃(すなわ)ち書を鉄幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は『明星(みょうじょう)』所載(しょさい)の短歌を評せん事を約す。けだし両者を混じて同一趣味の如く思へる者のために妄(もう)を弁ぜんとなり。爾後(じご)病牀寧日(ねいじつ)少く自ら筆を取らざる事数月いまだ前約を果さざるに、この事世に誤り伝へられ鉄幹子規不可(ふか)並称(へいしょう)の説を以て尊卑(そんぴ)軽重(けいちょう)に因(よ)ると為すに至る。しかれどもこれらの事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁(こうろんおつばく)喧擾(けんじょう)を極めたるは世人をしてやや歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益ゝ加はり殊に筆を取るに悩む。終(つい)に前約を果す能はざるを憾(うら)む。もし墨汁一滴の許す限において時に批評を試むるの機を得んかなほ幸(さいわい)なり。

(一月二十五日)」(子規「墨汁一滴」)

1月25日

駐露公使珍田捨巳、満州からの露軍撤退が先決と回答。

1月26日

政府、義和団事件費用・建艦費補充などの為、酒税、砂糖税、海関税などの増税案を議会に提出

1月27日

「 俳句界は一般に一昨年の暮より昨年の前半に及びて勢を逞(たくまし)うし後半はいたく衰へたり。我(わが)短歌会は昨年の夏より秋にかけていちじるく進みたるが冬以後一頓挫(とんざ)したるが如し。こは固(もと)より伎倆(ぎりょう)の退(しりぞ)きたるにあらず、されど進まざるなり。吾(わが)見る所にては短歌会諸子は今に至りて一の工夫もなく変化もなくただ半年前に作りたる歌の言葉をあそこここ取り集めて僅(わず)かに新作と為なしつつあるには非(あらざ)るか。かくいふわれもその中の一人なり。さはれ我は諸子に向つて強ひて反省せよとはいはず。反省する者は反省せよ。立つ者は立て。行く者は行け。もし心労(つか)れ眼(まなこ)眠たき者は永(なが)き夜の眠(ねむり)を貪(むさぼ)るに如(し)かず。眠さめたる時浦島(うらしま)の玉くしげくやしくも世は既に次の世と代りあるべきか如何(いかん)。

(一月二十七日)」(子規「墨汁一滴」)

1月27日

漱石の次女恒子誕生。

1月27日

千宗左、誕生。

1月27日

この日付けの漱石の日記。


「一月二十七日(日)、「大風ノ夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ」日本ハ真面目ナラザルべカラズ日本人ノ眼ハヨリ大ナラザルベカラズ」(「日記」) Queen Victoria (ヴィクトリア女王)崩御第一回めの日照日で、各教会で Georg Friedrich Handel (ヘンデル 1685-1759)の ""Funeral Anthem"" (『葬送アンセム』1737)を奏でる。(「日記」では、 Dead Marchi となっている)響きを抑えた鐘も打ち鳴らされる。夜も鐘の音が頻りである。下宿の細君も妹も Twopence Tube に乗ったことがないと云う。女中は、 Brett 家の近辺以外は知らない。「我々ハ彼等ヨリ餘慶倫敦ヲ知ルト云ハネバナラヌ 萬歳」(「日記」)」(荒正人、前掲書)


1月27日

伊、作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(87)、没。ミラノ。


つづく

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