2016年9月12日月曜日

堀田善衛『ゴヤ』(107)「マドリード・ホセ一世」(4終) ; 『ホセ・マヌエル・ロメ一ロ像』 人物のいやらしさの十全な表現という意味では、これもゴヤの肖像画群中の傑作の部類に属するであろう。描いているゴヤの側にも、いささか畏怖感があるかに感じられる。これもまた絢爛たる悪意である。

ゴヤ『ホセ・マヌエル・ロメ一ロ像』1808-12

 そうして次に、ホセ一世治下のスペイン人にもっとも嫌忌され憎悪されていたスペイン人の肖像があらわれる。
 口を一文字に歪めて・・・陰鬱そのものの、人を見たら陰謀の匂いを嗅げとでもいうような眼をした、金ピカ大礼版に勲章つきの人物。
 この大人物は、ホセ一世の内務大臣兼警察長官ホセ・マヌエル・ロメーロ氏である。・・・この長官が、今日もスペイン人民が二六時中盤視されている警察機構、Guardia Civil の創設者であった。おそらくはフランスのフーシェ警察長官のつくった制度にならったものであろう。フーシェがつくった警察制度がその後の如何なる政治変動にも耐えて今日まで生き残っているように、スペインのそれも多くの政治変動を乗り切っていまに健在である。
 人物のいやらしさの十全な表現という意味では、これもゴヤの肖像画群中の傑作の部類に属するであろう。描いているゴヤの側にも、いささか畏怖感があるかに感じられる。
 これもまた絢爛たる悪意である。

 この時期一八〇八年から一八一三、一四年頃までの、公式画家としてのもっとも注目すべき作品は、なんと言ってもウェリントン卿像でなければならないが、それは後述することにして、ここではゴヤの伝記を書く人々が、いずれももっとも閉口頓首をしなければならぬことになる一事件について書いておきたい。

 (ナポレオン布告の)修道院三分の二廃止の項に、一つのツケタリ条項がついていた。それは、廃止された修道院と、フランスの敵になった人物の財産没収をするについて、そこに含まれているスペイン絵画中から、「五〇点の傑作をナポレオン美術館(今日のルーヴルである)のために留保する」というものであった。

 ホセ一世は、修道院廃止をするについて、・・・あちらこちらから出て来た何千という絵のなかから傑作を選んでマドリードとセピーリァに美術館を創設しようとした。
マドリードでは廃止されることに決定した一八の修道院から一五〇〇枚の絵が出て来た。トレドではグレコの多数の作品が、修道院の屋根裏や物置きに埃にまみれて放りっぱなしになっていた。・・・

 これら多数の作品の大部分はひどいことになっていた。・・・とにもかくにもこれらの作品が残ったのは、ひとえにスペインの乾燥した気候のせいである。
 まるでガラグタ同然に集められ積み上げられたのであるから、しかも英仏戦争プラスのゲリラ戦が断続的に各地で継続していたのであったから、盗まれ放題であった。フランス兵や将校がみな盗んで行ったのだということに、スペインではなっているが、そんなことはない。三者三様によりどりみどりで盗んだのである。お土産である。現在、世界の各地に散らばっているスペイン絵画の相当部分は、この時の盗品である。

 英仏両国人には、ムリーリォがもっとも人気があった。あの風俗画、あるいは風俗画めいた宗教画がブルジョアジーの趣味にあったのである。しかし、スペイン絵画の特色の一つは、絵具の層の薄いことにあることを知らない人々は、手ひどい状態になっている盗品を、ロンドンやパリの修復屋に出し、修復屋が一回軽く洗っただけで絵自体がまるで消えてしまうという悲喜劇を演じたりもした。

 また、当時のみならず、戦時占領地区から美術品をもって来ることは、戦争に付随した習慣でもあった。イタリアでナポレオンのために作品を選択したのは、画家のアントアーヌ・ジャン・グロであった。先の戦争ではナチスのゲーリング・コレクションがあった。

 一八一〇年の一〇月に、三人の画家による委員会がホセ一世によって任命された。
マエーリァ、ナポリ、それにゴヤである。

 ゴヤはおそらくマエーリァといっしょに仕事をすることに、複雑な思いを抱いたことであろう。この男が王妃マリア・ルイーサの手先になって故アルバ公爵夫人所蔵のリベラとテニエの作品を盗み出しよったのだ・・・と。

 誰が一体、三人委員会を設けて五〇点を選べと命令をしたか?

 直接の命令を下したのは、時の総理大臣でゴヤの友人でもあるウルキーホ氏である。このウルキーホは、カルロス四世治下でも短期間総理大臣をつとめ、その任期中にゴヤを首席宮廷画家に任命し、一八〇〇年にはスペイン絵画の傑作及びスペインにある外国人画家の傑作をも一堂に会させての、大美術館構想を発表したことがあった。実現はしなかったが、そのときにもゴヤはアカデミイの絵画部長として計画に参加していたであろう。
ウルキーホにとっては二度目の機会であった。

 一八〇九年の二一月二〇日に、ウルキーホは次のような布告を発している。

一、種々の流派から選ばれたる代表作を含む美術館をマドリードに設立するものとする。この目的のために、布令によって絵画収集を完全なものとするに必要とされる作品は、宮廷をも含むすべての公機関から呈出せしむるものとする。 

二、スペイン美術の著名なる作家の作品の包括的なコレクシオンを構成し、これを我等の尊厳なる兄弟、フランス人の皇帝に呈上するものとする。我等は皇帝に対し、ナポレオン美術館の一室にこれを展示されんことを要望し、スペイン芸術家の栄光のための記念碑たらしめ、かつは両国の誠実な絆のあかしたらしめんとするものなり。

 総理大臣ウルキーホとしては、誇りをもってかくは布告をしているのである。
かつてゴヤを首席宮廷画家に任命してくれた友人であり、ゴドイに追われて長く投獄されていて総理大臣として返り咲いて来た友人が、誇りをもってかねて念願の美術館建設を布告し、さらにフランスにおいての、「スペイン芸術家の栄光のための記念碑」をうち建てようとしているのである。当時フランスでのスペイン美術の知られなさ加減はまことにひどいもので、ベラスケスやグレコなども、銅版や石版画でやっと好事家たちに知られている程度であった。・・・

 ・・・美術館を建設しようという計画は、すでに一六世紀の半ばにたてられていた。二五〇年もがたってしまっている。
 行動的で、文化や教育改革に熱心なこのフランス人王の下でならば、蜒々二五〇年来の懸案が最終的に実現するかもしれないと画家たちが期待したとしても、ここでも不思議はないであろう。
この美術館計画と、パリで五〇点のスペイン絵画の堂々たるデモンストレーシオンをしようということとは、切り離すことの出来ない、一つの計画であったのである。

 このときに選ばれた五〇枚のなかには、ベラスケス三枚、ムリーリォ二枚、リベラ四枚、スルバラン五枚などが含まれていたが、大旨は凡作ばかりであった。というのは、美術館などの美術保護施設のないスペインでは、作品の保存はまったく滅茶滅茶で、どれもこれもが偶然の運命と、先にも言ったように乾燥した気候に委ねられていたから、傑作というよりは、画面の保存状況のよいものを選ばねばならなかったのである。・・・

 この五〇点の絵は、しかし、最終的にはスペインを去ることはなかった。
 それより先に、ナポレオンの方がフランスを去らなければならなかった。
 そうして美術館計画は、ホセ一世の手によっても完成せず、皮肉なことに、彼のあとにスペインへ戻って来る暴君フェルナンド七世の、唯一の善政として、一八一八年にやっとのことで現在のプラド美術館の位置に設定することが決定されたのであった。

 ホベリァーノスはカディスにいる。
 しかもなお、かつて彼が親しく肖像画を描いた友人や知己の多く - 総理大臣ウルキーホからはじめて、財政家カバルース、通航大臣のマサレード、枢密院議員のカバリェーロ、ソーリアとリオーハ地方長官のガルシーニ、前異端審問所官房長のリォレンテ、サン・アドリアン侯爵、親愛な劇作家モラティンは国立図書館と古文書館の設置にカをかたむけている。メレンデス・パルデースもがんばっている - これらの人々はすべてホセ一世のもとにあって、遅れに遅れたこの国を建て直そうとしている。
 おそらくはゴヤの心境もまた、前に記したリオレンテ師の、笑うにあらず嘆くにあらず、君、看ズヤ双眼ノ色とでも言うべき、微妙かつ複雑に屈折したものであったろう。

 さもあらはあれ、このホセ一世の政治をむごいまでに象徴するものは、次の一挿話であろう。
 ある日、彼の政府に仕えている高官が、小さな息子を拝謁につれて来た。その子が士官の服を着て剣をもっていたので、王が、
「どうして剣をもっているの?」
と訊ねると、少年が言った。
「フランス人を殺すために!」
困り果てた父が弁解をした。
「お許し下さい、陛下。家で召使いどもがみなそう言ってますのを、この子が聞いていますので」
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