京都 鴨川の川床 2013-08-13
*ポーランドに引き続き、全世界が同様の急激な変化のただなかに放り込まれる
90年代初頭、この「特別な政治状況」という(ポーランドの財務相)パルチェロヴィッチの理論は、ワシントンDCの経済学者の間で大きな関心を呼んだ。
驚くには値しない。
ポーランドのショック療法受け入れ宣言から2ヶ月後、その後の歴史の針路を大きく変え、ポーランドの実験に世界的な意味を付与するような出来事が起きた。
1989年11月、ベルリンの壁が歓喜のなかで崩壊し、街は人類の可能性を祝うお祭りのような熱気にあふれた。
全世界が突然、ポーランドと同様の急激な変化のただなかに放り込まれたかのようだった。
ソ連は崩壊寸前の状態に陥り、南アフリカのアパルトヘイトはもはや風前の灯火、ラテンアメリカでは独裁政権が次々と倒れ、ナミビアからレバノンまで、長く続いた戦争が終わりを迎えた。
あらゆるところで旧体制が崩壊したが、それに取って代わる新しい体制はいまだ形をなしていなかった。
世界の半分が「特別な政治状況」あるいは「移行期」に入った
その後数年のうちに、世界の半分は「特別な政治状況」あるいは「移行期」(90年代に他国による支配から解放された国はこう呼ばれた)に入った。
過去と未来のはざまの中間的な状態に一時的に置かれていた。
民主主義の促進を目的に掲げるワシントンの大手シンクタンク、カーネギー国際平和財団の幹部トーマス・キャロザーズによれば、「一九九〇年代前半(中略)「移行期の国」は大幅に増加し、一○○ヵ国近く(ラテンアメリカ約二〇ヵ国、東欧と旧ソ連二五ヵ国、サハラ以南のアフリカ三〇ヵ国、アジア一〇ヵ国、中東五ヵ国)が、ひとつの体制から別の体制への劇的な移行を経験しつつあった」という。
こうした流動的な状況と、現実または比喩的な壁の崩壊は、イデオロギー的正統主義に終止符を打つものだと多くの人は主張した。
相対立する超大国による二極分化の影響から解放され、世界の国々はようやく東西両陣営の良いところを(政治的自由と経済的安定とを組み合わせて)選び取ることが可能になったのだ、と。
ゴルバチョフはこう述べている。
「何十年にもわたり独断的な教義に催眠をかけられ、規則にがんじがらめになってきたことの影響は、それなりに大きいものがあります。けれども今日、私たちは純粋に創造的な精神を取り入れていきたいのです」
いまこそフリードマン理論に転換すべきときだ
シカゴ学派の関係者の間では、異なるもの同士をうまく組み合わせるというやり方は、あからさまに軽蔑された。
ポーランドの例を見れば、こうした混乱に満ちた移行期こそ決断力とすばやい行動力を持つ男たちの出番であり、急激な変革を成し遂げるための好機であることは明らかだった。
今こそ、かつての共産主義国家を、雑多のものを混ぜ合わせたケインズ主義的妥協ではなく、純粋なフリードマン理論に転換するべきときが来たというわけである。
シカゴ学派の信奉者にとって大事なのは、フリードマンがかつて言ったように、他の人々がいろいろな問いを投げかけたり、自らの立場を見直したりしている間に自分たちの解決法のお膳立てを整えることだった。
フランシス・フクヤマのシカゴ大学での講演「われわれは歴史の終わりに近づいているのか?」
1989年冬、こうした世界観を共有する人々にとっての”伝道集会”が、シカゴ大学で開かれた。
アメリカ国務省の政策立案スタッフ、フランシス・フクヤマが「われわれは歴史の終わりに近づいているのか?」と題する講演を行なった。
放任資本主義を提唱する人々がどんな戦略を取るべきかを、フクヤマは明確に示した。
第三の道を主張する連中とは議論などするな、勝利宣言をして機先を制することだ。
極端な考えを放棄するべきではない、両方の考えの良いところを取るとか、妥協するのはもってのほかだとフクヤマは確信していた。
共産主義の崩壊は「「イデオロギーの終焉」や、資本主義と社会主義を足して二で割ったものをもたらすのではなく(中略)経済的・政治的な自由主義の明白な勝利へと導くものだ」と彼は聴衆に語りかけた。
終わったのはイデオロギーではなく、「歴史そのもの」なのだ、と。
*この講演の内容を基にして3年後に出版されたのが、フクヤマの著書『歴史の終わり』である。
この講演を後援したのは、長年ミルトン・フリードマンのイデオロギー改革運動に資金を提供し、右派シンクタンク創設ブームにも巨額の資金を提供してきたジョン・M・オリンという人物だった。
フクヤマの講演は基本的に、自由市場と人間の自由とは切り離すことのできないプロジェクトの一部だというフリードマンの主張をなぞるものだったから、じつにふさわしい組み合わせだった。
民主主義と急進的な資本主義は互いに融合し、近代性、進歩、改革とも融合する
フクヤマは、経済的領域における規制撤廃と政治的領域における自由民主主義とが組み合わさることに「人類のイデオロギー上の進歩の終点、および(中略)人間にとっての統治の最終的な形態」がもたらされると主張し、フリードマンの主張を、大胆にも新たな地平へと導いた。
民主主義と急進的な資本主義は互いに融合するだけでなく、近代性、進歩、改革とも融合する。
この融合に反対する者はただ単に間違っているだけでなく、フクヤマに言わせれば「歴史にまだとどまっている」-キリスト教で言う「携挙(ラプチャー)」によって「歴史の終焉後」という天上の世界に他の人たちが皆、引き上げられたあとも、地上に残されたままの状態にあるようなものだという。
この主張は、シカゴ学派によって磨き上げられた民主主義回避の理論の絶好の例だった。
IMFがラテンアメリカに緊急「安定化計画」を装いながら、民営化や「自由貿易」をこっそり持ち込んだのと同様、フクヤマは激しい論争の的となっているこれらの政策を、民主化運動の波が沸き起こるポーランドからフィリピンに至る国々にひそかに持ち込もうとしていた。
フクヤマも指摘しているとおり、すべての人間は民主的な統治を行なう権利を持つという、もはや抑えることのできない合意が世界中で生まれつつあるのはたしかだった。
だがひとり米国務省だけは、人々がそうした民主主義への願望とともに、職の保護をいっさいなくして大量の解雇を生じさせるような経済システムを強く望んでいるという、とんでもない幻想を抱いていた。
もしそこになんらかの意見の一致があったとするなら、それは左翼による独裁も右翼による独裁も望まない人々にとって、民主主義とは、他人のイデオロギーを一方的に力ずくで押しつけられるのではなく、すべての主要な決定に発言権を持つことを意味する、ということだった。
言い換えれば、フクヤマが「国民主権」と呼んだ普遍原理には、国営企業の命運から教育や医療に使われる資金に至るまで、自分たちの国の富がどのように分配されるかについて選択する権利も当然ながら含まれているはずだった。
世界各地で、人々は苦労の末にやっと手にした民主的な力を行使して、自分たちの国の運命を決める当事者になろうとしていた。
1989年、歴史は心浮き立つような転換点を迎え、真の意味での開放性と可能性の時代が幕を開けようとしていた。
だとすれば、国務省という高い位置に身を置くフクヤマが、まさにその瞬間を選んで歴史の終わりを宣言しようとしたのは偶然ではなかった。
そして世界銀行とIMFがその同じ波乱の年に、「ワシントン・コンセンサス」(自由市場以外の経済理念に関する議論や論争をいっさい排除するという明確な意思表示)を発表したのも偶然ではなかった。
これらはすべて民主主義を封じ込めるための戦略であり、その目的は民衆の自由意思による自己決定を抑止することにあった。
シカゴ学派の改革運動にとって、それは当初からの唯一最大の脅威だったのである。
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