2017年9月5日火曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その3) 葛飾区、北区の証言 「2日「戒厳令」がしかれると馬に乗った兵隊を先頭に水元の方から、手をしばられた多くの朝鮮人が〔中川〕土手を通って浦安の方へ連れて行かれる光景もありました。」

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その2) 板橋区、江戸川区、大田区の証言 「深川清澄庭園に避難中の事柄、2日目に立ち寄りし一在郷軍人の話によれば、小松川方面よりの途すがら鮮人十数人を殺傷してきたといいながら外被を開ければ、返り血を浴びて凄くそのときの無残な様子が思われた」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;葛飾区〉
池田〔仮名〕
朝鮮人が殺されていた場所は、上平井橋の下といまの木根川橋の近くだった。上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人ぐらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは「朝鮮人が井戸に毒を投げた」「婦女暴行をしている」という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが・・・、わからない。気の毒なことをした。善良な朝鮮人も殺されて。その人は「何もしていない」と泣いて嘆願していた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

上村セキ
あくる晩〔2日〕から立石で朝鮮さわぎなんですよ。まっくらだし「朝鮮人だ! 朝鮮人だ」と大騒ぎしているんです。それで各家庭で竹槍を作れってんで竹槍をつくり、朝鮮人をみたら、みんなやっつけちゃったらしいですね。相言葉があって「山」といったらすぐ「川」とでないと朝鮮人だといって日本人も何人かはまちがえられたということをききました。竹槍をつくるように言ってきたのは町会からだったです。
〔略〕兄がいうのには四ツ木橋のところにたくさん朝鮮人を連れてきて並べ、中にはこの立石の地の朝鮮の人もいたそうですが、その「アイゴ! アイゴ!」と泣き叫んでいる人たちを竹槍で突いて荒川の土手へつきおとしたそうですよ
(「四ツ木橋畔の虐殺事件のこと」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

内田良平〔政治活動家〕
2日夜京成電車四ツ木駅に於て17、8名の鮮人〔略〕軍隊及び在郷軍人と衝突し銃殺せられたり。相撲年寄春日野の別荘にはその際に於ける2個の弾痕残り居れり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

島田精
2日目に四ツ木橋を越え、本田村(今の葛飾区)の庭先をかりてみんなで野宿したわけです。ちょうど2日目の晩に「津波ダァー」という声がしたのでみんな線路に上がって枕木に帯で体をつないだりしましたが、津波なんかいっこうにこないので帯をほどきました。ところが8、9時頃、「朝鮮人が攻めてきたぁ」という声が流されて、みんな殺気だっちやった。「竹をだせ!」「槍を出せ!」、棒きれもってる奴はナイフで先をとがらせて、集まった人たちだけで臨時自警団をつくり、周囲をかためた。その頃は芋が盛りで芋の葉っぱが人の顔にみえたりしてそれをつついたりしました。そしたら土手の方からバンパンパンと鉄砲をうつような音がきこえてきました。
あくる朝、放水路のところを歩いていったら、 - 当時荒川放水路は工事中で朝鮮人は安い労働力として使われた、日本人の貸金にくらべれば2分の1位でした。 - そこに行ってみると無惨な屍臭がして、土手に、5人、6人と死んでいました。傷跡は明らかに刀で切られたり、竹でつかれたりした死骸でした。からだに日本刀で斬られた断面がありました。人相が朝鮮人でした。
〔略〕この荒川土手のところでは一軒の農家があったのですが、昼過ぎ7、8人の朝鮮人が農家のまわりに逃げてきて自警団やそこいらにいた人につかまり、有無をいわず袋だたきにあい、5分間ももたないうちにめった打ちにして殺されてしまったのをみました。当時あそこは工事をしていたので玉石はいっぱいあって、土手の上からみんな玉石を投げて加勢して殺したんですよ。
(「荒川土手での白昼の惨事」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

崔然在(チェヨンジェ)〔当時22歳。当時本所区向島小梅町178番地大野儀一方の鉛筆工場に勤務。本籍地は朝鮮成南北青郡下車書面上新兵里〕
2日夜、立石尋常小学校前で青年団につかまり連行された〕「貴様は何所か」「朝鮮です」「四ツ木で乱暴して来たろう」「貴様も殺してやる」崔君の全身は血みどろに染った。
「何故殺すんです。その理由を聞かせてください」「貴様は理由は知っているはずだ。だまれ」「早く殺せ」「やっつけろ」と集まるもの、日本刀ピストル竹槍など手にした人、60~70人、崔君は溝の岸に伴われた。君は遁れる由もなく、溝岸に立たせられ、頭を前に屈げさせられた。君の身命は風前の燈となった。
〔略〕一刀がキラリとひらめいた。この時生命かぎりに、主人儀一の名を呼んだ。間髪を入れぬその時、天佑か主人の名を知る者があって一度調べてやれと、交番に伴われた。時は午後11時頃であった。
彼は7、8人と共に寺島警察署に送られた。11日には千葉習志野へ、10月24日青山へ、11月26日本所区二葉バラックへ転じて来た。
(東京市編『大正震災美談』大日本学術協会、1924年)

二方芳松
〔金町で〕2、3日過ぎると、消防組、在郷軍人団、青年会等が連合して夜警が始まった。私もその人々と夜警に任じた。鮮人の暴動云々の噂が、しきりに広がる。すると自警団の人々から、私の貸作にいる伊衡三と言う一人の鮮人を引き渡せと迫って来た。同じ貸作の人々からもそう言って来る。困ったことだと思いながら、「彼は1日の震災当日以来一歩も外出はしないで、謹慎している。決して暴行などをする人ではない。万一左様なことがあるとせば責任は僕が引受ける」と百万弁解して断じて引渡すことをしなかった。一方鮮人の彼にもよく言いきかして置いた。
その後度々引渡を要求し来ったが、私はどこまでも彼を保護したので、私の妻までが、余りあの人をかばっては同類と見られると言って心配をし始めたが、その内に警察から鮮人を習志野へ送って保護するというので彼を迎えに来た。彼は結局は殺されるものと疑ってシオシオとして習志野へ行ったのである。〔1カ月程で無事に帰って来た〕
又一方村人が、風呂敷包を背負うて行く一支那人を見付け、捕えて見ると付近の馬小屋の馬力で、外に8人程おった。ところが流言に途迷うた在郷軍人の服を着けた小柄の男が、極力これを殺害することを主張した。私はこれに対して、とんでもないことだ。私刑は如何なる場合といえども国家の法を乱すものであると言って止める。けれども彼は容易に私の諌言を容れようとはしないで、頑として責任は俺が負うと言う。私は更に諭した。外国人を殺害せば、国交問題を惹起し、君一個の責任では済まぬ。その責任のかかるところは日本政府になる。〔略〕一同は解散した。
〔略〕ただしこの騒ぎの内に前記支那人の一人が45円入りの財布を竊取(せつしゆ)されたという事件が持ち上がった。私はその話を聞いて、如何に非常時の行動と言いながら、それは強盗である。早く調べて返せ、もし取った奴がどうしても返さぬと言うならば、他人を検問し身体を調べた一同の共同責任であるから、皆してこれを弁償せよと或は諭し或は叱った。かくてこの事件は兎も角もスツタモンダの上漸く返却して無事に落着した。
(「やむにやまれぬあの日の行動」東京市役所・『萬朝報』社共編『震災記念 - 十一時五十八分』萬朝報社出版部、1924年)

氏名不詳
「奥戸橋で5、6人つかまえて橋の番小屋の所へつなつけて入れといたんだよ。青年会役人で朝鮮人をつかまえてみんな入れてしまう。〔略〕朝になって戒厳令がしかれたら、朝鮮人を橋の上で殺してしまう。剣付きでね。誰が殺すかというと国府台の兵隊さん。まあ新兵だな。上等兵がいっしょに来て、やりで橋の上からみんなつき落として。へイへイヘェ-、ズブリズプリね。それもまあ、見てた。」(証言)
「川に落ちた体は血をふき出し、その流れ出した血は川の中を尾を引いて流れていきました。50メートルも行くと死体はしずんで行くのでした。」(証言)
〔略〕2日「戒厳令」がしかれると馬に乗った兵隊を先頭に水元の方から、手をしばられた多くの朝鮮人が〔中川〕土手を通って浦安の方へ連れて行かれる光景もありました。こうして連れて行かれる朝鮮人はとてもおとなしく「悪い事はしません。悪い事はしません。」と言っていました。15、6の少年や少女は泣いていました。
〔略。中川奥戸橋で〕血まみれになりながらも、川の中ににげた人さえも、やっとの思いで岸にたどり着いた時には兵隊に、とどめをさされるのでした。それから2、3日してからも、川には死体がうかんでいました。それを見た村の子供達は、気味悪がって、竹の棒などでつついていました。
(奥戸中学校1978年度文化祭参加作品『ドキュメント 地震と人間 - 奥戸編』奥戸中学校郷土クラブによる聞き書き)

〈1100の証言;北区〉
曽田政治
〔2日〕日暮里から飛鳥山の下を通り、赤羽の工兵大隊の前に来たときは、もう夕暮れときであった。途中、大きな余震に肝をひやしたこともあったが、ここまで来ればもう安心と、一同営内の大きな欅の下に荷物をおろして野宿の支度をした。もちろん営庭には、先着の避難者があちこちに陣どっていた。朝鮮人暴動の噂を聞いたのはちょうどこの夜のことであった。かれらは井戸へ毒を投げこんだというデマがしきりにとんでいた。
ようやく逃げのびたと思ったらこの騒ぎなので、この先いったいどうなることかと、その夜はおちおち眠れなかった。
(曽田政治『香料とともに六十年』曽田香料、1967年)

田中幸助
〔2日夜、赤羽駅付近で〕私等は蚊を追いながら少しウトウトとしますと、突然起されました。聞けば鮮人らしいのが火薬庫(赤羽の)付近を徘徊したとかで、巡察将校(抜剣)や衛兵3名(付剣)外に在郷軍人の一隊で大騒ぎです。遠くの方では「ピストル」の音も聞えます。夜中数回駈回ったようでした。
(「大正大地震・罹災記」『社会事業史研究・第41号』2013年3月号、社会事業史研究会)

第二岩淵尋常小学校児童作文編者
〔2日〕この夜朝鮮人市内140余ヵ所に放火し、本町にも入り込みたりなど流言あり、すでに某家を襲いたりとて騒擾し町内総出警戒、学校に逃れたりとて終夜安からず。3日戒厳令を施かる、東京神奈川、千葉、埼玉の一部(これは戦時と同様に軍隊出動して警戒するの意)、余震尚止まず人心恟々(きょうきょう)〔略〕。
(「第二岩淵小学校児童作文集・震災号」1924年2月〔冨田駿策氏所蔵〕→北区史編纂調査会編『北区史<資料編>現代Ⅰ』北区、1995年)

高木助一郎〔王子村上十条(現・中十条1丁目)で被災〕
9月2日 本日午後より不逞鮮人この際或る行動を起せりという流言甚だし。〔略〕夜半(午前2時頃)不逞鮮人約300余人、尾久町方面より王子町に侵入、堀の内方面にては既に町民と鮮人との間に争闘開かれたりとの報あり。皆な棍棒或いは日本刀等を持ちて警戒す。榎町堀の内方面に於て警鐘を乱打して警戒する等物凄きこと限りなし。〔略〕自警団に於て鮮人を捕え来るもの多し。鮮血全身にかかれるもの頭部を負傷せるものなどありて物凄し。
9月3日 驚戒の為め軍隊二箇小隊来る。夜、各町内軍人会、青年団等にて厳重に警戒をなし、要所要所に縄などを引き通行人は一々誰何したる上にて交通を許すなど物々しく誠に無警察の状態ともいうべきか。予、役場より帰途稲荷坂を上り岩槻街道より王子道を経て家に至る間誰何を受くること4回、警戒線(縄)にかかること2回、以てその厳重さを知るべし。
9月4日 夜、鮮人が井戸に毒を投げ入れ、又は放火をなすなどという流言甚しく、為めに夜警益々厳重なり〔略。以下に毒・爆弾投下・放火・掠奪等の記号の説明〕。
9月5日 本日より本町方面警備の為め2箇中隊の出動あり。民心悪るし。
本日より各町内その他自警団は警察の許可を要することとなりたり。それが為め警察と一般民衆との間に度々衝突あり。警察の門前にて悪口雑言し、中には某警部は社会主義者なれば打殺せなどと騒ぎたり。
板橋火薬庫を鮮人の襲う計画ありとの噂高し。避難者の交通戦場の如く夜を徹して通る。
(高木助一郎著、本間健彦編『一市井人が日誌で綴った近代日本自分史 - 1908~1947』街から舎、2000年)

戸沢仁三郎〔社会運動家、生協運動家〕
〔王子の友人が〕 2日に〔流言を〕聞いた。メガホンで夜大きな声で「朝鮮人が井戸に毒を投げている」「朝鮮人が集合してこっちへおしよせてくる」「小松川大橋でどうとかこうとか」。〔自分が流言を聞いたのは3日〕。
(『朝鮮研究月報』1963年10月号、日本朝鮮研究所)

長井修吉〔飛鳥山近くに在住〕
2日夜9時頃。「刑務所を脱出した300名の囚徒が、凶器を提げて小台の渡しから、飛鳥山方面に向わんとしている」と伝えてきたものがあった。同じく2日夜の10時頃、「今夜12時に昨日よりもモットひどい大地震があるから気をつけろ」と触れて来た者があった。
各所の板塀に〇、△、◎等の記号を書いて回るものがある。○は放火、△は掠奪、◎は凌辱を意味する暗号だから、見付け次第警察に届け、各自十分の警戒を要する、ということがどこからともなく伝えられてきた。
(長井修吉編『大正震災記』大正震災記録編纂会、1923年)

内田良平〔政治活動家〕
2日の晩田端駅の上に騎兵の手に鮮人男3名女2名捕へられたるを実見したる者あり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

荻野フミ〔当時浅草区精華尋常小学校3年生〕
〔2日、田端で〕おにぎりをたべて休んでいると〇〇人が来たというのでたばたから少しはなれた広いはらっぱへにげました。すると〇〇人のてっぽうの音がどんどんときこえて来ます。私はこわくてたまりません。それからまだたったばかりのお湯屋へ行きました。夜が明けると、〇〇人が来たと言うのではんしょうが鳴りだしました。すると男の人たちが大ぜい手に手にぼうをもって〇〇人をおって行きます。
(「9月1日の記」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常三年の巻』培風館、1924年)

鹿島龍蔵〔実業家、鹿島組理事、当時田端在住〕
9月1日 〔略〕夜火事場に当って盛んに爆音を聞く。鮮人(ママ)の爆弾なりとの説翌日伝わる。しかれども手榴弾としては音が強過ぎる。
9月2日 〔略〕とかくの騒櫌裡に日が傾いて来た。一寸野辺地の宅を見舞う。彼のいうには、不逞鮮人(ママ)がこの機に乗じて暴動を起した。火事がかくの如く大きくなりしもその為めなり。猶今現に動坂に於て焼討を行いつつあり、要心を要す。との事であった。そこで僕は極力そのあり得べからざる事を話し、猶地震のゆり返しが、学術上、又古来の記録から見て、決して初めの物より以上大きくない事等を語って、家に帰る。〔略。日が暮れて〕高台組合の青年団は起って、警戒の部署を相談している。折も折り、約一大隊の騎兵は、馬上いそがしく相呼応して、門前の道路を蹄鉄の音高く、通過するに会う。物情騒然。今にも戦争が始まりそうなり。〔略。赤羽工兵隊の消火活動により〕火事はこれで終ったが、不逞鮮人(ママ)騒ぎはその後愈々猛烈となり、流言蜚語紛々として停止する所を知らず。訛伝(かでん)は訛伝を生むので、人心増々不安となる。午前3時頃に至り、遂に尾久を追われたる徒300、一大集団となって襲来する、という警報至り、高台組合200幾軒の男子、総出動これが防禦に備うるという所までになり、警鐘を乱打せば、その地点に集合して、一白兵戦を為さんとまで、意気込みしも4時を過ぎて、漸く東天白みかけしも終(つい)に何の事もなく終った。

9月3日 〔略〕菊池氏はとも角一度焼け跡を見様という。我は不逞鮮人(ママ)騒がはげしいから家にいてほしいとの家人の頼みもあるので在宅する事にし、菊池と箱崎と両君同道、深川方面に行って貰う事にする。〔略〕漸次夕幕となる。不逞鮮人(ママ)の流言昨日より、より多く甚だしくなり、何となく不安の気濃厚となる。〔略〕夜警は厳重を極む。それでも猶不安の人心の虚に乗じて訛伝盛んに伝わる。その最も甚だしきは、昨夜この地を通った騎兵の中、約30名は尾久にて不逞鮮人(ママ)の為めに殺害さるる。曰く付近の井戸に毒薬を投じたるを知らず、その井水を飲みたる者皆毒死する。曰く何曰く何と。終夜呼声を聞き、又疾走する多数者の物音を聞き、時に警鐘の乱打さるるあり。人心恟々(きょうきょう)たり。〔略〕能灯もなき家々の間を提灯の火のみ終夜とび回ったのは、実に奇観であった。〔略〕夜、長野草風氏来り、不逞鮮人(ママ)騒はげしくなって来た故に、いつ赤羽の日本製麻会社に避難するかも知れぬ。その折は宅の前を通るから荷物を頼むと云って帰った。
9月10日 〔略〕江戸崎来る。夕食から寝るまで、江戸崎を中心として本所方面の被害後の惨状から、不逞鮮人(ママ)の話になった。久しぶりでこの語り古された話に、興味を持つ。10時頃皆寝る。
(武村雅之『天災日記 - 鹿島龍蔵と関東大震災』鹿島出版会、2008年)

菅野迪夫〔当時神田区尋常小学校4年生〕
〔避難先の田端で〕2日の日から〇〇〇〇〇人ばくだんをほうりこんだり家に火をつけると言ううわさがばっとひろかった。たばたの方では裏と言う裏はかきねをこしらえて通行の人をしらべはじめた。人々は木剣、竹やり、あるいはサーベルなどを持っている。
(「9月1日の地震と火事」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常四年の巻』培風館、1924年)





0 件のコメント: