1900(明治33)年
12月16日
虚子の長男誕生。子規は出生を祝し赤色唐紙二枚に、「年尾」「勝見」の命名案を記して送る。
12月16日
米、労働争議調停のための全国市民連合設立。
12月18日
憲政本党、大隈重信を総理に推す。
12月18日
東京湾艀会社船頭500人、年越金750円を要求してストライキ。数十人が社長宅に押しかける。翌日貸与により妥結。
12月18日
ジェノバで労働会議所解散命令。初のゼネスト。
12月19日
駐清公使に小村寿太郎任命。
12月20日
列国、対清和議12条を定める。
12月20日
星亨、東京市会汚職に関連して逓相辞職。後任、原敬(44)。
12月20日
子規・虚子・碧梧桐の3人の文集『薬玉集』刊行。
12月22日
北京列国外交団、清国に対する講和条件に関して意見一致。義和団事件(義和団の乱・義和団事件・北清事変)に関する連盟公書署名。
12月22日
前橋地方裁判所、川俣事件に判決。被告51名中、有罪29名、無罪22名。検事・被告双方より控訴。
12月22日
第15議会招集。25日開会、1901年3月24日閉会。
12月22日
漱石、下宿に寄宿していた池辺、米津を送る。
「十二月二十二日(土)、池辺(小中村)義象、米津桓次郎、 Fenchurch Street Station (フェンチャーチ通り駅)から汽車に乗り、 Tilbury Dock (ティルベリ・ドック)まで行き、日本郵船の備後丸で日本に向う。小山正太郎と Fenchurch Street Station まで見送る。田中孝太郎・渡辺和太郎は、共に備後丸まで見送り、十時三十分に出航する。」(荒正人、前掲書)
12月23日
桂太郎陸相、辞表提出。後任に児玉源太郎が任命。
12月23日
宮崎滔天(30)、横浜、山下町121番地に滞在中の孫文を訪問。フィリピン独立軍の為の武器調達費について協議。
12月23日
1日繰り上げての蕪村忌。
「子規の食いしん坊ぶりはすでにこの時期あまねく知られていたから、みなの手土産は食べものであった。例年、大阪の露石が送ってくる天王寺蕪のほか、地方の俳人から秋田能代のはたはた、高知の蜜柑、ザボンなどが届いた。会する者三十八人、盛況であった。
午後三時、根岸の写真館春光堂を呼んで、一同庭で記念撮影をした。しかし、その日の風は強くて子規は庭に降りられず、彼だけ翌日室内で撮影することにした。
(略)
どうしても背筋が伸びぬ子規を、春光堂は正面から撮ることかなわず、斜め横から撮った。伸びぬ背中を真っすぐにしようとする子規の頑張りは、軽く上向いた顎にあらわれている。その結果、伸びた髭と横顔の目つき、それに五分刈りの頭が、やや不離な表情を演出した。そしてこの子規最後の写真が、永田紅の歌うごとく、百年あまねく知られる写真となった。」(関川夏央、前掲書)
12月23日
フィリピン、米統治との協調をうたう連邦党結成。
12月24日
11ヶ国公使団、「共同照会」で「拳民・官兵」の「国際公法、人道主義および文明に対する犯罪」4ヶ条を告発。また、和議12ヶ条を全権大臣奕劻と李鴻章に手渡す。
12月25日
第15議会、開会。~明治34年3月24日迄。議長片岡健吉。第4次伊藤内閣、増税法案を成立させる。
12月25日
熊本第九銀行支払停止、九州で金融恐慌発生し、下関・東京に波及。
12月25日
桑木厳翼『哲学概論』刊行。
12月25日
~26日 ロンドンの漱石
「十二月二十五日(火)、クリスマス。 Bank Holiday (一般公休日)。鏡から、十一月十七日付の手紙を受け取る。晩餐に家鴨の馳走を受ける。
十二月二十六日(水)、 Boxing Day (ボクシングデー)。 Bank Holiday (一般公休日)。鏡宛手紙に「昨日は當地の『クリスマス』にて日本の元日の如く頗る大事の日に候青き柊にて室内を装飾し家族のものは皆其本家に聚り晩餐を喫する例に御座候昨日は下宿にて『アヒル』の御馳走に相成候」。また、留学費の乏しいことも訴え、「當地にては金のないのと病氣になるのが一番心細く候病氣は帰朝する迄は謝絶する積なれど金のなきには閉口致候日本の五十銭は當地にて殆んど十銭か二十銭位の資格に候十圓位の金は二三回まばたきをすると烟になり申候今度の下宿は頗るきたなく候へども安直故辛抱致居候可成衣食を節して書物丈でも買へる丈買はんと存候故非常にくるしく候殊に留學生は少なく逗留のものは官吏商人にて皆小生抔よりは金廻りのよき連中のみ羨ましき事はなけれど入らぬ地獄抔に金を使ひ或は無益の遊興贅澤品に浮身をやつし居候事惜しき心持致候彼等の金力あれば相應に必要の書籍も貿ひ得られ候事と存候其許も二十圓位にては定めし困難と存候へども此方の事も御考御辛抱可被成候」と書き送る。
正岡子規に、イングランド銀行とロンドン取引所付近を往来する人馬の絵葉書を送る。「柊を幸多かれと飾りけり」「屠蘇なくて酔はざる春や覚束な」の二句を書く。上部左側に「新年の御慶目出度申納候 諸君へよろしく御傳聲願上候」と書く。(明治三十四年二月十四日(木)着)
藤代禎輔(素人、在ベルリン)宛に絵葉書を出す。そのなかで、「『コーチ』は『シエクスピヤ』學者で頗る妙な男だ四十五歳位で獨身もので天井裏に住んで書物ばかり讀んで居る今は『シエクスビヤ』字引を編纂中である」と Craig のことを伝え、「二年居つても到底英語は目立つ程上達シナイと思ふから一年分の學費を頂戴して書物を買つて帰りたい書物は欲しいのが澤山あるけれど一寸目ぼしいのは三四十圓以上だから手のつけ様がない可成衣食を節倹して書物を買〔は〕ふと思ふ」とか、クリスマスに家鴫を馳走されたとか、こんどの下宿の位置について、以前が「小石川」なら「深川」のような場所だとか、会話は一口話しかできぬ、「『ロンドン』児の言語はワカラナイ閉口」などと書く。正岡子規に出した絵葉書と同じものを出す。」(荒正人、前掲書)
12月26日
漱石、子規宛に絵葉書を出す。子規に届くのは翌年2月14日。
「子規のその後の病状をうかがい、東京の深川のような辺鄙なところにこもって勉強していること、買いたいものは書籍だが、欲しいものは大概三四十円もするので手がつけられないこと、詳細な手紙を差し上げたいが、「何分多忙故時間惜き心地致候故」葉書で御免といい、東京は年の暮や新年やらでさぞ賑やかなことと思うが、ロンドンは昨日が「クリスマス」、始めて「クリスマス」に「出喰はし」たことなどを記し、左の二句が添えられ、新年の祝詞もある。
柊を幸多かれと飾りけり
屠蘇なくて酔はざる春や覚束な
ちなみに、漱石の欲しい本三四十円という金額は、日本では銀行の初任給である。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))
妻への書簡。
「倫敦の繁盛は目撃せねば分かりかね候位、馬車・鉄道・電気地下鉄・地下電鉄等蛛の糸をはりたる如くにて、なれぬものにはしばしば迷い途方もなき処へつれて行かれ候事有之険呑に候。」
「天気のわるきには閉口、晴天は着後数えるほどしか無之、しかも日本晴といふやうな透きとほるやうな空は到底見ること困難に候。もし霧起るとあれば日中にても暗夜同然ガスをつけ用を足し候。不愉快この上もなく候。」(12月26日)
12月30日
12箇条の講和条件を清国が受諾。清国全権委員、義和団事件に関する講和条件受諾を列国に回答。
12月31日
夜8時、慶應大学で「世紀送別会」。来会者500。
12月31日
夜、子規は足が痛んで熟睡できない。「うつせみの我足痛みつごもりをうまいは寝ずて年明にけり」と詠む。
12月31日
イタリア、ジェノバでゼネスト。
つづく
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