2013年10月19日土曜日

堀田善衛『ゴヤ』(9)「フエンデトードス村」(4) 「餓鬼はあばれん坊で、おッ母は怒りっぽいと来ている。悪いのはどっちだろう?」

ゴヤ版画集『きまぐれ』第25番「水がめをこわしたからだ」
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スペインの政治と社会、スペイン絵画について
「・・・、スペイン絵画の世界と、そうしてこの絵画の世界をも自らのなかに含み込んでいると思っていた政治と社会のありようについて、一通りの観察をしておきたい。
しかし、そこへ赴く前に、やはりこの頃の子供たちが通った学校なるものについて、少しのことは心得ておかなければならないであろう。」

その前に、ゴヤの頃の学校について
「いかなる学校、学塾なるものもすべて教会と切れたものではなかった。しかも学校へ行く子供は、まず中流以上の家に属するものであった。」

版画集『気まぐれ』第3、25番に見えるゴヤの折檻主流の当時の教育への批判
「少年ゴヤは、エスコラピオス修道会(慈善派と訳されている)の学校に行ったのであるが、この慈善派なるものの教師としての修道士たちは、実のところ、慈善どころか、おそろしく乱暴で欺瞞的な連中であったらしいのである。「お尻で学問修行をする」という言い方があるほどのものであった。
ゴヤ後年の版画集『気まぐれ』には、現実の観察と、その観察が喚起したと考えられる画家の幼少期の追憶にもとづく、と推されるものが少なからずある。そのなかでも、この版画集の第二五番「水がめをこわしたからだ」と題されたものは、洗濯物を背景として、左下端にこわれた水がめがあり、中年の疲れた母親が餓鬼のかわいらしいお尻を靴でぶちのめしている。

この「水がめをこわしたからだ」という表題のほかに、「餓鬼はあばれん坊で、おッ母は怒りっぽいと来ている。悪いのはどっちだろう?」という、画家自身のコメントがついている。この画家が、同じ版画集中の第三番とともに、当時の幼児教育についてかなりに深い関心をもっていたことをあかしだてるであろうと思われる。彼の聖職者批判、教会諷刺なども、ある意味では人間教育全般に対する、彼自身の批判と苦痛の表現であると言えるであろう。

生涯の友人、同級生マルティン・サバテールとの出会い
「少年はしかし、そう不出来な坊やではなかったであろうと思われる。というのは、後年彼がしるしてのこしてくれた数々の書簡には、スペリングなどの間違いはきわめて少ないからである。また後年彼はわざわざフランス語で手紙を書いて威張ってみせたりしているのであるから、向学心はつねにあったものと考えてよいであろう。」

「この学校通いの件で、もっとも重要なのは、同級生として、マルティン・サバテール(Martin Zapater)という生涯の友人をえたことであった。このサバテールの甥のフランシスコ・サバテールは、もっとも早い(一八六八年)ゴヤの伝記の筆者の一人であった。この親友への書簡が、すべてのゴヤ伝や研究のための基本資料なのであった。ゴヤの書簡はかなり多数にのぼっているのであるが、その全体はいまだに公表されていない。」

ドン・ホセ・ルサーン・イ・マルティーネス師の画塾:
ゴヤとバイユーという美術史に残る画家を輩出
「ゴヤがマルティン・サバテールとともに・・・、この学校に通いながらか、あるいは学校はやめにして、とにかくいつからドン・ホセ・ルサーン・イ・マルティーネス師の画塾に入ることになったものかは、はっきりしない。一七五八年、ゴヤ一二歳のとき、という説もあれば、この師が五〇歳のとき、一七六〇年、一四歳のとき、という説もある。・・・
ともあれ、師匠のルサーン(Luzan)は、いわゆる出藍の誉高いその若い弟子によってようやく記憶されている程度の画家であり、その名も、別の説によればルハーン(Luxan)ということになっている。」

「いずれにしても、このルサーン、あるいはルハーンという師匠が記憶されていていいのは、ゴヤだけではなくて、彼の弟子にもう一人、ゴヤよりも一二歳年長のフランシスコ・バイユー(Francisco Bayeu)という画家を出しているからである。一八世紀半ば、スペインの絵画がまったくの沈滞期に入っていたとき、とにもかくにも二人の美術史にのこる画家を出しえたということは、師匠としては誇るに足る事象であり、事績であったろう。この人が、画家としてではなくとも、教師としてすぐれた人であったことはそれで証明されている。」

ルサーン画塾の修業方法:徹底的な模写から始まる
「この師匠もまた、前記サラゴーサの名家、ピニャテルリ家の庇護をうけていて、そこからの奨学金で、ヨーロッパのあらゆる画家志望者たちのそれのように、フィレンツェ、ベネチア、ローマ、ナポリなどを訪れて滞在をしている。この師匠は、ゴヤにとって、いわばベラスケスにとっての師匠である、フランシスコ・パチェーコにあたるものであろう。そしてこの師匠の教育の特徴は、入門したての初心者に、まず木版、あるいは銅版による彫版画を与えて、その正確、確実な模写をさせることにあった。新弟子は、とにかく線の一本一本を、型の一つ一つを忠実かつ確実に模写しなければならないのである。これは、初心者にとっては、かなりに辛い、ともかく容易な修業ではなかったであろう。そうして石膏塑像のデッサンは、そのあとに来るのである。つまりは、デッサンの修業を二重に叩き込まれることになる。線というものの全変化にまず対応させられ、ついで面と量の認識に入るわけである。」

「この幼少の頃の、・・・彫版画の模写は、後年のゴヤにまことに重大な影響 - 影響などというよりは、決定的な刻印をきざみ込んでいる。・・・後年の、『気まぐれ』、『戦争の惨禍』、『妄(=ナンセンス)』(Los Disparates)、『闘牛技』(La Tauromaquia)などの版画集の萌芽は、この修業第一歩のところに、すでに見られるであろう。彼は、この旧式・・・、修業法を、まことに十全に、そうして美術史上においても最高の成果にまでもち込んだ、第一の、そうして最高の画家となる。

ルサーン画塾の規模
「このピニャテルリ家庇護下の画塾は、教師としては彫刻家のファン・ラミーレスという人などを含む、かなりに規模の大きいものであったらしく、弟子たちの数もかなりにのぼっていた。
ということは、それだけの需要があったということである。マドリードには言うまでもなく、セピーリアやパルセローナ、バレンシアなどにも、そういう画塾がいくつもあったものであった。宮廷、教会、貴族、それに植民地からの収益と裏腹をなす国家財政の破綻とともに発展した金融業者・銀行などが主たる顧客であった。」

ベラスケスの師匠パチェーコとゴヤの師匠ルサーンの共通項:異端審問所の familie (”内々の通報者”)
「・・・
それは、この両者ともに、異端審問所の familie なる役目を果していたことである。・・・これは要するに、”内々の通報者”ということであった。異端審問所は、社会のありとあらゆる層、職業、機関に、この”内々の通報者”、すなわち密告者の網をもっていて、内々の者であるから、彼は自分の通報について何の責任を問われることもなく、従って法廷に自ら証人として出て自分の通報の信憑性を証明する義務も必要もなかった。だからこの審問所の familia であるらしい、と目された人は、当然なことに人々から極端に怖れられていたものであった。蛇蠍の如くに嫌われていたと言っても過言ではなかったであろう。・・・」

「ベラスケスの師匠のパチェーコ、ゴヤの先生のルサーンがこの怖るべき familia の役をもっていたのは、前者はセピーリアの、後者はサラゴーサの美術界の、いわば検閲係であったということである。法王庁の膝許のローマ、イタリアの美術界とは違って、スペインでは裸体画は御法度であった。一七世紀、一八世紀を通じて、おそらく唯一の例外は、ベラスケスの『ヴィーナスとキューピッド』であり、この場合も、裸のヴィーナスは背中を見せて後ろむきになってい、羽根の生えた天使キューピッドが鏡をもっていてこの女性の顔をうつすにとどめているのである。その何世紀にもわたっての強力な禁制を真向から破った人が、われわれの主人公であった。『裸のマハ』がそれである。この作には、神話に託したものも、何らかの宗教性なども、いささかもありはしない。むき出しの、それは、女、というものであった。

それに、もう一つは、画家の主要な仕事が教会関係のもの、王室、貴族、高位聖職者たちの肖像などであってみれば、瀆聖的なものや高位の人々の権威をいささかなりとも失墜させるようなものは、公表の以前に禁止しなければならなかったからである。

こういう怖ろしげな師匠をもったゴヤはしかし、後年、この異端審問所を怖れなければならなくなる……。」

宗教的抑圧、光と影、そして人間凝視
「・・・宗教的抑圧と禁制のはげしい社会とは、要するに、光と影、表と裏の対比の強烈な社会でもある。それは眼光の鋭い肖像画家たちにとっては、ねがってもない仕事場でもあるであろう。そういう人間凝視ということから発した肖像画は、おそらくベラスケスによる教皇『インノケンチウス一〇世』を嚆矢とするものであろう。ベラスケスは、ゴヤとは異なって、結果(=作品)としてはきわめて知的なものをもたらしてはいるが、比較の上で言って、きわめて知的客観主義、あるいは無意識に近いところがあるだけに、それだけに一層に痛烈かつ残酷な視線の持ち主であったことをうかがわせるに足りる。

こういうベラスケスに比べて、ゴヤは後から来て先行者の業績を知っているだけに、意識的にならざるをえないであろう。」

サラゴーサにおける宗教的抑圧の下のモーロ人たちの享楽的な遺産
「・・・サラゴーサの町は全スペイン的な宗教的抑圧のその下に、もう一つのものを秘めていた。それは市民生活のなかでの、モーロ人たちの遺産、きわめて享楽的な遺産である。
音楽と踊りと、従って女性との往来の実質的な自由さである。日本で言っての花街のようなものも備わっていた。・・・」

サラゴーサの名物:エル・ピラール大聖堂とラ・セオ大聖堂の勢力争い
「それからもう一つ、エプロ河に沿って並び立つラ・セオと称される大聖堂と、エル・ピラールと称される大聖堂との、この二つの教会の、この町での勢力争いが、いわばこの町の名物として登場して来る。町はこの二つの組のようなもので真二つに割れていたものであったらしい。町々や各職業ギルドは、もとよりそれぞれの守護の聖者や聖女をもっていたが、それらも前記の組のどちらかに属していた。従って若者たちも、みなどちらかに属して、喧嘩傷害沙汰が絶えなかった。この対抗意識が昂じて来ると、若者はたった一人だけで夜の町を歩くことが危険になるほどのものであったようである。」
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