2014年3月13日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(27)「ふたたびサラゴーサへ」(6終) 「直接には眼を描かないで、しかもなおその人物の視線がどこに注がれているかを描く・・・」

北の丸公園 2014-03-12
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ゴヤの妻ホセーファとセバスチャン・バッハ夫人
「私はこのホセーファの肖像画をつくづくと見ていて、しばしばセバスチャン・バッハ夫妻のことを思い出す。バッハ夫人もまた、一八人だったかの子を産んだものであった。
・・・兄のフランシスコによって厳重に監督されて育って来たペパは、結婚してみてはじめてわかった夫のパコの銀ながしぶりには決してなじめなかったであろう。ペパの妻女としての生活は、いかに物質的に豊かであったとしても、終始、心の安まるものではなかつたであろう。」

ゴヤは、これはもう実にとてつもない性慾の持ち主であった
「夫のゴヤは、これはもう実にとてつもない性慾の持ち主であった。・・・
その証拠の一つに、あわれなホセーファが一八一二年の六月二〇日に死んでから、二年と四ヵ月ほどしてゴヤはレオカーディア・ソリーリァなる四〇歳も年下の女性にまたまた女の子を産ませているのである。そうしてこのレオカーディアなる女性は、ホセーファの死んだ年に、夫のヴェイス氏なるドイツ系商人から、不貞を理由に離婚をされている。ゴヤがこのレオカーディアに子を産ませた時は、すでに六八歳(!)の高齢なのである。まことに恐れ入ったる次第である。」

「・・・その離婚事件が起ったのは、ホセーファが瀕死の病床にあった年である。
まことに性慾のかたまりのような男である。動物学的な性慾の持ち主であったと見做してよいであろう。この点でも、ピカソは師の名に恥じぬ立派な弟子であったと言って過言ではないであろう。・・・」

当方の感覚が、この典型的な毛唐、紅毛によってたぶらかされてしまっているということなのではなかろうか、という疑問
「・・・こういう脂気だらけの赭ら毛の、毛唐とか紅毛とかということばに典型的にあらわされている、胸も背中も毛だらけの動物学的な人間、というよりは肉体と、いったいわれわれ日本人がどこまでつきあい切れるものであろうかという問題がひそんでいるのである。・・・
・・・
こんなにもどぎつくて、濃厚で、露骨て、脂肉にみちみちて、どこどこまでもぎらぎらとぎらついた存在と、果してつきあい切れるものかどうか。・・・
彼の作品に、鋭敏に反応しようと努めること自体、実は鋭敏でもなんでもなくて、当方の感覚が、この典型的な毛唐、紅毛によってたぶらかされてしまっているということなのではなかろうか・・・。
砕いて言ってみるとして、まず以上のような、自身についての疑いを、私はこのゴヤという男を、なんとかして書いてみたいと思い出しての二〇年間、ひそかに持ち続けて来たものであった。」

厭になることは一度もなかった
「けれども、不思議なことに、この二〇年間に、上述のような形で厭になることが、ついぞ一度もなかったのであった。そうして厭にならなかったことの理由が、いまだに私には自身で判然としないのである。」

この怪物が、後日、精神の世界での化け物と戦いはじめることによって救われている
「私はこの怪物、「巨人」(El Coloso)の横に、いまにも踏み潰されるのではないかと、怖れと戦慄をもって坐っているだけである。
おそらく、この怪物が、後日、精神の世界での化け物と戦いはじめることによって救われているのであろう、と私は思っている。」"

「さもあらばあれ、ホセーファのことは別としても、この男の女性経験というものが、実に複雑に屈折したものてあって、時に女性憎悪というところまで行くことは、後に検証をすることになるであろう。」

波風もなく、きわめて幸福なサラゴーサでの生活
「一七七三年七月二五日に、マドリードで結婚式をあげて、ゴヤ夫妻はふたたびサラゴーサヘ帰って来たものと考えられる。そうしてこの結婚式以前にもサラゴーサで、いくつかの教会からの注文仕事に従事していた。
このサラゴーサての、パコとペパの生活は、おそらく波風もなく、きわめて幸福なものであったろう。仕事は、エル・ピラールの内陣穹窿の天井画の成功によって保証され、次々と注文があった。」

サラゴーサの大風(シエルソとポチョルノ):”血は火ダネがなくても燃え上る”
「サラゴーサは、夜となく昼となく、大風が吹き荒れた。・・・
この大風を、人々は el cierzo と el bochorno との二種類に分けていた。前者は骨を刺す冷たい北風であり、後者は熱風を意味した。後者のポチョルノの方は、エプロ河上流の西側に蟠踞しているモンカーヨ山脈と呼ばれる、赤い砂岩と石灰岩との、木の一本もない真裸の山で灼かれた空気が押し寄せて来るものである。これが昼間のあいだに吹きまくり、夜に入ると、今度はシエルソと呼ばれる北風と交替する。この北風は、昼間の熱風によってあたためられてよどんだ暖気をめざして、標高三〇〇〇メートルを越すアラゴン・ピレネー山脈から、雪と氷で刃のように冷やされた空気の一団が襲いかかって来るものであった。
寒風は東方的な、迷路のような細い裏通りを喚き声をあげて吹きまわり、朝が来ると今度は熱風と交替する。アラゴンの諺に、”血は火ダネがなくても燃え上る”というのがあるが、こういう風土にさらされては、血も熱くなるというものであろう。」

修道院アウラ・デイ附属教会の壁に描かれた七面の、巨大な壁画
「エル・ピラールでの成功によって保証された画家への注文は相つぎ、なかでこの期の代表作となったものは、カルトゥーハ会に属する修道院アウラ・デイ (Aula Dei)附属教会の壁に描かれた七面の、巨大な壁画である。
この修道院は、一五世紀に建築に着工されたもので、サラゴーサの一〇キロ北方の、エプロ河の支流の一つガリェゴ川左岸に位置するモンタ二ャーナという町にある。そうしてこの修道院の次長が、幼少時代のゴヤの後見者であったサルセード師であった。・・・
彼はのびのびと、しかしすでに天才の片鱗どころか、その明らかな徴候を示している。とりわけて、直接には眼を描かないで、しかもなおその人物の視線がどこに注がれているかを描くという、後日の表現主義から印象主義絵画の手法として推移して行く筈のものを、すでにして自分のなかに発見している。・・・」

残念ながら七枚の絵の半分は、ひどくいたんでいる
「・・・残念ながら七枚の絵の半分は、ひどくいたんでいる。
スペイン独立戦争当時に、サラゴーサを包囲したフランス軍が、ここを兵営にしてしまったのである。そうして、直接戦火に遭ったわけではないのだが、フランス軍がいったいどういう宿営の仕方をしていたものか、あるところは火災で屋根が落ち、半世紀ものあいだ絵は雨風にさらされた。そうなっては住めないので、修道院は空き屋となって荒れ果てた。これらの絵は、一時は完全に忘れられてしまりたものであった。
文献的にもゴヤもサバテールもその書簡で言及をしなかつたために、初期の伝記作者たちの限からも失われてしまっていた。そうして、それ以上にひどいのは、いま私は七面の壁画と書いたのであったが、本来ゴヤは一一面を描いたのに、このうち四面は、今世紀のはじめに某々というフランス人の修道士画家の手に上って塗りつぶされてしまった。このことは、一九世紀における、われわれの画家に対する評価をも示すものであろう。
この修道院を荒廃させたのがフランス軍であれば、皮肉なことにこれを約五〇年後に修復をしたのもフランスから来た修道士たちであった。・・・」

エル・ピラール大聖堂での仕事はフレスコ画、アウラ・デイでの仕事は油絵
「ところで、最初の成功をおさめたサラゴーサのエル・ピラール大聖堂での仕事と、このアウラ・デイでの仕事の違いはいろいろとあるのであるが、まず第一にあげておかなければならないのは、前者がフしスコ画であって、後者は油絵であるということである。
読者の便宜のために、ここでフレスコ画についての説明を、場違いであるかもしれないが簡単にしておきたい。フレスコ画法は、人類とともに古いものである。古代エジプトの神殿やピラミッドなどの墓に描かれたさまざまの絵や象形文字は、みなこの画法によったものである。この画法は、イタリアでの最盛期には、厳重にふるいにかけた、細かい、ある種の火山灰土(ブーツオラナと言った)と古い消石灰とをまぜてつくった塗料で、漆喰を塗って、まだ乾き切っていない壁面に直接、水溶性の絵具で描いて行くものである。この画法の短所及び長所は、濡れた壁面に描かねばならぬところから、修正が利かない点にあると言えよう。何分、壁面が乾いてしまったら、それでおしまいなのである。それをもう一度濡らしたら、今度は絵そのものが滅茶苦茶なことになる。だから、全体の構想と、デッサンがあらかじめ決定されていなければならない。即興は許されないのである。
東方の墨絵や、いわゆる日本画も修正の利かぬものであるが、この方は即興の余地が充分にあるという、面白い対照がそこに見出されるであろう。」

スペインにあるフレスコ画の最高傑作
「スペインにあるフレスコ画の最高の傑作は、おそらくマドリードの宮殿にある、ティエポロの『オランプ』と題された、神訪中の諸人物の、宙空でのサーカスめいた遊びを描いたものと、われわれの画家が後年描く筈の、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダの小聖堂の天井画であろう。」

アウラ・デイの油絵と”セピーリァの土”
「ところで、今回のアウラ・デイの場合は、フレスコではなくて油絵である。ゴヤは、いろいろな実験がしたかったものであろう。彼は漆喰の壁面をみがいてなめらかにし、そこへ”セピーリァの土”と呼ばれる、赤っぽくて煉瓦色の、粘土類似のものを地塗りとして壁に塗り込む。この地塗りの効果を、彼は後日まことに巧みに操作するようになる。
この”セピーリアの土”は、ベラスケスのすべての作品にも地に塗り込んであるものであって、彼のあの渋いピンク、あるいは銀緑色の落ち着きや、背景がもつ吸引力などは、この土のおかげによるものであった。」

ゴヤはここで実にのびのびと、大胆に仕事を進めている
「ゴヤはここで実にのびのびと、大胆に仕事を進めている。時代の好尚であるバロック風の方法と新古典主義とを適当に配合して、すでに自分がゴヤという特定の画家であるということをはっきりと主張をしている。
ということは、実はこの二つのやり方を脱け出して行く、ということなのだが、そこまでのことはいまは措くことにしたい。
そうして大胆に、というのは、建築としての修道院は、何分にもウナギの寝床のようなものである。両側の壁は、これも長方形のかたちをとる。もっとも大きいものは、タテに三メートル、横に一〇メートルの『キリストの割礼』である。だから必然的に画面内の運動は、右から左へ、また左から右へという横型の形を主軸とすることになり、これにアクセントを振って行くということになる。
その基本技を、コヤは実に大胆に生かしているのである。・・・ここにあるものは、『聖母のエリザベート訪問』『キリストの割礼』『諸王礼拝』『l神殿への奉献』『マリアの誕生』『聖母の婚約』『受胎告知』七枚である・・・」

彼の全イデオロギーがすでに提出されている
「・・・群衆の扱い方、それに天使も聖人も聖女も、すへて完全な肉体をそなえた男と女であること、形態の表現については線に依存することがきわめて少ないこと、あるいは必要とあればグロテスクなまでの歪曲をも辞さないこと、つねに全体が問題なのであって、細部は全体に仕えるべきものという、彼の全イデオロギーがすでに提出されている・・・」

アウラ・デイでの仕事は、マドリード制覇のための基礎となるものであった
「この大仕事を、彼は一七七四年の四月から同年の一一月までのあいだに完成している。ほんの七ヵ月のことであり、おどろくへさ早描きと言わねばならないであろう。・・・
・・・このアウラ・デイでの仕事は、マドリード制覇のための基礎となるものであった。
エル・ピラールでのフレスコ技法による成功、それにアウラ・デイでの油絵技法による巨大壁画の征服は、われわれの主人公に大きな自信と誇りを与えた筈である。
この時期の、サラゴーサでの他の仕事には、生れの村のフエンデトードスにほど近い、ムエールの町の教会でのもの、あるいはサラゴーサから三〇キロ強ほどエプロ河を北へさかのぼったところにあるレモリーノスという町の教会でのもの、あるいはサラゴーサ市内のソブラディエール館と呼ばれているガバルタ伯爵邸でのものなどがある。いずれも宗教的主題を扱ったものである。」

彼は二八歳である。前途は洋々たるものである
「彼は二八歳である。前途は洋々たるものである。・・・
・・・、一人の芸術家の形成にとって、とりわけて彼のように長く長く生きた芸術家にとっての基本的なものは、この頃に形成されて来る・・・。・・・」

ここまでの彼の仕事は、このあとに来る、四〇代に入ってからの仕事によって支えられている
「しかしこうした原則のようなものは、たとえばアントアーヌ・ワットオのような早死にをした芸術家に適用されないことは言うまでもない。・・・ジョルジョーネやジェリコウなど・・・ラファエロ・・・べラスケスもまた、その種の人であった。初手からすでにもっとも完璧な作品を描いてしまう人であった。
われわれの主人公はそういう奇蹟的な人物ではなかった。・・・技術だけは、とにもかくにも修得していたとしても、思想的な発見という点では、まだ零に近い。
宗教的主題の仕事をしたといっても、真の宗教性は、実はまことに乏しいのである。人物が、演劇的なまでに生き生きしすぎる。それは、たしかに傑作ではあるけれども、いわばバカ力を発揮した、腕力の勝利のようなものであった。ここまでの彼の仕事は、いわばこのあとに来る、四〇代に入ってからの仕事によって支えられているのである。
もし万一、四〇歳以後の作品がなかった、あるいは消えてしまっていたとすれば、美術史はバイユーの名は記してもゴヤなどという名を記載することはなかったであろう。」

ふたたびマドリードへ攻めのぼらねばならぬ
「この頃ゴヤは、サラゴーサ市に、一七七一年に三〇〇レアールの税金を払っている。師のルサーンは、四〇〇レアール。そうして、一七七五年には四〇〇レアールで、ルサーンは三五〇レアールと逆転をしている。サラゴーサの画家のなかでは最高額の納税者となっている。
さて、ふたたびマドリードへ攻めのぼらねばならぬ。」
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