オオカンザクラ 2017-02-28
*永享2(1429)年
・この頃、マインツ、ヨハン・グーテンベルク(ヨハン・ゲンスフライシュ)、「印刷術」と取り組む。(1454年、最初の印刷物「免罪公告書」を出版)
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・この頃、オランダ人コステル、活字印刷を開始。
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・この頃、イングランド、皇太后キャサリン(カトリーヌ)、オウェン・テューダ(ウェールズ人、?~1461)と秘密結婚。
この頃、エドマンド誕生(1430?~1456、ヘンリ7世の父)。
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・ポーランド王ヴワディスワフ2世、人身保護律を発布、貴族の自由を認める。
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・後にワラキアのヴォエヴォド(公)としてオスマン・トルコと戦うヴラッド・ツェペシュ(後のルーマニア・ワラキア公、ドラキュラのモデル)、トランシルヴァニアの街シギショアラでワラキア公ヴラッド・ドラクルの次男として誕生。
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1月10日
・ブルゴーニュ公フィリップ善良公、ブリュージュでポルトガル王女エリザベート(イザベル・ド ・ ポルトガル、シャルル突進公母)と結婚。ブルゴーニュ公は、この時、金羊勲章を制定。
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2月
・楠木正秀、河内にて畠山持国に敗北。
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・ブルゴーニュ公フィリップ善良公、戦費調達のためディジョンで三部会召集。
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2月11日
・ブルグ・ベハイムシュタイン条約成立。
フス派と神聖ローマ帝国、ニュルンベルク市、ブランデンブルク辺境伯、ファルツ伯等がそれぞれ莫大な資金をフス派に提供することでその攻撃を回避。
フス派とカトリック教会との討論。
1420年7月、第1回十字軍がヴィートコフの丘で惨敗した後、プラハの小市街で双方の代表が討論会を持ち、教会側は、「プラハの四箇条」のうち二種聖餐だけは認められないと主張。
1427年イングランド人枢機卿ボーフォールの努力でジェプラークの城で、1429年ジクムント指示によりプレスブルク(現ブラチスラヴア)で、フス派は弁論の機会を与えられる。
この月(1430年2)、帝国軍総帥ブランデンブルク辺境伯フリードリヒとターボル派指導者プロコプ・ホリー双方の意向により南ドイツ・フランケン地方ベハイムシュタインの城で両者が会談。和解方策が話し合われ、次にニュルンベルクで開かれる帝国議会に、フス派が護衛つきで出席し、自由に弁論できることで合意成立。しかし、この帝国議会は開かれず。
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2月13日
・大和国人豊田氏弾圧に際し、興福寺は僧兵動員について逐一幕府御教書を仰ぐ(「建内記」)。興福寺は、大和一国守護というが、国内土豪紛議に関して独自の軍隊指揮権を保有せず。
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2月21日
・ヴェネツィア、政府、マントヴァ君主ジャン・フランチェスコ・ゴンザァーガにサン・パンタロンの大運河沿いに二つの塔を備えた家を与える
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2月23日
・河内守護・前管領畠山満家の被官人、奈良の転害宿(東大寺門前)で宿の娘に暴行を働き地下人に殺害される。(「建内記」)。幕府・興福寺を通じて亭主を逮捕し宿屋を焼払うべき事を興福寺別当に命じる。興福寺の学侶衆議は、宿の咎なしと評定するが、畠山氏の報復を恐れ将軍義教の命に従う(「建内記」4月23日条)。
興福寺は大和一国支配であるが、隣国守護大名との関係になると、幕府の命に従わざるを得ない面がある。
興福寺:
鎌倉・室町幕府は、大和には守護をおかず興福寺に一国支配を委ねる。国内の殆どの田畠・山林は興福寺又は春日社の荘園、寺院は全てその末寺。室町期でも禅宗など新仏教寺院建立は許されず。
将軍義教の頃、大和永享の乱により、また興福寺の内紛、国人土豪との抗争により勢力が衰える。
しかし、15世紀半ば、尋尊大僧正が出て権威が復興、応仁文明の乱で全権門が没落する中で最後の古代的権門としての面目を保つ。興福寺の検断は特殊な守護権に由来する。
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2月23日
・奈良の町屋に居住する商工業者・座商人等の大半は、大領主興福寺と被官関係を持つ(「建内記」同日条)、「大乗院寺社雑事記」長享元年9月23日条ほか)。この主従関係が興福寺の町屋支配の前提。
彼ら郷民が近世的「町人」へ脱皮するには、この従属性を断切る必要がある。
①興福寺以外の教界領主=寺院(東大寺・薬師寺・西大寺など)の寄人・被官となり従属度を軽減する。
②古市・堤など有力国人土豪の被官となる。
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2月24日
・将軍義教、鎌倉公方足利持氏の討伐を計画、諸将に制止される。
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3月
・フス派遠征。
「摂政」コリブート候の軍勢、ポルコ・フォン・オッペルン候の軍勢、フリードリヒ候、およびロシアからの義勇兵が参加、ボイテン、クラヴィッツを占領。プリーグを制圧し、ニムプチュを占領。
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3月11日
・ヴェネツィア、 アンドーレア・コンタリーニ、ドージェを襲い顔に傷つける
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3月22日
・ヴェネツィア、トラーニとの通商禁止を徹回
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3月29日
・オスマン艦隊、ヴェネツィア艦隊破る。オスマン朝はヴェネツィア領テッサロニキ(エーゲ海北岸、サロニカ、ビザンチン帝国から購入したもの)獲得。トルコはエーゲ海に進出。
テッサロニケ:
1387年~1402年オスマン ・ トルコ、1402年~1422年ギリシア人、1422年トルコがコンスタンティノープル包囲の際に、ヴェネツィアに統治を依頼。
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4月
・幕府に降伏した伊勢国司北畠顕雅、赤松満祐同道で将軍足利義教に銭貨3千疋・太刀・馬を献上、三宝院満済によって将軍足利義教に拝謁。
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・斯波氏重臣二宮越中守と飯尾美作守、3月に上洛した鎌倉公方の使者に将軍への忠誠を誓う起請文を出させる問題で、管領斯波義淳を補佐して諸大名の間での根回しを担当(「満済准后日記」同年4月10日条など)。
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・この月初め、ジャンヌ、ラニーで戦い、ついで22日ムランに赴く。
ジャンヌに従う者は、従者ジャン・ドーロン、兄ピエール、北イタリア・ビエモンテ出身野武士バルテミー・バレッタとその兵200。24日サンリス。
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・フス派遠征軍。ティルナウの戦い。ジギスムント帝軍勢を撃破。この戦いでは皇帝軍は抵抗、フス派軍にかなりの損害、素直に退く。別働隊を率いるプロコプ指揮の軍勢はメーレウを攻略、ブリュン、ステルンベルクを攻囲。8週間の攻撃でこれを降す。更に同年後半にはシュレジェン、ラウジッツへの再度の遠征、リーグニッツ候に包囲されたフス派の根拠地ニムプッツュを救援。後、この軍隊は進撃を続け、翌年まで各地を荒らしまわる。
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・ヘンリ6世(8)、フランス王として戴冠のため、渡仏。
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5月
・越前守護斯波義淳、敦賀郡西福寺の寺領目録に外題を記入して安堵、この目録を松田秀藤を通じて将軍義教に提出。
12月、義教は西福寺を将軍家祈願寺に指定し、改めて西福寺寺領安堵の御判御教書を発す。翌3年2月守護代甲斐将久は西福寺へ遵行状を出す。
応永29(1422)年の義淳による西福寺領安堵の際は、将軍への目録提出はされず、守護代甲斐氏も、安堵の翌日に遵行(今回は御判御教書の発給を待って遵行)。
斯波氏領国の越前に対し、将軍義教は守護の安堵権の上位に将軍の権威を位置付けることで領国支配に介入、守護代甲斐氏はこの意向をもつ将軍義教と直接結ぶ形で動き、越前支配の実権を固めようとする。
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5月5日
・ヴェネツィア、フィレンツェ及びシエーナと同盟
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5月6日
・ブルゴーニュ公フィリップ善良公、コンビエーニュ包囲するためノワイヨンを出発。オワーズ河畔の町が併合に抵抗する為。
14日、コンビエーニュ東北のショワジー・オ・バック村を奪取しコンビエーニュ前面に布陣。国王シャルル7世は、この時点でようやく休戦協定の欺瞞に気付く。
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5月22日
・ブルゴーニュ派軍団、コンビエーニュを包囲。
この夜~23日、ジャンヌ、クレピー・アン・ヴァロワからコンビエーニュ入り。
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5月23日
・コンビエーニュの戦い。ジャンヌ捕虜となる。
ジャンヌ・ダルク、コンビエーニュの町の外での小競り合いの途中、イギリス軍がジャンヌの退路を遮断。町の守備隊は敵の侵入を防ぐため跳ね橋を上げる。結果的にジャンヌは孤立、城外に取り残される。ブルゴーニュ公フィリップ善良公家臣ジャン・ド・リュクサンブール配下の騎士リオネル・ド・ヴァンドンヌの捕虜となる。この日ブルゴーニュ公は、服従する都市へ乙女と呼ばれる女を捕らえたと書簡を送る。
ジャンヌは、ボーリュー・アン・ヴェルマンドワの城に1ヶ月~6週間、その後、カンブレーとサン・カンタンの間の森の間にあるポールヴィワールの城塞に写される。国王シャルル7世は彼女を救出せず。
イギリス軍が大金を準備し、4ヶ月の逡巡の後に秋になる迄に、リュクサンブール公はイギリス軍に1万エキュでジャンヌを引き渡す。北方を迂回して、イギリス軍のフランスにおける本拠地ルーアンに護送され、ブーヴルイユ城の牢に投獄。
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5月24日
・パリ大学、異端検察官の名で、ジャンヌをパリに送り教会の裁判にかけるよう勧告。7月、パリ大学の名で同様勧告。
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5月25日
・パリの国立裁判所書記クレマン・ド・フォーカンベルグ、ジャンヌ捕獲を記録。「パリー市民の日記」にも同じ記述。
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5月26日
・パリ大学、ブルゴーニュ公フィリップ善良公に書簡を送り、ジャンヌを異端裁判にかけるべく身柄引渡しを要求。
アルマニャック派の反響は、「彼女が捕虜になったことにフランス国王派の何人かの人々は悲しみ、怒った」(アルマニャック派年代記作家ジャン・シャルティエ)。「何人かの人々」が怒っただけで、国王シャルル7世は、身代金その他によりジャンヌを取戻す努力を全く行わず。
一方、オルレアンの町、トゥーレーヌ地方ではジャンヌ解放のための祈祷や式や行列が行われる。
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6月17日
・千葉氏13代千葉兼胤(39)、没。嫡男胤直(12)、家督相続。
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7月
・将軍義教の右大将拝賀式。
一色義範が、供奉の一騎打(1騎ずつ1列で進む)順序について、康暦元年の義満の時の祖父詮範と同様先陣を務めると主張(「満済准后日記」7月10~12・19・20日条)。主張が認められず、義範は当日は病気と称して辻固(辻の警備)だけ務め、一騎打に加わらず(同、7月25日条)。山名・畠山らの尽力で処罰は免れるが、義範は討手が来れば一戦交えて切腹する覚悟を示すという(同、8月10日条)。
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7月11日
・ジャンヌ・ダルク、11月初めまで、ボールボワールの塔に閉じ込められる。
この間、司教ピエール・コーションが仲介役となり1万リーヴルでジャンヌの身柄がジャン・ド・リュクサンブールよりイギリス側に引渡される交渉が行われる。ノルマンディー地方三部会は、1万2千リーヴルの税金徴収を可決するよう督促され、いち1万リーヴルはジャンヌの買取り資金となる。
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8月4日
・ブルゴーニュのフィリップ、ブラバント・リンブルク獲得。
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8月30日
・ヴェネツィア、ファエンツァの君主グィダントーニオ・マンフレーディと傭兵契約
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9月
・この月、政所執事伊勢貞経は、義教の専制強圧政治を案じて家臣の蜷川親吉に書状を送り、その中で、「当時御政道相違の間、面々議定の旨これあり。よって天下は当年計(ばか)りの由」という一文を書いた。義教の悪政によって、このままでは来年から世が乱れると指摘した。これが親吉から将軍へ密告され、貞経は執事を罷免、吉野山へ追放された。
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9月1日
・武衛斯波義淳、幕府管領職辞任を申し出るも認められず。
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9月1日
・ヴェネツィア、カルマニョーラにミラノの君主が約束される *
9月4日
・アドリアノープルの和平。ヴェネツィア、オスマン・トルコの間。ヴェネツィア、
トルコ領内での完全な通商の自由、獲得。
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9月10日
・斯波氏重臣の二宮越中守、斯波氏の所領が少なく困窮状態を幕府に訴え、所領加増のために奔走(「満済准后日記」同日・10月8日条)。
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10月2日
・将軍義教、生母の年中用度のため1万1千貫を土倉から調達しようとするが、有力守護大名の反対で阻止される(「満済准后日記」同日、8日条)。幕府の歳出に占める消費的経費の膨大さ。
幕府の内廷費など恒常的支出の性格の強い物は「酒屋・土倉役」「五山禅院からの収入」による。酒屋・土倉役は年額6千貫(6千石)と少額であるが、幕府の出す徳政令の打撃を受けてからはそれも納入できなくなる。
酒屋・土倉役の納入に期待が持てなくなると、幕府は、債務額の1/10乃至1/5相当額を幕府に納める事を義務付ける「分一徳政」を考え出す。しかし、農民は、一揆を蜂起し、土倉から質物を奪い、非合法に「私的徳政」を強行することが多く、幕府の思惑通りの収入確保にはならず。
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11月
・この月、将軍義教の直衣始(のうしはじめ)の儀。
直衣始は、いずれ義教が公武の最高官位(准三宮(じゆさんぐう)あるいは太政大臣等)に昇ることを想定して、公家としての礼服着用の儀式。
ところがその脂燭(しそく)役を奉仕していた下級公卿の東坊城益長は、何かおかしいことがあったとみえて儀式進行中に徴笑したところ、義教の怒りに触れ、所領二ヵ所を奪われたうえ籠居させられる。
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11月11日
・世阿弥「申楽(さるがく)談儀」完成。
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11月21日
・ジャンヌ・ダルク、英軍に1万フランで売り渡される
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11月21日
・パリ大学、ジャンヌを裁く使命をボーヴェー司教ピエール・コーションとフランス王国異端検察官に与えられるようイギリス国王に書簡。
ピエール・コーション:
トロワ協定交渉委員、英仏二元王国論理の提案者、ジャンヌの身柄をイギリスに引渡す際の仲介者。
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12月23日
・ジャンヌ・ダルク、ルーアンのブーヴルイユの城に閉じ込められる。
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12月28日
・ルーアン司教教会参次会、摂政ベッドフォードの命令でボーヴェー司教ピエール・コーションへの「司教管区の委任」を承認。
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