いわし雲 上野公園 2015-10-03
*明治38年(1905)7月
・清国、憲政視察団、欧米・日本派遣。
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・横浜正金銀行、鉄嶺に出張所設置。
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・台湾銀行福州出張所設置。
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・日比谷野外音楽堂完成。
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・『婦人画報』、『日本少年』創刊
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・国木田独歩「独歩集」(「近事画報社」)、三木露風「夏姫」(「血汐会」)、松岡荒村「荒村遺稿」(「平民社」)、・綱島梁川「梁川文集」(「日高有倫堂」)刊行
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・漱石『猫』第五回(『ホトトギス』)
「吾輩」は、「先達中(せんだつてじゆう)から日本は露西亜と大戦争をして居るさうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思ふ位である」と語る。
「吾輩」が鼠をとろうと悪戦苦闘する日本海海戦のパロディ.。
「吾輩」は鼠をとろうと「作戦計画」を立てますが、「何だか東郷大将の様な心持がする」といい、「わが決心と云ひ、わが意気と云ひ台所の光景と云ひ、四辺の寂寞と云ひ、全体の感じが悉く悲壮である。どうしても猫中の東郷大将としか思はれない」と胸をはる。
そして、鼠には「三つの行路」がある。
戸棚から出るときには吾輩之に応ずる策がある、風呂場から現はれる時は之に対する計(はかりごと)がある、又流しから這ひ上るときは之を迎ふる成算もあるが、其うちどれか一つに極めねばならぬとなると大に当惑する。
東郷大将はパルチック艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡へ出るか、或は遠く宗谷海峡を廻るかに就て大に心配されたさうだが、今吾輩が吾輩自身の境遇から想像して見て、御困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況に於て東郷閣下に似て居るのみならず、此格段なる地位に於ても亦東郷閣下とよく苦心を同じうする者である。
「吾輩」と東郷大将は「苦心を同じうする者である」と主張することで「吾輩」を滑稽化すると同時に、東郷大将も相対化させる。海戦勝利に対する国民の愛国的熱狂や東郷大将に対する英雄崇拝を冷却させる。
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・小田島孤舟・堀内紫玉、啄木宅を初めて訪れ交流が始まる。
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・産業界に企業合同の動き。講和後、国内での競争を排除し、外国資本の進出に対抗するため。
農商務大臣大浦兼武が勧奨。
紡績会社:尾張・三重・名古屋・桑名・津島・知多・一の宮の9社。三重・尾張・名古屋の3会社は既に合同を決議。
ビール会社:日本・札幌・朝日の3会社。
石油トラスト:新潟県の石油業者がトラスト組織を協議。
石炭トラスト:北海道石狩炭鉱は合同を協議。
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・田中敬信、東京小石川にセルロイド工場設立。1907.7 三井家に買収される。
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・王子製紙遠江江工場ストライキ。
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・栃木県、谷中村に対して潴水地用測量のため土木吏の村内立入を通告。また、村長のなり手が居ない為、下都賀郡役所書記を村長として送り込み、村民の一部を買収。
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・福島県で羽二重検査施行。
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・ベトナム、維新会による日本留学運動(東遊運動)開始(~1907)。
ベトナムのファン・ボイ・チャウ、日本から帰国。
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・ドイツ領東アフリカ(現タンザニア本土部)で、住民が綿花の強制栽培と重税に抗議して蜂起(マジ・マジ反乱〔「マジ」は水の意〕~1907.8)。南部地方へ波及。
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・トーマス・マン、唯一の戯曲「フィオレンツァ」(『ディ・ノイエ・ルントシャウ』誌7、8月号)。フィレンツェの修道士サヴォナローラの内面生活。
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7月1日
・徐世昌、清国の政務処大臣となる。
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7月1日
・第一銀行京城(ソウル)支店、韓国の中央銀行として営業開始。
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7月1日
・『みずゑ』創刊。
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7月1日
・郵便貯金法施行。
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7月1日
・アメリカ、モンロー宣言廃棄の米国務長官ジョン・ヘイ(66)、没。
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7月2日
・野口男三郎を、妻の兄一太郎殺害の容疑者としても取り調べ始める(麹町六丁目猟奇事件)。
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7月2日
・石川達三、誕生。
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7月3日
・清国、イギリスの福中公司から道清鉄道を回収。
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7月3日
・講和全権委員に小村寿太郎外相、高平小五郎駐米公使を任命。桂太郎、外務大臣臨時兼任。
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7月3日
・『婦人画報』創刊。
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7月4日
・樺太攻略第1陣(南部攻略部隊)第13師団第25旅団(竹内正策少将、第49・50連隊)基幹の主力1万401人、青森大湊港出撃。総兵力は1万7,561を準備。
ロシア軍は北部に5,917、南部に1,363(うち、追放農民・囚人からなる義勇兵団2,400の半数は逃散)。
7日午後3時、第13師団第25旅団、南樺太コルサコフ東方メレイに上陸、午後10時15分、コルサコフ占領。ロシア軍は焦土後退作戦。
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7月4日
・小村寿太郎、講和全権委任状下賜。また、駐米公使高平小五郎も全権委員に任命。
ほかに全権委員随員選任。駐メキシコ弁理公使佐藤愛麿・外務省政務局長山座円次郎・外務省参事官安達峰一郎・外相秘書官本多熊太郎・外務官補小西孝太郎・駐米公使館付武官立花小一郎大佐・同海軍武官竹下勇中佐・外務省顧問デニソン。
6日、主席特命全権大使小村寿太郎、参内。後、首相から改めて正式に日本側条件を訓令。
8日、小村寿太郎ら、新橋駅発。午後4時、「ミネソタ」号出港。
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7月4日
・新聞「日本」(陸羯南)、「租税を負担する国民は、之が支出を議するの権あり、立憲政治の原理玆に存す、兵役を負担する国民、豈戦争を議するの権なしと謂はんや。」 民衆の発言権を主張。*
7月8日
・緊急勅令第194号公布。臨時軍事費支弁のためロンドン・ニューヨークで募集する公債の件公布。4分半利付・第2回、英貨公債3千万ポンド募集。
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7月8日
・アメリカ人メイ・サットン、ウィンブルドン・テニス大会で優勝。初のイギリス人以外の優勝者。
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7月9日
・第13師団第25旅団、コルサコフを進発し北進。
10日、第49連隊がウラジミロフカ(豊原)に進出。
11日、第49連隊第1大隊を先発、第50連隊(向井斉輔中佐)を主力としてダーリネーに向う。
12日午前8時40分、第50連隊第1大隊(西久保豊一郎少佐)が突進。損害出しながら敵陣突入、
9時10分、ロシヤの南部樺太守備隊は逃走。損害:戦死14(西久保少佐ら)・負傷63。
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7月9日
・「講和問題同志連合会」結成。対露同志会、対外硬の代議士、弁護士団体、黒龍会など9団体。
委員:大竹貫一(45)、河野広中(55)、小川平吉(35)、黒龍会内田良平・高田三六・高橋秀雄・佃信夫など19人。
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7月9日
・『直言』第23号発行。
堺利彦「平民社より」で、堺は「枯川」という雅号を廃すると宣言。深い意味はないといいつつ、少年、軍人、大臣、金持ちなど、誰もがキザで俗悪な号を使うのを見て不快や不安を感じている、と述べている。
この雅号廃止宣言はさまざまな反響を呼んだ。
安部磯雄はすぐに「吾等は匿名の下に人を攻撃する様な卑劣な考はないから、天下何処にいっても、親の附けて呉れた名が一つあれば、充分だ」と葉書で賛辞を寄せた。もともと安部磯雄、木下尚江、片山潜などは号を持っていなかった。
一方、石川三四郎は「旭山、不尽」、西川光二郎は「白熊」という号を用いることもあり、幸徳秋水の「秋水」はもちろん雅号だ。
結局、幸徳秋水、山口孤剣、荒畑寒村などは堺に追随せず、自柳秀湖も堺から「自柳君は号を廃さぬ方がよい」といわれたこともあり、雅号を使い続けている。
のちに秀湖は、当時の堺はかなりせっばつまった気持ちになっていて、世間の文学者並みに「枯川」という雅号で文章を書いたり、同志に呼びかけることができなくなったようだ、と推測している(『歴史と人間』)。
さらに、秀湖によれば、堺の雅号廃止は平民社をめぐる人々はもちろん、文壇人にも注意を呼び起こした。
徳富蘆花も雅号を廃して「健次郎」と本名で署名するようになったが、これは堺の影響だと本人が断っているのを、秀湖は何かの雑誌で読んだという。
中野好夫の評伝『蘆花徳富健次郎 第二部』によれば、1906年1月13日付の蘆花から石川三四郎宛の書簡に追伸があり、「小生は、堺利彦兄に倣ふて『蘆花生』の号を廃したり。今後は徳冨健次郎を以てすべての場合に御呼び被下度候」と書かれている。この私信の文面は、『新紀元』紙上に転載されている。
しかし、「徳冨蘆花」という名前は、当時「全国少女の憧憶の目標」だった。そのため、本人の希望に反して「蘆花」の号は使われ続け、中野好夫も「お気の毒だが致し方ない」と書いている。
中野好夫は堺の雅号廃止を、キザで俗悪な号への嫌悪から廃することにしたのだろう、「ただそれだけの話」としている。しかし、秀湖は、雅号廃止の決断をした背後には、堺の突きつめた心持ちがあったと記している。
堺が雅号で「同志に呼びかけることができなくなった」理由とは、平民社の解散につながる問題でもあった。それまでの同志相互の信頼関係に亀裂が生じた結果、「日本社会主義の拠点」はこの時点で空中分解してしまう。
問題の一つは、幸徳秋水の健康状態にあった。元来、秋水は身体が丈夫ではなかったが、獄中で病気になり、その後も体調を崩していた。
『直言』第24号の「平民社より」によれば、堺は延岡為子と巣鴨監獄の秋水に面会に行き、出獄後はしばらく養生するように勧めたところ、秋水も1、2ヵ月養生してアメリカにでも遊んでみようか、と話したという。
だが、非戦論を掲げて闘っている平民社にあって、秋水のアメリカ行きは敵前逃亡のようなものなので、堺は、平民社と周囲の人々には、その計画をしばらく隠していた。
さらに、もう一つの問題。
『直言』第29号の「平民社より」で、堺は、秋水・西川の不在中、不行き届きが多かったと謝罪し、自分の力量不足と信任の欠乏を認めた上で、しばらく平民社の経営責任者を去るのが当然だと述べた。
さらに次のように書く。
「それに、小生は別に一身上の事情もありまして、家庭雑誌を発行して居る由分社の経営を助ける事になりましたので、数日前より麹町区元園町一丁目廿七番地に移り住み、こゝに由分社を置き、家庭雑誌の外に少しつゝ出版を試むる事になりました。小生は今後之を以て一身の衣食を支へる積りであります。而して延岡為子氏も亦た此の事業を助ける事になりました。」
「一身上の事情」とは為子との結婚だった。
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