1901(明治34)年
3月15日
上海の張園でロシアの要求を拒否する集会。「拒俄運動」。
3月15日
大杉栄(16)、幼年学校隣接の地方裁判所が火事になり「御真影」の警護につく。
3月15日
「 散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治(とうじ)に行く楽、紅燈(こうとう)緑酒(りょくしゅ)美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯の腹を鼓こする楽、道灌山(どうかんやま)に武蔵野の広きを眺めて崖端(がけはな)の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥(ざが)の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠(かわや)に行く自由、書籍を捜索する自由、癇癪(かんしゃく)の起りし時腹いせに外へ出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震といふ時に早速飛び出す自由。――総ての楽、総ての自由は尽(ことごと)く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇(はげ)しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸(ようや)く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。
耶蘇(ヤソ)信者某(なにがし)一日余の枕辺(ちんぺん)に来り説いて曰(いわ)くこの世は短いです、次の世は永いです、あなたはキリストのおよみ返りを信ずる事によつて幸福でありますと。余は某の好意に対して深く感謝の意を表する者なれども、奈何(いかん)せん余が現在の苦痛余り劇しくしていまだ永遠の幸福を謀るに暇(いとま)あらず。願くは神先づ余に一日の間(ひま)を与へて二十四時の間(あいだ)自由に身を動かしたらふく食を貪(むさぼ)らしめよ。而して後に徐(おもむ)ろに永遠の幸福を考へ見んか。
(三月十五日)」(子規「墨汁一滴」)
3月15日
独、ビューロー宰相、揚子江協定の満州適用を否定。英日独間の反露ブロック交渉中断。
3月16日
義和団事件での軍事費を捻出するための増税諸法案、12日の勅語を受けて、貴族院で可決。
3月16日
田中正造、衆議院で足尾銅山鉱毒事件を見過ごす政府を非難。
3月16日
この日の漱石
「三月十六日(土)、田中孝太郎と共に、 Metropole Theatre (メトロポール劇場)で Ralph Lumley (ラルフ・ラムリー)の ""In the Soup"" (『スープの中で』)という滑稽劇を見る。」(荒正人、前掲書)
3月16日 この日付け漱石の『日記』。
「日本ハ三十年前ニ覚メタリト云フ。然レドモ半鐘ノ声デ急ニ飛ビ起キタルナリ。其覚メタルハ本当ノ覚メタルニアラズ。狼狽シツゝアルナリ。只西洋カラ吸収スルニ急ニシテ、消化スルニ暇(イトマ)ナキナリ。文学モ政治モ商業モ皆然ラン。日本ハ真ニ目ガ醒ネバダメダ」
3月17日
3月17日~18日 ロンドンの漱石
「三月十七日(日)、襟白シャツを替える。昼、田中孝太郎と共に、 Kew Garden (キュー・ガーデン 植物園)を見、 Kew Palace (キュー宮殿)に赴く。
三月十八日(月)、中根重一からの手紙で、次女恒子の生れたこと知らせてくる。立花銑三郎(在ベルリン)宛手紙に、二、三日前、芳賀矢一と藤代禎輔(素人)からの連絡で病気で帰国することを知ったが、その際、 London に寄るなら、自分の下宿に来ないかと伝える。日本人相手の下宿屋だが、現在は他に日本人は一人(田中孝太郎)いるだけで、暫くすると、フランスから一、二名乗るかも知れぬと書き添える。」(荒正人、前掲書)
3月18日 この日付け漱石の『日記』。
「吾人ノ眠ル間、吾人ノ働ク間、吾人が行尿送尿の裡(ウチ)に、地球ハ回転シツゝアルナリ。吾人ノ知ラヌ間ニ回転シツゝアルナリ。運命ノ車ハ之卜共ニ回転シツゝアルナリ。知ラザル者ハ危(アヤフ)シ。知ル者ハ運命ヲ形(カタチヅ)クルヲ得ン」
3月17日
露、サンクト・ペテルブルク、反帝政派暴動。レフ・トルストイ破門に抗議の学生がカザン大聖堂に押し掛けミサを中止させようと路上で反帝政のビラ配布。コサック兵が鎮圧。同様の暴動は、モスクワ、オデッサ、キエフ、ハリコフでも発生。
3月18日
黒岩涙香「巌窟王」連載。1年3ヶ月。
3月19日
3月19日~20日 ロンドンの漱石
「三月十九日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。謝礼を払う。夜、入浴に行く。煙草四箱を買う。
三月二十日(水)、風雨激しい。 Camberwell Park (キャンパーウェル公園)を散歩する。鏡から手紙(二月十日(日)付)届く。(出産を伝えたものと思われる)」(荒正人、前掲書)
3月20日
張之洞湖広総督、小田切上海領事に満州三省開放提議。
5月11日、政府は見合わせることを勧告。
3月20日
加藤外相、清国公使に満州に関する露の期限付き要求(3月26日まで)を拒否することを勧告。露に対しても、要求の撤回を勧告。
3月21日
ロンドンの漱石
「三月二十一日(木)、文部省からの送金届かず大いに困る。金沢の藤井乙男(紫影)から、書籍購入の委託を受ける。イギリス・フランス・ドイツは、世界の強国と自惚れているが、ギリシャやローマの滅びたことを忘れている。日本は未来に向って、誠実な努力を払うべきだと思う。」(荒正人、前掲書)
3月21日付け漱石のロンドン日記
ヨーロッパ列強について、
「(前略)英人ハ天下一ノ強国卜思ヘリ仏人モ天下一ノ強国卜思へり独乙人モシカ思ヘリ彼等ハ過去ニ歴史アルコトヲ忘レツゝアルナリ羅馬ハ亡ピタリ希臘モ亡ビタリ今ノ英国仏国独乙ハ亡プルノ期ナキカ、」
と、世界の帝国主義列強国イギリス、フランス、ドイツの前途を思い、それでは日本はどうすればよいのかを考える。
「日本ハ過去ニ於テ比較的ニ満足ナル現在ヲ有シツゝアリ、未来ハ如何アルベキカ、自ラ得意ニナル勿レ、自ラ棄ル勿レ黙々トシテ牛ノ如クセヨ孜々トシテ鶏ノ如クセヨ、内ヲ虚ニシテ大呼スル勿レ真面目ニ考へヨ誠実ニ語レ摯実ニ行へ汝ノ現今ニ播ク種ハヤガテ汝ノ収ムベキ未来トナツテ現ハルベシ」
と真面目に考える。
留学中の漱石はとくに愛国者である。しかし、脱亜入欧主義者でも、国家主義者でも、帝国主義支持者でもない。世界が見えるロンドンから日本の過去、現在、未来を透視している漱石である。
また、この日の『日記』には、
ふたたび、「カルルスバード一瓶ヲ買フ」(胃腸薬)とある。
つづく
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