2016年9月5日月曜日

【増補改定版】 大正12年(1923)9月8日~9日 労働運動社の一斉検束 習志野収容所で殺された朝鮮人 江口渙の見た虐殺(『車中の出来事』) 池袋にて(東京物理学校学生、李性求の経験)

大正12年(1923)
9月8日
・労働運動社、一斉検束。
村木源次郎は検束を免れるが、和田久太郎・近藤憲二は検束。留置先での拷問。
「平岩巌は四度気絶、石黒、米山は一度気絶、武良二は後手に吊して水を浴びせられた」と、和田久太郎は記録している。
また、大杉殺害が露見した20日から、こうした拷問が止んだことも久太郎は記憶している。
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8日
・震災被害のない日本興業・日本勧業・三菱・明愛貯金の各行、横浜正金・台湾・住友の各行東京市内支店、営業再開。
15日頃迄に大手各行とも再開。
25日、横浜で組合銀行が営業再開。
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8日
75年後に掘り出された遺骨 
習志野収容所で殺された人々

八日太左エ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする 小石川に二斗 本郷に二斗 麻布に二斗 朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ポクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて埋め仕舞ふ 皆労(つか)れたらしく皆其此此処に寝て居る 夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。
1923年9月8日、村人が朝鮮人を斬殺した日のことを記している。
この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問で捕まったのではない。軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに収容所から朝鮮人を連れ出し、高津、大和田、大和田新田、萱田をど、周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていた。

9月4日、戒厳司令部では東京付近の朝鮮人を習志野の捕虜収容所などいくつかの施設に収容し「保護」する方針を決定した。これ以上、自警団による殺害が続けば、国際的な非難も受けるであろうし、日本の朝鮮支配をも動揺させることを恐れた。
何の落ち度もない被害者である朝鮮人の自由を拘束するのは、明らかに不当である。それでも、これによって暴徒化した群衆から守られることだけは確かなはずであった。
3000人以上の朝鮮人を収容した習志野収容所は、10月未に閉鎖された。

ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。
船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄は、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所付近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。

収容される側にいた申鴻湜(18歳・学生)は、収容所内で朝鮮人の自治活動を組織していたが、ともに活動する仲間が拡声器で呼ばれて、そのまま帰って来ないということが繰り返されいた。軍人に聞くと、「昔の知り合いが訪ねてきた」「親戚が来た」などと言うが、何のあいさつもまいのは妙だ。申は疑問を残したまま、収容所を後にした。

戦後、軍が近所の村の人々に朝鮮人を殺害させていた事実が明らかになる。
姜徳相によれば、収容者数と出所者数累計の間に300人近くのずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、このずれのなかに殺害された人々がいる。
姜は、「思想的に問題がある」と目された者が選び出されて殺されたのではまいかと推測する。

殺害を行った村人は、その後、盆や彼岸には現場に線香を上げ、だんごを供えるなどして供養していたようだ。右の日記で殺害現場として出てくる「なぎの原」には、いつの頃か、かそかに卒塔婆が立てられた。

1970年代後半、高津の古老たちが重い口を開く。きっかけは、習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査であった。古老たちは、子どもたちに当時のことを証言し始めた。この日記も、中学生の調査を知った住民が「子どもたちには村の歴史を正しく伝えたい」と学校に持ち込んだもの。

同じ時期、船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループも結成され、その働きかけもあって、1982年9月23日、高津区民一同による大施餓鬼会が行われる。なぎの原には、同地区の観音寺住職の手になる新しい卒塔婆が立った。そこには「一切我今皆懺悔」の文字が入っていた。

98年9月、高津区の総会は、「子や孫の代までこの問題を残してはならない」として、地区で積み立ててきた数百万円を使って現場を発掘することを決断。観音寺住職らの粘り強い説得が受け入れられた結果だった。

掘り進めると、果たして6人の遺骨があらわれた。警察の検視の結果、死後数十年が経っており、当時のものと確認された。その後、遺骨は観音寺に納められ、99年には境内に慰霊碑が建立される。
同年1月12日付の朝日新聞は「心の中では、きちんと供養すべきだとみんな思っていた。時代が流れ、先人たちの行動よりも、軍に逆らえなかった当時の異常さが問題だった、と考え方が変わってきた」という古老の言葉を伝えている。
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8日
江口渙(1887~1975)『車中の出来事』(東京朝日新聞11月)より
江口は当時、栃木県烏山町(現・那須鳥山市)の実家に滞在していて被害を免れたが、その後、二度にわたって東京に入り、その道中、自警団に殺されそうにまったりした。

この日(9月8日)、栃木へ帰る東北本線の車中で彼が遭遇した出来事。
列車は「屋根という尾根は無論の事、連結器の上から機関車の罐(かま)の周囲にまでも、ちょうど、芋虫にたかった蟻のように、べた一面」に避難民を満載していた。車内では、彼らはいかに危険な思いをして逃げ延びたかを興奮して口々に語り合っていた。そこには、朝鮮人や社会主義者の噂も混じっていた。
列車が荒川の鉄橋を渡るとき、眼下に朝鮮人の死体が流れていくのが見えた。すると車内は「あれを見ろよ」という叫び声でいっぱいになり、さらには「物狂しい鯨波(とき)の声でみたされ」た。"
人々の興奮が収まった頃、今度は在郷軍人と商人がケンカを始める。誰も関心をもたなかったが、在郷軍人の一言で事態は一変する。
「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
すると車内は一瞬で総立ちとなり、怒声が沸きあがる。群衆に詰め寄られた商人はおろおろと「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」と否定するが、群衆はますます激しく男を責めたてる。そして次の駅に列車が止まると、男は窓からたたき出され、ホームにいた在郷軍人団の中に投げ込まれる。男の体には、在郷軍人たちの鉄拳の雨が降り注ぐ。
「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」と江口は叫ぶが、制裁はやまない。やがてホームの群衆のなかに鳶口の光がひらめくと、次の瞬明、男の顔から赤々と血が流れる。男はそのまま改札口の彼方に群衆に押し流されていく。

「無防御の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる『大和魂』に対して、心からの侮辱と憎悪を感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧さと卑劣と無節制とに対して」という一文で、文章は結ばれる。

このような暴行は、実際に数多く記録されている。
東京から東北方面へ多くの人々が列車で避難したが、その際、朝鮮人や朝鮮人に間違われた日本人が列車内から引きずり出され、駅の構内や駅前で殺害された。
栃木県では、宇都宮駅、間々田駅、小金井駅、石橋駅、小山駅やその周辺で、多くの朝鮮人が暴行された。

検察の発表では、栃木県内で殺害されたのは朝鮮人6人、日本人2人。重傷者は朝鮮人2人、中国人1人、日本人4人。56人が検挙された。
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9日
9月9日 日曜日 前後 池袋 
あそこに朝鮮人が行く!
9月2日の朝、下宿先(長崎村。現在の豊島区千川、高松、千早、長崎町あたり)を出ると、近所の人から「李くん、井戸に薬を入れるとか火をつけるとか言って、朝鮮人をみな殺しにしているから行くな」と止められた。「そんな人なら殺されてもしかたがない。私はそんなことをしないから」と言って忠告を聞かをかったのがまちがいだった。
雑司が谷をすぎたあたりで避難民に道を尋ねたら、「朝鮮人だ」と殴るのだ。ちょうど地下足袋を『東亜日報』にくるんでいたが、そのなかにノロ(鹿)狩りの記事があって「銃」という漢字を見とがめられたのである。大塚警察署に青年たちに連行された。
「警察に行っても話にならない。明日殺すんだ、今日殺すんだ、という話ばかり。信じなければいけないわけは、半分死んだような人を新しく入れてくるんだ。あ、これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いま(89年)は腰がいたくて階段も登れをい」(李さん)

1週間から9日して「君の家はそのままあるから、帰りたければ帰れ」と言われた。不安だったが、安全だからと晩の6時ごろ出された。池袋あたりまできて道に迷ったが、普通の人間に聞いたら大変な目にあう。わざわざ娘さんに聞いたが、教えてくれてから、「あそこに朝鮮人がいく」と叫んだ。青年たちが追いかけてきたが、季さんは早足で行くしかをい。「朝鮮人が行く!」。その声が大きく聞こえる。(中略)
目についた交番に飛び込んで巡査にしがみついた。青年たちは交番のなかでも李さんをこづき、蹴飛ばした。警察官にも殴られた。大塚警察署でもらった風邪薬が発見されると、今度は毒薬だということになった。飲んでみせるとやっと信用され、帰された。自分の村に着くと、近所の娘さんたちが「よく無事で」と、フロを沸かしたり夕食を作ってくれた。
『風よ鳳仙花の歌をはこベ』
当時、東京物理学校(税・東京理科大学)の学生、李性求の経験
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