カンザクラ 2015-02-10 江戸城(皇居)東御苑
*永長2年/承徳元年(1097)
この年
・スコットランド、ダンカン2世異母弟エドマンドの弟エドガー(23?)、ドナルド3世(61)を逮捕して王位につく。対イングランド従順路線。「平和愛好者」と呼ばれる。
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・ミラノ、コンスル制成立。
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・カープア候リカルドゥス2世、カープア奪還の為シチリア大伯ロゲリウス1世に援助を求め、代償としてナポリへ宗主権譲渡を申し出。
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・エステ家家系創始者アルベルト・アッツォ2世、没。
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・皇帝ハインリヒ4世、第2回イタリア遠征(1090~1097)よりドイツに帰国。
1093~1096、殆ど行方知れず。この間、ドイツでは有力諸侯が「領域支配」の基礎を築き、「支配領域」内の平和の貫徹を保障。シュヴァーベン(シュタウフェン家、ツェーリンゲン家)。シュヴァーベン東部~バイエルン(ヴェルフェン家)。ザクセン(ビッルング家、アスカニアー家)。
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・シュヴァーベン大公問題解決。
ハインリヒ4世、次の処置で南ドイツの平穏を取り戻す。
①ベルトルト2世・フォン・ツェーリンゲンのシュヴァーベンの財産について大公権を承認。ベルトルトをトゥルガウとチューリヒの帝国守護官に任命。
②バイエルン大公ヴェルフ4世(ハインリヒ4世旧敵)に個人財産及び世襲財産としてバイエルン大公領を封じる。
③シュヴァーベンとエルザス(アルザス)の残りの全ての領土はホーエンシュタウフェン家フリードリヒの大公領のままにとどめ置く。
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・カタルーニャ人、1095年に引き続きバレンシアのエル・シッドに守られてトルトーサを再度攻撃。
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・クエンカの戦い(トレードとバレンシアの中間、フーカル川上流)。ムラービト朝軍、カスティーリャ軍アルバル・ファーニェスに勝利。
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・ポルトガルの始まり。
カスティーリャ王アルフォンソ6世、娘テレーサ夫シャロン伯アンリをポルトガル世襲伯に任命。娘テレーサと夫シャロン伯アンリにミーニョ川以南の地域を授ける。
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・ハンガリー王国、ラースロー1世子・ハンガリー王カールマーン、ダルマティア征服、アドリア海への出口獲得。
後、ベーラ2世がハンガリー王に即位し、ボスニアを征服。
結果、ビザンティン帝国との対立が強まり、ボスニアやダルマティアから後退することになる。
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1月
・バイレンの戦い。
エル・シッド、アラゴン王ペドロ1世と共同して、バイレン(バレンシア南)でムラービト朝に勝利。ムルビエドロ(バレンシア北)を攻略。
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・アナトリア北東部を占領しているアニシメンド、アンカラ南東のアルメニア人の町マラティアを包囲。
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1月1日
・地震。12日にも地震。
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1月5日
・陣定で若狭前司の文書功過を定める(「中右記」)。
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1月21日
・京都に火災。因幡堂が焼失。
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1月30日
・従五位上藤原敦兼を若狭守に、豊原維俊を若狭掾に、中原良兼を越前大掾に任じる(「中右記」)。
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閏1月1日
・地震あり。
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2月25日
・朝廷、源義家に合戦の間の未進の貢金を尋ね、督促。
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3月
・イタリア、ブリンディシで乗船した十字軍の1隻が沈没、男女あわせて400~600人溺死、原因は定員オーバー(?)。
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3月24日
・越前守藤原家保に左衛門佐を兼任させる。
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4月
・右中弁藤原宗忠は、再三の堀河天皇の勅命拒みがたく内蔵頭を兼任。
『中右記』は宗忠の言葉を次のように伝える。
「往古より以来、蔵寮頭となる者、或いは蔵人頭、或いは弁官、近衛将、任じ来れり。然りと雖も近代は御服美麗にして、寮納不足、仍(よ)りて顕綱朝臣を任ぜらるる後、次の八人皆以つて受領なり。然らば下官のごときは誠に堪へざる上、又事闕(か)くか。」
内蔵頭にはかつては蔵人頭や弁官などがなっていたが、近年では藤原顕綱以来8人皆受領が任ぜられている。受領の財力で内蔵寮の財源不足を補ってきたのだという。
こののち、宗忠のように天皇の格別の信任による例外を除いて、白河・鳥羽院政期を通じて受領が内蔵頭を兼任するのが慣例となる。
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・ビザンツのアレクシオス・コムネノス王の使者、エジプト宰相アル・アフダル・シャーヒンシャー(35、元奴隷)のもとに到着。十字軍到来を告げる。
エジプトのファーティマ朝(シーア派)はバグダードのアッバース朝(スンナ派)と対立。
11世紀半ば以降、セルジュークの進出でビザンツ帝国・ファーティマ朝共に領土を侵食され、共同の敵(セルジューク)を持つことになる。
エジプト宰相アル・アフダルは、フランクの来襲を、ビザンツと同盟してセルジュークに報復する好機と考える。
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・トルコのスルタン、クルジュ・アルスラン軍、アニシメンドが包囲するマラティア城壁下に到着。
この時、新たなフランクの大軍がボスポラス渡海した報が届き、ニケーア守備強化部隊を置く。
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4月2日
・十字軍兵士、東ローマ皇帝との交渉団の帰還が遅いので人質に取られたと騒擾。皇帝アレクシオス1世、ニケフォルス・ブリュエンニウスに命じてコンスタンティノープルのサン・ロマン門を開門、兵士を出動させる。
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4月3日
・東ローマ皇帝アレクシオス1世と十字軍ゴドフロワ・ド・ブイヨンが合意。
十字軍は皇帝アレクシオス1世の要求を受諾(十字軍が取り戻す全ての町と領土は皇帝に返還。皇帝は十字軍に食料補給、隊長に多くの贈り物をする)。
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4月8日
・若狭守藤原敦兼に還昇殿を許す。10日、若狭守藤原敦兼、昇殿の後参内(「中右記」)。
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4月9日
・地震。14日にも地震。
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4月10日
・十字軍第3陣(ターラント候ボエモン(ロベール・ギスカール息子)と甥タンクレード)、コンスタンティノープル到着。南イタリアにおけるシチリア伯ロゲリウス(ロジェール)1世に次ぐ実力者、多くの不満分子を引き連れる。
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4月11日
・斎院令子内親王の御禊。若狭守藤原敦兼ら4人、前駈を務める(「中右記」)。
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4月末
・十字軍第5陣(トゥールーズ伯レーモン、教皇ウルバヌス2世特使アデマール)、コンスタンティノープル到着。
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5月
・第1回十字軍、トルコの首都ニケーア城攻め、攻撃。
スルタン、クルジュ・アルスラン、マラティアの戦闘を中止してニケーアに戻る。
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5月14日
・十字軍第4陣(フランドル伯ロベール1世・2世父子、ノルマンディー公ロベール・クールドゥーズ、ブロワ伯エチエンヌ(スティーヴン))、コンスタンティノープル到着。
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5月21日
・マラティアより戻ったクルジュ・アルスラン、ニケーア包囲のフランク軍に突入。双方共に被害甚大だが、陣を守る。
クルジュ・アルスランはニケーアを放棄し、首都は東のコンヤとすることを決める。
但し、ニケーアはフランクに渡すのではなく、ビザンツ帝国アレクシオス・コムネノスに渡すべき、と伝える。
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5月23日
・関白藤原師通の九条第新造につき立石を諸人より徴発。未進の中に越前権守藤原季仲(「九条殿記」)。
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5月末
・第1回十字軍、小アジアへ渡る。
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6月18日
・トルコのニケーア守備軍、東ローマ(ビザンツ)皇帝に降伏。ビザンツ軍、ニケーア入城。
ニケーア陥落後、エーゲ海岸全域・全ての島・小アジアの西部全域がトルコよりビザンツに移る。
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7月1日
・第1回十字軍ドリラエウムの戦い。小アジア、アナトリアの町。
スルタン・クルジュ・アルスランとダニシメンドの連合軍(小アジアのトルコ同盟軍)、ドリラエウム(ニケーア近く)で待ち伏せ。ボエモン・ド・タラントを包囲。
ゴドフロワ・ド・ブイヨン、レイモン・ド・サン=ジル救援、勝利。トルコの弓はフランクの甲冑の厚みに通用せず。1071年マンツィケルトの戦い以降、キリスト教徒はトルコに連戦連敗。
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7月6日
・地震あり。
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6月末
・シリア目指すフランク軍、シリア北端アルバラナ村に近づく。
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8月6日
・地震あり。
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8月15日
・コンスエグラの戦い(トレード南東)。ムラービト朝軍、カスティーリャ王アルフォンソ6世に勝利。
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9月1日
・彗星西に見ゆ。
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10月
・ボードワン(ゴドフロワ・ド・ブイヨン弟)妻ゴドヴェア・オブ・トスニー、マラシュ(アンティオキア北方)で没。
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10月11日
・上皇、新造の高陽院に移る。
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10月20日
・第1回十字軍、アンティオキアに到着。
21日、包囲開始(人口4万、兵力6~7千)。攻略は翌年1098年6月3日(7ヶ月半)。包囲中、飢餓のため何人かの領主(ムラン副伯、ギョーム・ル・シャンパンティエ、民衆十字軍指導者隠者ピエール)が逃げだそうとする。アンティオキア領主ヤギ・シャーンは町のキリスト教徒を追放。ダマスクスの王ドゥカークに救援を求める。
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10月27日
・朝廷、源義家の功過定を行う。
清原氏の内紛に介入した義家は「国の政事をとどめてひとへにつはものをととの」(『奥州後三年記』)えたとあり、国の徴税を怠り、兵を集めることに奔走した。
この年の『中右記』に、「前陸奥守義家、合戦の間、金を貢がず」と記されている。10年も前の陸奥守時代の金の貢納が滞っていたようだ。
後三年の役の後、義家が長く「前陸奥守」として冷遇されていたのは、この陸奥守時代の朝廷への貢納末進(滞納)が理由である。
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11月
・カンタベリ大司教アンセルム、国王の意に反してローマ訪問。教皇ウルバヌス2世にイギリス教会の不幸な状態を報告、大陸に亡命(1097~1100)。
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11月21日
・「承徳」に改元。
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12月31日
・ダマスクスの王ドゥカーク、アンティオキア救援のため北上。フランクの徴発部隊と遭遇戦。勝敗は決せず。ダマスカス軍に死者多く、王は撤退命令。
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