2014年3月16日日曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(94) 「第11章 燃え尽きた幼き民主主義の火-「ピノチェト・オプション」を選択したロシア-」(その2) 「彼らが自家製ピノチェト・システムといったものを作り上げ、ガイダルのチームが「シカゴ・ボーイズ」の役目を果たしたとしても、まったく驚くにはあたらない」

北の丸公園 2014-03-14
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ゴルバチョフの政敵ボリス・エリツィン、市民と共に共産党守旧派の戦車をはね返す
ほどなく、ゴルバチョフはロシア版ピノチェトになることも辞さない政敵に直面する - ボリス・エリツィンである。
エリツィンはロシア大統領であったが、ソ連を率いるゴルバチョフに比べれば知名度は低かった。

だが、状況はG7サミットから1ヶ月後の1991年8月19日に一変する。
ソ連共産党の守旧派がロシア共和国最高会議ビル(通称ホワイトハウス)に戦車を向かわせ、民主化を阻止するためにソ連初の選出議会を攻撃すると脅した。
エリツィンは誕生したばかりの民主主義を守ろうと集結した群衆に囲まれて戦車の上に立ち、この攻撃を「世をすねた右翼によるクーデター未遂」だと非難した。
市民らの抵抗のおかげで戦車は撤退し、エリツィンは勇気ある民主化の旗手としてもてはやされた。

街頭デモに参加した人はこう話す。
「わが国の状況を本当に変えられるんだということを初めて実感した。国民の魂が燃え上がったんです。素晴らしい一体感で、まさに向かうところ敵なしという感じでした」

エリツィンもまたそう感じた。
彼は、常に反ゴルバチョフ的な立場を取ってきた。
ゴルバチョフが礼節と節酒(もっとも物議を醸したゴルバチョフの政策のひとつは、積極的なウォッカ節酒運動だった)を提唱したのに対し、エリツィンは大食漢の大酒飲みでつとに知られていた。
クーデター前には、エリツィンの資質に不安を抱くロシア人も少なくなかったが、共産主義者のクーデターから民主主義を救うという功績により-少なくともしばらくの間は-国民の英雄となった。

エリツィンの勝利、ソ連崩壊、ゴルバチョフ辞職
エリツィンはこの勝利を利用して政治権力の拡大を図った。
守旧派クーデタ失敗から4ヶ月後の1991年12月、エリツィンは、ベラルーシ、ウクライナという他の二つの共和国と手を組んで一気にソ連を崩壊へ向かわせ、ゴルバチョフを辞職に追いやった。

「ほとんどのロシア人が知る唯一の国」であるソ連の崩壊がロシア人に与えた精神的衝撃は強烈だった。
この衝撃が、政治学者スティーヴン・コーエンが言うように、その後3年間ロシア人が苛まれることになる「三つの外傷性ショック」の第一番目だった。

「ポーランドにできたのだから、ロシアにもできるはずだ」(ジェフリー・サックス)
エリツィンがソ連崩壊を宣言した日、ジェフリー・サックスはクレムリン宮殿の一室にいた。
サックスはこの日のことをふり返る。
「「皆さん、ソビエト連邦は消滅しました」とエリツィンが話し始めたとき、私はこう思った - 「一〇〇年に一度しかない大事件だ! こんな信じられないことが起きるなんて。これこそ真の解放だ。この国の人々を助けなくては」と」。
サックスはエリツィンに、経済顧問としてロシアに招かれていたのだ。
サックスは本気だった。
「ポーランドにできたのだから、ロシアにもできるはずだ」と彼は断言した。

エリツィンはポーランドでサックスが成功したような、多額の資金調達を期待していた。
「唯一の望みは、G7から即座に巨額の金融支援の約束を取りつけることだった」とエリツィンは語っている。
もしロシア政府が資本主義経済の確立という「ビッグバン」アプローチを受け入れさえすれば、150億ドルぐらいは集められるはずだとサックスは請け合った。そのためには意欲的かつ迅速に事を進める必要がある、と。
だが、サックスの運がもはや尽きようとしていたことをエリツィンは知るよしもなかった。

1年間の独裁的権力を手中にしたエリツィン
ロシアの資本主義への転換策は、その2年前の天安門事件に続く中国政府の政策と共通する部分が多かった。
モスクワ市長ガブリール・ポポフによれば、国家統制経済を解体させるには二つの方法しかなかった。
それは「資産を社会全体で分かち合うか、指導者がおいしい部分を独占するかのどちらかだ。(中略)言い換えれば民主的方法か、共産党幹部に都合のいい方法かだった」という。
エリツィンが選んだのは後者だった。しかも彼は急いでいた。
1991年末、エリツィンは議会で異例の提案を行なう。
議会の決定によらず、大統領令により法律を公布できる特別権限を1年間与えられれば、ロシアを経済危機から脱却させ、繁栄する健全な経済を取り戻すという。
エリツィンが求めたのは、独裁者の権限だったが、議会にはクーデタを未遂に終わらせたエリツィンの功績に対する感謝の念が残っていたし、ロシアは、外国からの救済を喉から手が出るほど求めていた。
こうしてエリツィンは、ロシア経済を立て直すために1年間の絶対的権力を手にした。

ロシア版「シカゴ・ボーイズ」
エリツィンはすぐさま経済学者を招集した。
そのなかには共産主義の最後の日々に自由市場経済に関する勉強会を結成し、シカゴ学派の基本文献を読んではその理論をロシアにどう適用すべきかについて議論を重ねていた者も多くいた。アメリカで学んだ経験こそなかったものの、彼らはミルトン・フリードマンの熱烈なファンであったことから、ロシアのメディアはこの経済学者チームを本家チリにならって「シカゴ・ボーイズ」と呼んだ(闇経済が活況を呈するロシアにはうってつけのチームだ)。
西側では「若き改革者」と呼ばれたこのチームの名目上のリーダーは、エリツィンが二人の副首相のうちの一人に任命したエゴール・ガイダルだった。
1991~92年にエリツィン政権の閣僚を務め、このチームの一員でもあったピョートル・アーヴェンは、かつての仲間についてこうふり返る。
「われわれ改革者たちは、不幸なことにまるで自分を神であるかのように思っていた。自分たちがあらゆる方面で優越だという意識を持っていたから、そう思うのはごく自然なことでした」

ロシアの独立系新開『ネザビシマヤ・ガゼッタ』紙は、ロシア政府内で突如、権力を手にしたこのチームを取材し、「ロシアが初めてフリードリヒ・フォン・ハイエクや、ミルトン・フリードマンの「シカゴ学派」の信奉者を自認する自由主義者を政府に迎え入れる」のはまさに驚くべき展開であると書いた。
記事によれば、彼らの政策は「「ショック療法」の処方箋に従って「徹底した金融安定化」を図るという、きわめて明確なもの」であった。また、エリツィンが彼らを任命したのと同時に、悪名高い猛者ユーリ・スココフを「陸軍、内務省、国家保安委員会など防衛と弾圧に関連する部門の責任者」に任命したことを取り上げ、これらの決定には明らかに関連性が見られるとしている。「おそらく「有能な」スココフが政治面での徹底した安定化を「確保」し、「有能な」経済学者たちが経済面での安定化を保証する」のであろう、と。
そして、記事の最後。
「彼らが自家製ピノチェト・システムといったものを作り上げ、ガイダルのチームが「シカゴ・ボーイズ」の役目を果たしたとしても、まったく驚くにはあたらない」

アメリカの支援、ジェフリー・サックスの再度の登場
アメリカ政府はエリツィンのシカゴ・ボーイズを思想面と技術面の両方で支援するべく、民営化の法令の起草からニューヨーク式の証券取引所の立ち上げ、さらにはロシアの投資信託市場の設計に至るまで、移行に関連する国内のさまざまな分野の専門家に資金を提供した。
1992年秋、米国際開発庁(USAID)と210万ドルの契約を結んだハーバード大学国際開発研究所は、ガイダルのチームを支援するため、若い法律家と経済学者から成るチームを派遣した。
1995年5月、ハーバード大学はサックスを同研究所の所長に任命。これによってサックスはロシアの改革期に、最初は自由契約でエリツィンの顧問に、次には米政府の資金によりロシアで活動するハーバード大学チームの監視役に、という二つの任務を負うこととなった。
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