2021年12月26日日曜日

根府川の海 茨木のり子 (『対話』1955年11月不知火社刊 初出「詩論」1953年2月 詩人27歳)


根府川の海           茨木のり子


根府川

東海道の小駅

赤いカンナの咲いている駅


たっぷり栄養のある

大きな花の向うに

いつもまつさおな海がひろがつていた


中尉との恋の話をきかされながら

友と二人ここを通ったことがあった


あふれるような青春を

リュックにつめこみ

動員令をポケットに

ゆられていつたこともある


燃えさかる東京をあとに

ネーブルの花の白かつたふるさとへ

たどりつくときも

あなたは在った


丈高いカンナの花よ

おだやかな相模の海よ


沖に光る波のひとひら

ああそんなかがやきに似た

十代の歳月

風船のように消えた

無知で純粋で徒労だった歳月

うしなわれたたった一つの海賊箱


ほっそりと

蒼く

国をだきしめて

眉をあげていた

菜ツパ服時代の小さいあたしを

根府川の海よ

忘れはしないだろう?


女の年輪をましながら

ふたたび私は通過する

あれから八年

ひたすらに不敵なこころを育て


海よ


あなたのように

あらぬ方を眺めながら…‥。


(『対話』1955年11月不知火社刊 初出「詩論」1953年2月 詩人27歳)


翌昭和二十八年になって、一月十五日、詩学社の木原孝一氏から速達が届き、二月号の新人特集に載せたいから、四〇行位の詩を至急送るようにという依頼だった。

毎年二月号は、新人特集号で、投稿者のなかからと、同人雑誌で、いい仕事を果した人達が選ばれて、本欄に掲載される権利を獲得するのである。

うれしかった。詩学研究会という道場には忍者スタイルで、二年半近く通ったことになる。

たまたまその日は、成人の日で休日。夫と一緒に新宿へ映画「真空地帯」を観にゆくことになっていたが、一寸待ってもらって、原稿用紙に向い、十分位で、ちゃらちゃらと書いたのが「根府川の海」である。既に私の心のなかに出来上っていたとも言えるが、今ではもう、あんなふうに気楽には書けなくなってしまっている。

投函しがてら、新宿へ出て、予定通り「真空地帯」をみた。あの時の木村功は絶品だった。強烈な映画の印象にふらふらになって、濃い珈琲で人心地をつけ、紀伊国屋書店で前からほしかった金子光晴の詩集『人間の悲劇』を買って帰った。

しばらくの間、ラスト・シーンで木村功のうたった「色でかためた遊女でも、また格別のこともあるウ…」のうたが頭から離れなかった。

私の住む所沢町にも、戦後の遊女であるところの、ぱんぱんがひしめいていて、女湯では、いやでも彼女らと肌ふれあい、「ゆんべ、仙子のやつ殴られて(GIに)顔がどぶくれたってよウ」「へン、みものだったべな」などという関東訛の会話をしょちゅう聞かされていたし、すさまじい刺青にも、ぎょっとさせられた。敗戦後の実態を、日夜肌身に感じさせられた環境から、戦後の詩というものを望見すると、言い知れぬじれったさに駆られた。

この町に六年あまり住んでのち、この町を離れると、日本にアメリカ軍基地が沢山あることを、毎日の意識としては、そう感じなくなってきたのだった。おそらく沖縄の人たちが現在、本土に対して持つだろう、じれったさや感覚の落差を、私なりに想像してみることがある。

昭和二十八年、詩学の新人特集号(二月号)には、川崎洋、牟礼慶子、舟岡遊治郎、吉野弘、花崎皐平、といった名前が並んでいた。

(「「櫂」小史」)




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