2014年3月25日火曜日

『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)を読む(5) 「ソメイヨシノ革命。私たちは今もそのなかにいる。それはもろもろの説話や伝承をふくめて、私たち自身の物語なのである。」

千鳥ヶ淵 2013-03-29
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説話の宇宙
ソメイヨシノは幾重もの物語にくるまれている
「・・・船津静作のノートと『曙山園藝』が伝える話は奇妙なくらい似通っている。曙山の話の方がはるかにおしゃべりで劇化されているが、腕の良い老園芸業者の策略、交通機関の影響、土壌の適合、ヤマザクラの駆逐といった部品はほぼ一致している。おそらく元になった伝承を共有しているのだろう。」

「『曙山園藝』と同年に出た若月紫蘭『東京年中行事』では、一部ちがった版(ヴァージョン)を見ることができる。染井の植木屋、吉野の知名度を利用した、土壌に合った、のあたりは同じだが、「吉野から種子を取ったものと言って売り出した」「今は交通の便が開けて…‥・他国にも見られるようになった」といった細部や後日談が加わり、いっそうもっともらしくなっている。平成になってからも、これをそのまま事実として紹介した本があるくらいだ。」

「明治の頃には、別の系統の伝承もあったようだ。大町桂月は『筆艸』(明治四二年)で「東京には、吉野桜と称するもの多し。…吉野桜とは、吉野山の桜の意に非ず。染井の植木屋なる吉野屋より出でたりとの事なり」と書いている。・・・」

「ソメイヨシノと人が取り結んでいる関係の不思議さが少しわかってもらえただろうか。品種の起源、つまり「どこから来たか」がよくわからないだけではない。名の由来、つまり「どう受け取られたのか」も、追いかけていくと、どこまでが事実でどこからが想像か、はっきりしなくなる。たんに信頼できる記録がないというより、この桜が受け入れられた背景にも現実と想像の循環があり、それが事実だけを記録することをむずかしくする。ソメイヨシノは幾重もの物語にくるまれているのである。」

事実にちかいから説得力があるのか、もっともらしく聞こえるから説得力があるのか
「現存する最古のソメイヨシノは青森県の弘前公園にある。明治一五年(一八八二)に植えられたものだ。文献上はもう一つ、小石川植物園にあった老樹が知られている。これは戦前すでに「樹齢百年あまり」といわれていたが、戦災で焼けてしまった。その前になると、言葉の断片だけが残る。それらを適当につなげれば、一つの桜語りができあがる。そのなかに真実がふくまれる可能性はあるが、話全体としては、事実にちかいから説得力があるのか、もっともらしく聞こえるから説得力があるのか、判別できない。」

ソメイヨシノには、現実と想像を区別しがたくさせる何かが特に強く働いているようだ
「もともと桜という花にはそういうところがある。言葉の堆積のなかにうずもれていくのだ。和歌の世界でも吉野を見ずに吉野が詠われた。歌の連なり、言農の連なりのなかに桜は理めこまれ、言葉とそれ以外を切り離せなくなる。その点では、ソメイヨシノ伝承の重層は桜の伝統を受け継いだものとさえいえるが、この桜には、現実と想像を区別しがたくさせる何かが特に強く働いているようだ。」

ソメイヨシノの起源は、日本近代の時間的な原点(=明治維新)と空間的な原点(=東京)と見事に重なる
「ソメイヨシノは幕末から明治初めごろに、東京(江戸)の染井周辺から各地へ広まっていった。この桜の始まりに関して、確実にいえるのはその二点だけである。それに何かをつけくわえよぅとした瞬間、自分が説話の海のなかにいることに気づかされる。たとえそこで物語を禁欲しても、この二点は日本近代の時間的な原点(=明治維新)と空間的な原点(=東京)とものの見事に重なるがゆえに、いつのまにか別の起源の物語へ引き寄せられてしまう。」

この桜のまわりには、自己複製していく説話の断片が分厚く取りまいている
「この桜のまわりには、自己複製していく説話の断片が分厚く取りまいている。それらは日本近代のさまざまな言説と交錯し共鳴しながら、過剰な意味をつくりだし、神話的な起源を編み上げていく。「生まれ」の物語という点では、「クローン」の記号化もその一つなのである。」

理念の重力
「イデオロギー」や「美意識」といった言葉では到底すくいとれない、幾重にも積み重なった言葉と想像力の地層の上に、この桜は根づいた
「ソメイヨシノの「一面の花色」は、桜の美しさを極端な形で現実化したものだ。その意味で、ソメイヨシノはやはり理想的な桜であった。けれども、・・・「一面の花色」は桜の理想のあくまでも一つにすぎない。別の理想像をもつ人、いやそれ以上に、理想というものの多様さを直感できる人にとって、ソメイヨシノは美しさとともに、異様に歪曲された感じをいだかせる。その気持ち悪さもまた、この世のものならぬ妖しさという魅力をただよわせる。
ソメイヨシノという新たな桜が掻きたてた、そして今なお掻きたててくる感覚を、あえて単純化すれば、そんなふうにいえるのではないか。「イデオロギー」や「美意識」といった言葉では到底すくいとれない、幾重にも積み重なった言葉と想像力の地層の上に、この桜は根づいたのだ。」

ただ一つの桜の美しさ、ただ一つの桜らしさが昔からずっとあったかのように、遠近法を再構成してしまう
「理想の一つであるにせよ、それが現実に出現した衝撃は大きい。実現した理想、現実化した想像力は、巨大なエネルギー=質量が空間自体をねじまげていくように、もともと多様だった理想や想像力をその周囲に再配置していく。ただ一つの桜の美しさ、ただ一つの桜らしさが昔からずっとあったかのように、遠近法を再構成してしまう。」

日本古来の伝統、伝統的な桜と人との関係がそこで創造される
「ソメイヨシノの春を昔からの春と思う人は、もちろんこの遠近法の内部にいる。同じ色彩で一斉に咲き、一斉に散ってゆくクローン桜の景色を、日本人がずっと見てきたかのように思いこんでしまう。そして、ついついその咲き姿にことよせて「日本人は昔から桜のように……」などと語ってしまうのである。日本古来の伝統、伝統的な桜と人との関係がそこで創造される。」

ヤマザクラへ回帰しようとする人も、別の形で伝統を創造してしまう
「あるいは、ことさらにソメイヨシノを嫌い、ヤマザクラへ回帰しようとする人もこの内部にいる。ソメイヨシノの普及以後の多くの人々にとって、桜とはソメイヨシノのことであり、ヤマザクラは後で知った新奇な桜である。それゆえ、その美しきに惹かれるのは伝統的な感性なのか、刺激を求めるCM的感性なのか、本来区別しえない。無理に区別を立てれば、別の形で伝統を創造してしまう。」
渡辺保『千本桜 花のない神話』
赤瀬川原平『仙人の桜、俗人の桜』

起源と反起源の遠近法
ヤマザクラ回帰もソメイヨシノ的感性の産物といえる
「・・・二人の桜語りが紡ぐ言葉は、まるで教科書をなぞったように、見事に型にはまっている。
・・・そもそもソメイヨシノ以前には一種類の桜が列島を覆うことはなかった。東北地方では小さい花だけが先に咲くエドヒガンが目立っていたし、京都や江戸(東京)などの大都市では人工的に作られた八重桜が愛好され、花見も多品種分散型が多かった。・・・「ソメイヨシノ以前」をヤマザクラで代表させること自体、現在のソメイヨシノの姿を投影したもので、きつい言い方をすれば、ソメイヨシノ的感性の産物といえる。
だからこそ、ソメイヨシノ以後の私たちにはこの種の物語がもっともらく聞こえる。それは植物学的起源さえ容易に捏造してしまう。」

ソメイヨシノやヤマザクラに伝統を見る人だけでなく、断絶を感調する人もまた、この遠近法から自由ではありえない
「ソメイヨシノやヤマザクラに伝統を見る人だけでなく、断絶を感調する人もまた、この遠近法から自由ではありえない。そうすることで、ソメイヨシノが実現した桜への感性が消去される。「伝統がない」という新たな伝統がそこで創造されてしまう。ないことがあることになり、あることがないことになる。それは遠近法の二つの側面であり、始まりを司る神ヤヌスの二つの顔である。
起源と反起源の遠近法。「近代」という時間と社会の了解は、どこかどうしようもなく、そういう視座を人々にいだかせる。いくつもの起源を同時に創造し、何重にも歴史の物語を派生させていく衝撃。「革命」とは本来そういうものなのかもしれない。
ソメイヨシノ革命。私たちは今もそのなかにいる。それはもろもろの説話や伝承をふくめて、私たち自身の物語なのである。」

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