2014年11月18日火曜日

堀田善衛『ゴヤ』(50)「もう一人の公爵夫人」(1) 「この後期のカルトンは、たとえば『葡萄摘み』(別名『秋』)あるいは『花と娘』(別名『春』)などに見られるようなロココ調も極まったようなものから、『吹雪』(別名『冬』)、『傷ついた石工』、『泉に集まる貧者たち』などの、きわめてリアリスティックで、いったいこんなものが新婚の王子の寝室にどうしてふさうのであろうかと疑われるような、それはきわめて異様な混淆である。」

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もう一人の公爵夫人
1786年からゴヤの後期タピスリー用カルトン画の仕事がはじまる
「ゴヤが一七八六年、王立タピスリー工場のための下絵を描くとともに、「宮廷内で必要に応じて油絵とフレスコ画を描く」ことになり、それらの仕事によって年、一万五〇〇〇レアールの定収を得ることが出来、「おれは宮廷画家だ」と大威張りに吹聴してあるいた・・・。
この頃から、彼の、後期タピスリー用カルトン画の仕事がはじまるのである。前期のそれは、一八七四年から七九年までの間の三五枚で、これは七八年にアメリカ独立承認をめぐる仏英戦争に際して、フランスに対するお義理でスペインもが英国と戦争をはじめ、タピスリーなどの不急不用物品のために払う金がなくなったので七九年に王命で中止されてしまったからであった。八三年になると、この元来が正体不明の戦争もウヤムヤになり、ヴェルサイユ条約とパリ条約が成立して戦費は不用ということになり、そこへカルロス三世の四男のガプリエール・アントン親王がポルトガル王の長女と結婚するという慶事が重なり、そこでふたたびタピスリーの仕事が再開されることになったものであった。」

1786~87年に10枚のカルトンを描く
「ゴヤは、エル・エスコリアール離宮での、この親王夫妻の寝室の壁を飾るタピスリーの下絵を依頼されたのであった。彼は一七八六年と八七年の二年間に一〇枚のカルトンを描いている。またさらにもう八枚を描いて、九一年には多忙を理由としてカルトン作りはここで打ち止めになる。」

この後期のカルトンはきわめて異様な混淆である
「この後期のカルトンは、たとえば『葡萄摘み』(別名『秋』)あるいは『花と娘』(別名『春』)などに見られるようなロココ調も極まったようなものから、『吹雪』(別名『冬』)、『傷ついた石工』、『泉に集まる貧者たち』などの、きわめてリアリスティックで、いったいこんなものが新婚の王子の寝室にどうしてふさうのであろうかと疑われるような、それはきわめて異様な混淆である。」

『傷ついた石工』の油彩下絵の図柄は『酔っ払った石工』であった
「一見のところで、まったくふさわしからぬと見えるこれらのカルトンの謎を解く鍵は、実は、いま触れた『傷ついた石工』の油彩による下絵にあった。
この油彩下絵の図柄は、実は「傷ついた」ではなくて、その正反対の、『酔っ払った石工』というものであった。」

『傷ついた石工』も、その「貧民」である家族を描くことも、ともにカルロス三世の善政と仁慈に対する頒辞の一つであった
「・・・カルロス三世の一つの布告・・・
「王は、建築の現場に多くの事故が起り、かかる事故による犠牲者の家族が大いなる辛酸を見ることに鑑み、またかかる事故が、現場監督者が、不安定な足場を組んで仕事をさせることに理由ありと認めるものである。されば爾今、仕事の公私を問わず、監督者は事故に対して責任をもち、傷ついた職人が労働不能の期間、また事故が致命的なものであった場合には、その家族に対して補償をなすべきものとす。あらゆる事故に際しては、適正なる調査を行い、補償を行わしめるものとする。」
・・・そうしてゴヤもまた、王の、こういう適切な布告に大いに感激したものであったろう、・・・。そうして、『泉に集まる貧者たち』の、母子三人像は、この場合、『傷ついた石工』の、あわれな家族ということになる。それは相互に補足的なものなのであって、『傷ついた石工』も、その「貧民」である家族を描くことも、ともにカルロス三世の善政と仁慈に対する頒辞の一つであった。……」

『泉に集まる貧者たち』の泉は冬の表象であった
「またついでに言っておけば、建築の図像は、西欧古来の図像学的カレンダーでは、一一月(冬)を表象するものであり、『泉に集まる貧者たち』の泉は、冬の表象であった。・・・」

「ゴヤは、忠実にこれらの図像学的表象を順守して描いていたものであった。」

「しかしこの『吹雪』の図は、いかに冬を表象していて、・・・これはいかにも寒々として、蕭条、人生行路の難をあまりにも露骨に表現している。
やはり新婚の親王夫妻の寝室にはふさわしくないであろう。
・・・この吹雪図がタピスリーに織り上げられたという証拠がない。つまりエル・エスコリアール離宮のタピスリー目録には掲載されていない。・・・」
ゴヤ『吹雪』1786-87

ゴヤ『花と娘』1786-87
ゴヤ『花と娘』(『春』)1786-87
「・・・『花と娘』の、春のカルトン・・・
これは背景の左に急峻な岩山の崖が描かれてあって、その崖のけわしい対角線が中央の女性のなだらかな肩と腕の線にうけつがれ、地に膝をついている少女の捧げたバラの花を結びとして、この少女の腰にまでみちびかれるという、まことに巧みな運びをもっている。従って右背景に配されている樹木のもつ春らしいあたたかさを一層きわ立たせることにもなる。
・・・、右前面の地に膝をついた少女が、ベラスケスの『宮廷官女図』中の、王女マルガリータにかしずいている官女にそっくり・・・。ゴヤは勉強をつづけているのである。
そうして中央の、幼女の手をひいている女性の背後に、一人のチョビヒゲの百姓男が立っていて、これが口に指を一本あてがっていて、観る者に、沈黙を、と指示している。かくて別の右手にはウサギを足でつかまえて高く顔の横にまでさし上げている。
・・・
・・・さし上げられたウサギは、図像学では、多産、豊饒の表象であった。
このカルトンは、タピスリーに織り上げられて新婚夫妻の寝室の壁を飾るものであった。黙ってはげめ、とでもいう訳であったろうか。
けれどもこの夫婦は不幸なことに短命であった。一七八五年に結婚をして、三年後の一七八八年に、ばたばたと二人とも死んでしまった。」

「・・・私はこのカルトンを長いあいだ眺めていて、いつしか画面中央のこの男女、ウサギをもった百姓男と、優雅な婦人とを、ゴヤの父親と母親ではないか、というよりも彼の父母であるとして眺める習慣がついている。・・・、このカルトン画のもつあたたかさと、その理想化の傾きは、私に彼の父母という連想をもたらし、かつこういう理想化傾向のなかに、ゴヤが彼のありし日の父母像を描き出したとしても不思議ではないと思うものである。」

「構図の取り方は、アカデミイの前のボスであり、またサンタ・パルバラ王立タビスリー工場の支配者でもあったアントン・ラファエル・メングスの教えにそっくり沿ったものでもあった。」
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