東京 北の丸公園 夏草 草いきれ 2013-07-12
*長元4年(1031)
4月28日
・平忠常は戦わずして源頼信に出頭して降伏。
源氏が平氏に代り関東に勢力を伸ばすことになる。
忠常は子の常昌らを率い、甲斐国の頼信のもとに行き降伏。
頼信は一戦も交えずに忠常を降伏させた。
その理由について、現地が疲弊してこれ以上戦うことができなくなっていたこと、そして『今昔物語集』によると、頼信が常陸介であった時に忠常は頼信に背いて戦ったが敗れ、降伏して名簿(主人に仕える証)を捧げたことがみえ、忠常は以前から頼信と主従関係を結んでいたことによる。
したがって、頼信の追討使起用には降伏を促す意味があったとされる。
忠常も、あらかじめ降伏の意思を示していたのかもしれない。
もっとも、頼信の追討使任命から降伏まで数ヶ月が経過しており、降伏の条件を巡る交渉は結構長引いたようである。
忠常の乱を平定したことによって、頼信は武名を上げるとともに、坂東の豪族への影響力を強めることができた。
頼信の嫡男頼義は乱の追討に失敗した貞盛流平氏の平直方の娘婿になって、義家・義網・義光が生まれ、貞盛流平氏の所領や鎌倉の屋敷、相模における伝統的権威を譲り受けた。
しかし、頼信と坂東との関係は、まだ所領を介した主従関係のように強いものではなく、頼信の武名に対する崇拝と頼信の庇護を期待するようなものであったと考えられる。
「頼義は河内守頼信朝臣の子なり。 性沈毅にして武略多し。最も将師の器たり。長元の間、平忠常坂東姦雄として、暴逆を事となす。頼信朝臣追討使として平忠常を討つ。并びに嫡子、軍旅に在るの間、勇決群を抜き、才気世を被ふ。坂東武士属することを楽しむ者多し。…頼義朝臣の威風大いに行なはれ、拒捍の類奴僕の如し。而も士を愛し、施しを好む。会坂以東の弓馬の士は大半門客となる」(「陸奥話記」)。
「頼信は町尻殿の家人なり。よりて常に云く、「我が君の奉為に中関白を殺すべし。我剣戟を取りて走り入らんに、誰が人かこれを防禦がんや』と云々。頼光この事を漏れ聞き、大いに驚き制止して云く、『一つには殺し得る事極めて不定なり。二つにはたとい殺し得たりと雖も、その悪事によりて主君関白となる事不定なり。三つには関白になると雖も、一生の間隠れなく主君を守ることまた不定なり」と云々」(「古事談」)。
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5月
・長元の闘乱(平致経と平正輔の衝突)の証人調べ。
5月、拷訊が始まるが、証人の証言は正輔・致経の主張をそれぞれ裏書したに過ぎなかった。
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6月
・この月、伊勢大神の荒魂(あらみたま)が伊勢斎宮(さいぐう)にのりうつり託宣したいわゆる斎王託宣事件がおきる。
託宣では、斎官寮頭藤原相通夫妻の不善を糾弾し、また神事が礼に違い幣帛(へいはく)が疎略であること過去に例をみず、これは近年の「帝王」に敬神の心がないからであり、帝王は「王運の暦数」が百代と決まっているが、すでに「百王」の運は半ばを過ぎたと、はっきりと天皇を批判した。
大神の託宣は前代未聞であり、天皇への批判もあり、関白頼通と右大臣実資は対応に苦慮した。
寮頭夫妻の流罪決定のためには陣定が必要だが、その内容を内密にして形式的に定めた。
その時の天皇自身の宣命(せんみよう)は「本朝は神国なり、中にも皇太神の殊(こと)に助け政ごち給ふ所なり」(『小右記』8月23日)と、伊勢神宮を中心とする神々が加護する神国であるとのべ、勅使がこれを神前で読みあげた。
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・この月には、相模国も「衰老殊に甚だし」という状態であった(源経頼『左経記』)
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6月6日
・平忠常(65)、京都護送中に美濃厚見郡で病没。
12日、源頼信は美濃国司に忠常の実検をさせ、忠常の首を斬り落とした旨を右大弁藤原経任に報告。
14日、朝廷は忠常の首を梟首すべきか審議。
16日、頼信は忠常の首を持って入京、神妙に降伏したことを考慮し梟首されることなく首は従類へ返却。
7月1日、頼信、戦功で丹波守を申請(翌年2月、美濃守)。
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7月
・政府は乱の処理について対策会議を開き、頼信の所望のままに恩質を与えること、忠常の子昌(つねまさ、常将)・常近(つねちか、常親)の追討を停止し免罪することを決定。
7月1日、恩賞を所望せよとの天皇の言葉を伝えられた頼信は、「今回、追討使を拝命してすぐに忠常が帰順してきたのは、朝威(天皇の威光)によるものなのに、たちまち褒賞するとのお言葉をいただいて恐縮です。朝恩に浴すことができるなら丹波国に任じていただきたく存じます」と謙遜しながら所望を語った。
その後、頼信はふたたび任国甲斐に下向し、9月18日、実資とも親しい延暦寺の尋円(じんえん)僧正高僧を介して実資に、所望国を美濃に変更していいかどうかを打診してきた。
尋円は実資に、「美濃への変更は母親の菩提を弔いたいというのが表向きの理由だが、多くの坂東武士が頼信の従者になったようで、彼らが往還するのに美濃のほうが便利だから急に希望を変えたのではないか、頼信は上京は年が明けてからでもいいかと開いてきている」と述べており、実資は「本人の所望のままという方針だから、私がとやかく言う筋合いではないし、人づてに打診してこなくてもよいことだ。しかし正月除目で他国に替えてもらおうという者が、除目後に堂々と上京するなどもってのほかだ。年内に上洛して正式に所望を述べるべきだ」と語った。
実資は、自分の内諾を得ようとする慇懃さと除目儀を軽視する倣岸さに不快感を覚えたようだ。
■源氏の棟梁、頼信
こうした頼信の謙遜と慇懃と倣岸は、自分の才覚と勲功と天皇に対する奉公の姿勢を、実資ら政府首脳に印象づけようとするものだった。
頼信は、剛胆で沈着冷静な武将の器量を備えた人物であった。
忠常を説得して無血投降させ、長期にわたる追討軍の収奪に終止符を打って平和を回復した頼信は、坂東諸国では英雄であった。
頼信はこの時期を好機ととらえ、すぐに任国甲斐にとって返し、坂東武士の掌握に努めた。
このとき頼信に名簿を捧げて主従関係を結んだ忠常子孫の千葉・上総氏や、兼光の子孫の藤姓足利・小山氏らは、源氏相伝の家人として保元の乱や源平合戦で活躍することになる。
このように頼信は、追討使として忠常を降服させた武名をテコに、坂東武士との間に主従関係を築き上げていった。その関係は、所領給与を媒介とする封建的主従関係ではなく、頼信の武名に対する崇拝と頼信の庇護に対する期待によって成り立つ情誼的主従関係であった。
頼信が坂東武士たちの往還に便利な美濃国に変更したのは、坂東武士たちの希望であろう。
頼信の館への交替宿直、これが従者となった坂東武士たちが往還する目的であり、頼信に対する軍事的奉仕であった。
こうして忠常の乱の平定を契機に、坂東諸国武士を郎等として従える源氏の棟梁が登場する。
■『今昔物語集』と頼信
『今昔物語集』の巻25には武士に関する13の説話が収録されているが、そのうち4話に頼信は主人公として登場。
『今昔物語集』の作者の頼信に対する深い関心と畏敬が窺われる。
①巻25第12「源頼信朝臣の男頼義、馬盗人を射殺すこと」
②巻25第10「頼信の言(こと)により、平貞道(さだみち)、人の頭を切ること」
源頼光宅で宴会が開かれて多くの客が集まった際、弟頼信は、客にも聞こえる大声で頼光の郎等平貞道を呼び、駿河で頼信に無礼を働いた者を殺害するように命じた。貞道は平良文の子で、三浦氏の祖忠通に比定される。彼は相模に拠点を置く東国武士であったが、頼光に祗候してたびたび上洛していた。
貞道は、主君の弟とはいえ、正式に仕えてもいない頼信から、大勢の人前でいきなり殺人を命ぜられたことにあきれ、たちまち命令を忘れ去った。
3~4ヶ月後、東国に下った貞道は駿河国で問題の男と出会った。話題は頼信による殺害命令にも及んだが、貞道は奇異な命令なのでとりあわない旨を答えた。
それを聞いた男は、別れ際に余計な一言を言った。
「此ノ事ヲセムト思(おぼ)スト云フトモ、己等許成(おのれらばかりなり)ヌル者ヲバ、心ニ任セテ為得給(しえたま)ハムズルカハ(実行しようとしても、私ほどの者を思いどおりに討ち取ることはできないでしょうな)」。
一旦別れた貞道は、すぐさま武装を整えて引き返し、たちまちに男を討ち取って首を頼信に献じたという。
貞道は、いきなり命じた殺人を思い通りに実行させることになった頼信に対し、「哀レニ忝(かたじけな)キ人ノ威(い)也」と感服したという。
力量を侮られることは屈辱というばかりでなく、敵の攻撃を招き滅亡する危険さえも有していた。それゆえに、東国武士は武名を重んじなければならず、無礼者に報復せざるをえない。
そうした東国武士の性癖を知悉した頼信は、貞道を用いて無礼者を討ち果たし、しかも彼を感服させた。彼が東国武士の性格を理解し、その力量を巧みに利用して服属させたことを物語るもの。
③巻25第11「藤原親孝(ちかたか)、盗人の為に質に捕へられ、頼信の言に依りて免すこと」
頼信が上野に受領として赴任していた時、腹心の郎等で乳母子藤原親孝の子供が盗人に人質にとられた。
頼信の説得に応じて投降した盗人に対し、頼信は命を許したばかりか食料や馬まで与えて釈放した。
敵対し名誉を傷つける者は絶対に許さないが、逆に彼の威厳の前に屈した者には、驚くほど寛容な態度を示した。
こうした度量を示すことで、投降を促進し事態の解決を迅速かつ容易にした側面があった。
断固たる措置と寛容な態度の巧みな使い分けに、坂東のように抗争が相次ぐ自力救済の世界で頼信が成功を収めた、もう一つの要因があった。
④巻25第9「源頼信朝臣、平忠恒(常)を責むること」
平忠常の乱に際し、初め頼信は公卿から追討使に推挙されたが、関白頼通は彼を起用しなかった。
理由は、頼信と忠常が主従関係にあり、忠常を擁護する可能性があると見られたことも一因と考えられる。
そして、主従関係があったからこそ、忠常は頼信の登場と同時に降伏した。
この説話は、両者が主従関係を結ぶに至った経緯を物語る。
頼信が常陸の受領となった時の事件であり、長和元年(1012)以前の出来事である。
頼信は、常陸国内の所領に対する徴税に応じない下総国の豪族平忠常を追討することにした。
忠常とは先祖の仇同士であった常陸の豪族平惟基も大軍を率いて参戦し、頼信は軍勢を整えた。
これを察知した忠常は、現在の霞ケ浦・利根川付近にあたる大規模な内海にあった船をすべて隠し、頼信軍に陸路を大きく迂回させて時間を稼ごうとした。
ところが、頼信は東国に来たことはなかったが、「家ノ伝」として浅瀬の存在を知っており、彼の軍勢はたちまちに忠常の館に殺到した。仰天した忠常は直ちに降伏、頼信に名簿を捧げて臣従したため、頼信はこれを許したという。
頼信の威を侮蔑する者を許さない迅速な行動であった。
郎従は僅かに過ぎず、地元の武士たちを組織しなければ勝利は困難であった。
成否を決めたのは、最大の軍勢3千騎を統率した平惟基の参戦である。彼と忠常が「先祖の仇」であることを知っていたが故に、その参戦を確信して忠常攻撃に踏み切った。こうした在地における敵対関係を利用したことも、成功の一因である。
同時に内海の浅瀬を知っているという頼信の豊かな知識が、敵を簡単に屈伏させ、国衙の武士たちをも心服させた要因であった。
「家ノ伝」とあるように、こうした知識は、将門の乱に遭遇した経基、武蔵権守や常陸介を経験した満仲の頃から、一族の間に蓄積されてきた。
また、彼は上野介を経験していたから、自身で情報を持っていた可能性もある(東国が初めてというのは『今昔物語集』の虚構)。
優れた戦略的知識を見せつけて畏敬の念を抱かせることは、現地の武士を動員・組織し、その士気を高める上で、大きな意味を有していた。
迅速な行動で忠常を圧倒したが、降伏・臣従した忠常に対するそれ以上の処罰を回避した。
頼信の寛容な処置は、長期間の戦闘による多大の犠牲、あるいは忠常を討伐した場合でも残党の蜂起や長く続く遺恨を防ぎ、事態を早々に収拾したことになる。
自力救済の世界で成功を収めた頼信の一貫した姿勢である。そして、忠常に対する寛容が、次の成功をもたらすことになる。
この忠常追討に際して頼信が動員したのは、独立した平惟基(維幹)の軍勢3千騎と、「国ノ兵」「館ノ兵」からなる2千騎の軍勢であった。
このうち惟基は、桓武平氏繁盛の子で、その兄で平将門追討の立役者の一人貞盛の養子となっていた。京でも活動し、『小右記』の記主藤原実資にも仕え、かつて常陸介(親王任国なので実質的な守、受領)も経験した軍事貴族であった。当時はもっぱら常陸で活動し、国衙に深い関係を有する常陸最大の豪族でもあった。受領の軍事行動に際して、こうした地元の有力武士の去就は成否を決める要因となる。
惟基と忠常は「先祖の仇」という関係にあった。
忠常の祖父で、貞盛・繁盛の叔父平良文は、将門の乱では中立を保ち、乱後に南関東に勢力を拡大しようとした。
このため、乱の勝者として勢力拡大を図った貞盛・繁盛の系統と対立・抗争を繰り広げ、その抗争は世代を超えて継続していた。頼信は、こうした事情に精通していたから惟基の参戦を見越して急速な出撃を命じた。
「国ノ兵」は国衙が組織した地方武士たち、「館ノ兵」は受領の直属軍で、京から随行した郎等や館の警備にあたる在庁官人などが含まれる。
武士である頼信でも、受領自身が主従関係に組織している武士、あるいは京や河内から随行してきた武士は僅かであった。このため、豪族の追討といった大規模な軍事行動に際しては、多くの在地の武士たちを動員しなければならなかった。
したがって、彼らの参戦を確実にするためには統率者たる受領の名声が不可欠であった。
平忠常の乱の平定により、東国で築いた頼信の名声は不動のものとなり、頼信の政治的地位は飛躍的に向上する。
そして、嫡男頼義も、桓武平氏の嫡流平直方の女婿に迎えられ、鎌倉の屋敷・所領を譲渡されるの。
東国における基盤を強化した河内源氏は、以後代々東国・奥羽の夷秋鎮圧という役割を担うことになる。
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7月11日
・頭弁の藤原経任、内大臣春宮大夫の荘人濫行を愁う若狭国司某の文と官使注進文などを右大臣藤原実頼の許に持参(「小右記」)。
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