2014年3月14日金曜日

明治37年(1904)6月 大塚楠緒子「進撃の歌」 内田魯庵「兵器を焚きて非戦を宣言したる露国の宗教」 平出修「所謂戦争文学を排す」

北の丸公園 2014-03-12
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明治37年(1904)
6月
この月
・この頃、林権助公使支援のもと、長森藤吉郎が荒蕪地開拓権委託をうけるため韓国政府と交渉。契約寸前で、輔安会が暴露。
民衆数万が糾弾集会、軍警との衝突。秘密交渉中断。
ここでいう荒蕪地は可耕地321万2千町歩のうち141万町歩、開拓権を委託させ日本農民を植民する計画。
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・若山牧水(19)、教室で同じ九州出身の北原白秋(当時射水と号していた)と知り合う。同級の中村蘇水とも親しく、3名で「早稲田の三水」と呼ばれる。
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・二葉亭四迷、次男誕生。8月には20歳年下のこの子の母親(21)を入籍。他に前妻に2人の子、老母を扶養。
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・大塚楠緒子(29歳)「進撃の歌」(「太陽」6月号)。10連からなる。

第一連
進めや進め一斉に 一歩も退くな身の耻ぞ
奮闘激戦たぐひなく 旅順の海に名を挙げし
海軍士官が潔よき 悲壮の最後を思はずや
如何で劣らむ我も又 すめらみ国の陸軍ぞ
何に恐るゝ事かある 何に臆する事かある
日本男子ぞ鳴呼我は 日本男子ぞ鳴呼我は

漱石は6月3日付野村伝四宛書簡の中で、「太陽にある大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅教の如し女のくせによせばいゝのに、それを思ふと僕の従軍行抔はうまいものだ」(『漱石全集』22巻)と記す。
野村伝四(1880~1948)は、漱石の五高時代と東大の英文科の教え子。
大塚夫人とは親友大塚保治の夫人大塚楠緒子のこと。

漱石が大塚楠緒子の「進撃の歌」を酷評したのは、極端な戦争礼賛、露骨な戦争謳歌を嫌い不満だったから。
戦争賛美の代表は「太陽」誌上の大町桂月と長谷川天渓ら。
「太陽」は新興ブルジョア大橋新太郎の経営する東京博文館から発行されていた。
3月号には「宣戦詔勅」を転載、6月号には「進撃の歌」とともに印東昌綱の「広瀬中佐」、11月の臨時増刊号には「日露海戦史」が掲載され、好戦的な読み物が多い。

大塚楠緒子(小説家、歌人1875~1910)は、美人の評判が高く、大塚(旧姓小屋)保治(東大教授、美学者)を婿養子に迎えるが、その際、漱石も候補に上がっていたというエピソードもある。
また、漱石・楠緒子・保治の三角関係があったことを論究したものもある(小坂晋「楠緒子と漱石の恋愛」)。
楠緒子は漱石に師事して小説の指導を受け、「そら炷(たき)」(1909年)は、漱石が「朝日新聞」に推薦し掲載されている。
漱石は、「思い出す事など」(1910)では”大塚夫人”、「硝子戸の中」(1915年)では”大塚楠緒さん”または”楠緒さん”、「日記」では”楠緒子さん”とよんでいる。

大塚楠緒子は、のちには厭戦の心情をこめて「お百度詣で」(『太陽』1905年1月)を発表。
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ
ふたあし国を思ヘども
三足(あし)ふたたび夫(つま)おもふ
女心に咎(とが)ありや

楠緒子の死去(35歳)の際、漱石はそれを1910年11月修善寺入院中のとき知り、床の中で手向の句をつくっている。

棺には菊抛げ入れよ有らん程

有る程の菊抛げ入れよ棺の中     (『漱石全集』20巻)

漱石は「大塚楠緒子死亡広告」(『全集』26巻)では、狩野亨吉・佐々木信綱・芳賀矢一とともに友人代表に名を連ねている。
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・内田魯庵「兵器を焚きて非戦を宣言したる露国の宗教」(「太陽」6月号)。
ロシアのコーカサス山地に住んで、戦争絶対放棄を実践した農民の土俗宗教団体であるドウホポール教徒を紹介。
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・平出修「所謂戦争文学を排す」(「明星」6月号)。
平出修は、明星派全盛の中で随一の論客、代表的イデオローグ。
「明星」主宰は、「与謝野鉄幹であったが、修はそのよき参謀格の智将の風貌もあった」(短歌研究家・新間進一「『明星』『スバル』と平出修」)。

「今や我国、事を露国と構え、海陸の将士は銃剣を執りて満韓の野に奮闘し、一代の民心之に集注す」(『定本平出修集』1巻)、この時にあたり、所謂文芸の士と称する者、筆をもって殉難の誠をつくそうとする「其志や頗る可」と思うが、しかし、いわゆる「文芸といふ仮面の下に、俗悪な述作を公にして、名づくるのに戦争文学といふのにいたつては、観て堪ふ可らざるものあるなり」と、する。

文名の名にして趣味は実である。趣味の実は「戦争」の語があっても何の増減もなく、文芸の名は「戦争」の文字があっても何の影響もない。文芸の士は趣味の実ある文芸をつくることで務めは果たせる。ところが、
名を美にして実を俗悪にし、戦争文学を云々して一時を糊塗するとは、(中略)豈に恥づるなしと云ふぺけんや
とする。

「近時の戦争小説」は、畢竟戦争を機会とした一情話だけ、とみて、時代精神の描写などと云って、戦争文学を弁護する説もあるが、「採用できない」。
戦争文学を排斥するのは、ただ材料を戦争に採るというだけの理由ではなくて、「所謂戦争文学が何れも皆際物(きはもの)なる点に存し」、「際物文学はことごとく棄てるべき文学」と断言する。

しかも、こうした際物文学の好標本をもって、「国民の土気を鼓舞」、「軍国の真相を描破」するというが、大言壮語が一時を欺くにすぎなく、しかも評論家の中には、このような「軽浮にして卑陋なる作物」にも多大の賞讃を与えて、戦争を謳歌しない文士に対しては、「冷嘲悪罵、誣ふるに反逆を以つてせんとし」、所説常則を欠き、「言論殆んど狂せるに似たり」という。

そして最後に
「戦争は戦争なり、文学は文学なり、愛国は愛国なり、趣味は趣味なり、各其職分を異にし、其意義を異にす。兵士に文を以て責むに能はざると共に、文士に戦争を以て強ふる無くんば、庶幾(こひねがわ)くは真の述作の世上に顕出するを得むか」
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・大石誠之助の感化で社会主義に関心を抱いた西村伊作は、中学校卒業後のこの年6月、自転車で新宮から京都へ向かう道中で、平民文庫を売る行商を実践。
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・アンリ・マチス(35)、ヴォラール画廊にて最初の個展(ロジェ・マルクスの序文によるカタログ)。
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・ドイツ、雇用者協会設立。
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