2019年6月26日水曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(14) 1930年(昭和5年) 松本竣介(18歳)、太平洋美術学校へ通う 靉光(23歳)《コミサ(洋傘に倚る少女)》 独立美術協会発足

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(13) 1929年(昭和4年) 「日本プロレタリア美術家同盟」(P・P)設立 「洪原会」結成 小熊秀雄が長崎町に移る 長谷川利行38歳《割烹着》「残された年月は両手の指の数も残っていない」
より続く

1930年(昭和5年)
松本竣介(18歳)、太平洋美術学校へ通う
「こうして竣介は翌昭和五年、研究所を解消して再発足した太平洋美術学校へ、ひきつづきかよった。鶴岡が揶揄したように、制服の金ボタンが似あっていた。そのころはすでに、自由学園裏の借家から長崎町並木の借家に移っていたが、そこは数年後に最大の貸アトリエ村「桜ケ丘パルテノン」ができるあたりであった。」(『池袋モンパルナス』)
4月7日、兄彬が盛岡で企画した芸術祭プログラムのひとつ、絵画陳列に参加。
5月、盛岡中学校創立50周年祝賀会に一環として絵画展覧会が開催され、五味清吉・深澤省三らとともに出品。

1930年(昭和5年)
麻生三郎、明治学院中学部を卒業、太平洋美術学校選科に入学。同学校で、佐藤俊介(後の松本竣介)を知る。

1930年(昭和5年)
2月~3月、靉光(23歳)が第7回槐樹社展に出品した25号大の力作《コミサ(洋傘に倚る少女)》(広島県立美術館所蔵)は、靉光絵画の重要なエポックを示す仕事となった。

「コミサ(洋傘に倚る少女)」は、靉光の2歳下の妹コミサをモデルにしていて、ふかい黒緑色に淡い光の入り混じった微妙な黄白色、点々とほとばしる赤土色を基調とした作品。洋服の陰影が大胆にデフォルメされ、直角に立てた傘の長い柄がどこか求心的にさえ見える。憂うつげに洋傘にひたいをのせてうつむくコミサの横顔が、まるで幼い聖女が祈りでも捧げているふうにも見え、画面全体がちょっぴりルオー的な雰囲気を醸し出している。
単なる妹の肖像画というより、妹の姿をおしつつむ暗く深い闇のようなものをも描きとった作品。
靉光はコミサをことのほかかわいがり、梅蔵夫婦のもとへ養子にきてからも、コミサにだけはしばしば手紙を書いていたといわれるが、そうした愛妹への兄としての思いやりと包容力が、暗黒の中にに仄かに浮かび上がってくる絵である。
しかし、当時の靉光は東京に出て6年め頃で住まいも転々としながら、郷里の親元からの仕送りだけにたよる貧困生活だった。その僅かな送金も途絶えがちで、食べるものが何もないといった悲惨な日もあった。「洋傘に倚る少女」のカンバスの裏がわには次のような毛筆の走り書きがある。

「ぶりの粉(かす)つけ(ママ)をたべて製作中畳の上にたおれる、気特の悪い、しんけんみがでる 水をのまず天かんの様になった 目を見張って青白い顔、つらつら気特の悪いもんだ一九三〇度(ママ)三、五日に立川へおよめいりする幸多き事をいのる 母が恋しい 逢いたい大分年をとっただろーな」(原文のまま)

貧困のどん底での制作と、結婚して立川コミサとなる妹への愛情、それに加えて、別れた実母ツネへの思慕がやるせなく交錯している文章である。ここには、そのころの靉光の、現実の生活における貧苦と飢餓とのたたかい、将来への不安におしつぶされまいとする必死の境地があらわされているように思われる。
「母が恋しい」「逢いたい」「大分年をとっただろ-な」は、実母への思いにこめた青年靉光のいじらしいほどの孤独感のあらわれである。ヨシダ・ヨシエ氏の靉光伝には、このさみしさにたえかねて、靉光が広島から壬生までの山道を一人で歩いて帰ったことがあるとのべられている。上京してからも、実家に帰るのが何よりのたのしみで、母の顔をみながら好物のシバモチ(クイの葉でくるんだモチ)を食べるのを夢にまでみることがあったというのである。

ここに「人の善意や愛情に素直になりきれない」「肉親の愛さえもまっすぐにうけとれない」靉光の、いわば肉親願望のようなものがかさなりはしないだろうか。たぶん「洋傘に倚る少女」には、靉光の幼年期から青年時代における、愛さねばならない養父母と愛してはならない実父母とのあいだにゆれる煩悶の日々がぬりこめられているような気がしてならない。結婚する愛妹の姿にたくして、靉光は自らの心の空洞と、どこにももってゆきばのない人恋しさ、親恋しさをえがいたともいえるのである。幸福の絶頂にあるはずのコミサの、うつむいて瞑想している横顔こそが、そのまま当時の靉光のゆくえさたまらない心情の表現であり、同時にそこには、他家にとつぐ妹を思いやる兄としてのやさしさと慈しみがあふれている。
いいかえれば、靉光はコミサを思いやることによって、自らの血縁にたいするつよいあこがれ、せつない帰郷願望をも告白しようとしていたのではあるまいか。
(『靉光の生涯』)

1930年(昭和5年)
鶴岡、靉光ら21人は、昭和3年7月「洪原会」という小グループをつくっていたが、昭和5年にそれを発展させて「NOVA美術協会」をつくった。「NOVA」は、エスペラント語で「新しい」の意味で、綱領は「革命の芸術」と「芸術の革命」の差を、くっきりと浮かびあがらせていた。
「私達は政治的思想を主調とする従来のプロレタリア美術に対する不満、絵画芸術は絵画自体としての発展に還元されるべきと信じる。・・・・・」

1930年(昭和5年)
独立美術協会発足
昭和5年11月、
「里見勝蔵、児島善三郎、林武ら二科の人たちを中心に、高畠達四郎、三岸好太郎らが加わって、朝日新聞の応援のもと独立美術協会が発足。独立美術協会は、フォーヴィスムをかかげた一九三〇年協会の発展形態でもあった。有楽町の朝日講堂でひらかれた発会式には、里見勝蔵、児島善三郎、野口弥太郎らが演壇にたって文展のアカデミスムを攻撃し、二科は商業主護に堕したとしてこきおろし、会場は拍手でわき立った。演壇の者は30代、聴衆は20代であった。」(『池袋モンパルナス』)

つづく

《参考資料》
宇佐美承『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』 (集英社文庫)
窪島誠一郎(『戦没画家・靉光の生涯 - ドロでだって絵は描ける -』(新日本出版社)
宇佐美承『求道の画家松本竣介』(中公新書)
吉田和正『アウトローと呼ばれた画家 - 評伝長谷川利行』(小学館)

《Web情報》
三重県立美術館HP 長谷川利行年譜(東俊郎/編)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm
大川美術館 松本竣介 略年譜
http://okawamuseum.jp/matsumoto/chronology.html
東京文化財研究所 寺田政明略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10031.html
同 古沢岩美略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html
同 麻生三郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28181.html
同 福沢一郎略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10437.html
同 吉井忠略年譜
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28157.html
佐伯祐三略年譜
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/saeki_life.html




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