1901(明治34)年
1月17日
1月7日に弟子の岡麓が春の七草をそれぞれの名前を添えて竹の籠に植えて持ってきてくれた。
「 一月七日の会に麓(ふもと)のもて来(こ)しつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠(かご)の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座(かめのざ)といふ札あるは菫(すみれ)の如(ごと)き草なり。こは仏(ほとけ)の座(ざ)とあるべきを縁喜物(えんぎもの)なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行(ごぎょう)とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子(たびらこ)の札あり。はこべらの事か。真後(まうしろ)に芹(せり)と(薺なず)なとあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾(つぼみ)のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜(すずな)とあるは丈(たけ)三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に鈴白(すずしろ)の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪(あかかぶら)にて紅(くれない)の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊(こと)にきはだちて目もさめなん心地する。『源語(げんご)』『枕草子(まくらのそうし)』などにもあるべき趣(おもむき)なりかし。
あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来こし病めるわがため
(一月十七日)」(子規「墨汁一滴」)
参考記事
「一月七日の会に麓(ふもと)のもて来こしつとこそいとやさしく興あるものなれ。」(正岡子規『墨汁一滴』)
1月17日~20日 ロンドンの漱石
「一月十七日(木)、下宿裏の草原に鵯位の大きさの鳥多数降りて、餌を探している光景見える。女中にたずねると雀だと云う。
一月十八日(金)、「英國人ニテモ普通ノモノハ accent ヲ間違へタリ Pronunciation ヲ取違へタリスルヿ目(ママ)珍シカラズ」(「日記」)
一月十九日(土)、長尾半平を夕食に招待する。午後十二時三十分頃から、九時三十分頃まで話す。
一月二十日(日)、 Harold Brett (ブレット)と散歩する。犬を連れて行く。」(荒正人、前掲書)
1月18日
戦艦「初瀬」、竣工。
1月18日
「 この頃根岸倶楽部(クラブ)より出版せられたる根岸の地図は大槻(おおつき)博士の製作に係(かか)り、地理の細精(さいせい)に考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今鶯(うぐいす)横町といへど昔は狸(たぬき)横町といへりとぞ。
田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一(ほういつ)が句に「山茶花(さざんか)や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣(ふうしゅ)ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん竹(ちく)の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦(れんが)の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ古(いにし)への奥州路(おうしゅうじ)の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ水鶏(くいな)の声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々うんぬん
と博士は記しるせり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて空(むな)しく帰る俗客もあるべしかし。
(一月十八日)」(子規「墨汁一滴」)
1月19日
田中正造、村山半に宛てた手紙で議員辞職の決意を語る。第15議会中、正造は質問書15を提出、演説2回を行う(「亡国に至るをしらざる儀につき再質問書」など)。第15議会は日本が北清事変(義和団事件)に出兵し、「極東の憲兵」として帝国主義列強に仲間入りするための国家基盤形成(増税)の場となる。鉱毒被害民やその他民衆はその踏台とされる。
10月23日、正造は議員を辞職。
1月19日
ハンガリー、社会科学協会設立。
1月20日
「 蕪村(ぶそん)は天明(てんめい)三年十二月二十四日に歿したれば節季(せっき)の混雑の中にこの世を去りたるなり。しかるにこの忌日(きじつ)を太陽暦に引き直せば西洋紀元千七百八十四年一月十六日金曜日に当るとぞ。即ち翌年の始に歿したる事となるなり。
(一月二十日)」(子規「墨汁一滴」)
1月21日
~22日 ロンドンの漱石
「一月二十一日(月)、暖。「女皇危篤ノ由ニテ衆庶皆眉ヲヒソム」(「日記」)
一月二十二日(火)以前、 Tottenham Court Road (トテナム・コート街)の洋服屋で、フロック・コートと燕尾服を誂える。」(荒正人、前掲書)
1月22日の日記
「The Queen sinking. Craig氏に行く。ほとゝぎす届く。子規尚生きてあり」(「1月22日付の日記」)
(*二人のやり取りから、郵便物の時差は一ケ月余と推測され、この「ほとゝぎす」は『明治三十三年十月十五日記事』が掲載されていた号だったと思われる。)
1月22日付け妻鏡子宛手紙
「「日本に居る内はかくまで黄色とは思はざりしが当地にきて見ると自ら己の黄色なるに愛想をつかし申候」」
「当地冬の季候極めてあしく霧ふかきときは濛々として月夜よりもくらく不愉快千万に候。早く日本に帰りて光風霽月(こうふうせいげつ。心がさっぱりと澄み切ってわだかまりがなく、さわやかなことの形容)と青天白日を見たく候。」(1901年1月22日 妻鏡子宛書簡)
1月22日
松本普通選挙同盟会大会、婦人参政権の可否について討論。
1月22日
「伊勢山田の商人(あきんど)勾玉(こうぎょく)より小包送りこしけるを開き見ればくさぐさの品をそろへて目録一枚添へたり。
祈平癒呈(へいゆをいのりてていす)
御両宮之 二
御神楽之図(おかぐらのず)(地紙) 五
五十鈴(いすず)川口のはぜ(薬といふ丑(うし)の日に釣(つ)る) 六
高倉山のしだ 一
いたつきのいゆといふなる高倉の御山(みやま)のしだぞ箸(はし)としたまへ
辛丑(かのとうし)のはじめ
大内人匂玉
まじめなる商人なるを思へば折にふれてのみやびもなかなかにゆかしくこそ。
(一月二十二日)」(子規「墨汁一滴」)
1月22日
英、ビクトリア女王(81)、没。、長男エドワード7世、即位。
即位は1837年6月20日、在位63年7ヵ月。ヴィクトリア朝はイギリスの全盛期。
1840~42年アヘン戦争、1851年ロンドンで世界初の万国博覧会、1854~56年クリミア戦争、1875年スエズ運河株購入、1877年インド併合、1882年エジプト単独占領、1899年南アフリカ戦争(~1902年)。
産業革命の恩恵をうけて「世界の工場」と言われた工業力で他国を圧倒し、工業生産・金融面で世界経済のヘゲモニーを握るとともに、多くの自治領(カナダなど白人植民地には自治を承認)、植民地を所有し第二帝国の時代ともいわれる大英帝国の最盛期。
しかし、1870年代以降その繁栄にも陰りが見え始める。1873年のドイツに始まる世界恐慌から一転して慢性的不況に陥り、その後96年に至るまで長期にわたる不況から脱却できなかった。
他方、急速に工業化を進めるアメリカとドイツがイギリスを凌駕し始める。
南北戦争(1861~65年)が工業を基幹産業とする北部の勝利で終わらせたアメリカは、工業中心の国作りを目ざす事に成り、1860年代に本格的な産業革命を展開した。広大な国土と資源に恵まれたアメリカ、東海岸や五大湖地方の工業地帯が急速に発展して、鉄道建設は1869年に大陸横断鉄道が完成し、ピークを迎えた。そして、19世紀末までにイギリスを追い抜いて世界第1位の工業生産力を持つに至る。
1871年に統一を果たしたドイツも、1873~74年の恐慌以降低成長期に入るが、95年から再び好況期に入り、経済は目ざましい発展をとげる。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿