2024年4月1日月曜日

大杉栄とその時代年表(87) 1893(明治26)年7月12日~20日 漱石、日光旅行 一葉、下谷龍泉寺町に転居 「我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」(一葉日記)

 


大杉栄とその時代年表(86) 1893(明治26)年7月1日~12日 「国民之友」(徳富蘇峰)、朝鮮併呑を主張 一葉、萩の舎の会に参加するための着物を売却して手元資金に充てる 漱石、帝国大学文科大学英文科を卒業、帝国大学大学院に進学 狩野亨吉との交際が始まる より続く

1893(明治26)年

7月12日

漱石、3年先輩の磯田良(高等師範学校教授)を訪ねる。講師就職依頼は、経済上の都合で採用むずかしい。夜、立花銑三郎宛に手紙を出す。学習院へ出講したいと依頼する。(原武哲「漱石の学習院出講運動と失敗」(『毎日新聞』(夕刊)昭和54年11月21日)

7月12日

又は、13日頃、子規は久しぶりで菊池謙二郎ら数人の以前の学友と旧好会を開いた。来会者に漱石は見えない。

7月12日

米歴史家フレデリック・ターナー、米歴史学会で米のフロンティアは消滅と述べる。

7月13日

漱石、午前6時、上野停車場発で、菊池謙二郎・米山保三郎と日光地方に遊ぶ。~15日。

7月15日

一葉、この日早朝より商売の為の家探しをする。妹くに子と、「和泉丁二長町浅草にかけても鳥越より柳原蔵前あたりまで行く」。また、この日より、日記は「塵之中」又は「塵中日記」と改題。塵の中に交わり、「にごりににごりぬる浅ましの身」と感じたことの表明。また、萩の舎にも以後11月まで訪れていない。


「十五日より家さがしに出づ。朝日のかげまだ見え初ぬほどより、和泉丁、二長町、浅草にかけても鳥越より柳原、蔵前あたりまで行く。此度のおもひたちは、もとより店つきの立派なるも願はず、場処のすぐれたるをものぞまず。科ひくくして人目にたつまじきあたりをとのさだめなれば、つとめて小家がちに、むさうさとせし処をのみ尋ぬ。・・・」


父が亡くなってからも、小さな家ではあっても、門や格子戸、庭には木立、座敷には床の間があったが、下町の安い家賃のところは、

「天井といはゞくろくすゝけて仰ぐも憂く、柱ゆがみゆかひくゝ、軒は軒につゞき勝手もとは勝手元に並らびぬ。さるが上に、大方は畳もなくふすまもなく、唯家といふ名斗(バカリ)をかす成けり」(「塵之中」明26・7・15)

という有様。

神田川の美倉橋と和泉橋の間にある小路に、4畳半と2畳の2部屋に店にできる3畳ほどの板の間があり、畳も建具もついて、敷金3円、家賃1円80銭の物件があったが、庭はなく、奥の廂(ひさし)が裏の廂の屋根についているような立て込みようで、母に相談して決めることにして午前中は帰る。

妹くに子はしきりに疲れたと言うと、気持ちが落ちこんだからと考え、それを不憫に思う。

「さてやこれよりの境界(きようがい)のあさましきをおもへば、此人の為もかなしさは胸にみちてすゝむべき方もおぼえず。さりとて退ぞきて行かたもなし。心ぼそしとはかゝる時をこそ」(同)

21歳の若さで「家」を背負い、妹と細民街をさまよう一葉の、みじめさ、心細さが思いやられる。

午後は駒込・巣鴨・小石川辺りを廻る。宏壮な別荘などが多く、一葉らの企てる「いやしき商い」の買い手がいるようには思えない。牛込神楽坂辺りがよいと思うが、知人が多くて恥しい。飯田橋からお茶の水まで来ると、今日は川開きとて賑やかである。妹くに子は疲れた足を引きずり、汗みずくになっている。さすがに可哀相になり、一葉の気力も失せて家に辿く。この日歩いた距離は、5、6里になる。

7月16日

一葉、道具を売る交渉などに明け暮れる。

7月17日

この日、くに子が行きたがらず、一葉は母と二人で出かける。この日、本郷の切通坂を下り、上野から北へ向かい、下谷(現、台東区)の坂本通り(現、金杉通り)で2軒ばかり見るが、気にいらず「行々て龍泉寺丁と呼ぶ処」へ行く。

龍泉寺町に二軒長屋の一つに空家があり、店になる6畳と奥に5畳と3畳の座敷があり、敷金3円、家賃1円50銭と手頃で、小さな庭があり、その向こうに他人の土地ながら木立もあり気に入る。一旦帰宅してくに子に話し、3人が納得したところで結論を出し、夕方再び出直して決める。

この頃の上野界隈:

明治23年(1890)の恐慌以来、無職無銭の「窮民」層の多い地域となる。『国民新聞』掲載の「窮民彙聞(いぶん)」(下層社会のルポルタージュの先駆けとなった記事の一つ)によると、

「下谷にて南稲荷町、山伏町、万年町、豊住町、下車坂町、浅草神吉町辺貧民群を成し、此処を通過する人はその汚らわしき衣類食物の臭気は紛々として鼻を衝き、麦、粟、粉米、蕎麦下粉の類および大根人参などの末端(ハシキレ)雑然として牛馬の餌に等しきものを一家三、四人ないし六、七人も両々相対してムサムサ飲食しつつあるを見るべし」(明治23・6・20)とある。

その後、明治25年11月から松原岩五郎が『最暗黒の東京』を『国民新聞』に連載し、翌26年11月に刊行され注目をあびる。

松原は、上野界隈の貧民街に足を踏みいれ、ここで生活する人々の様子を描く。


「日は暮れぬ、予が暗黒の世界に入るべく踏出しの時刻は来りぬ。いざさらばと貧大学の入門生は何の職業をもてる者ともつかぬ窶(やつ)しき浮浪の体にて徐々と上野の山を下れば、早くも眼下に顕われ来る一の図画的光景。それはあたかも蒸汽客車の連絡せるごとき棟割の長屋にして、東西に長く、南北に短かく斜に伸びて縦横に列なり、左方は寺院の墓地に彊(かぎ)られて右の方一帯町家に出入して凸字あるいは凹字をなせる一区域は、これぞ府下十五区の内にて最多数の廃屋を集めたる例の貧民窟にして、下谷山伏町より万年町、神吉町等を結び付たる最下層の地面と知られぬ。」


7月19日

一葉、藤本藤陰、伊東夏子、中島歌子らを訪ね、転居を知らせる。以後、11月5日まで萩の舎へは行かなくなる。

7月20日

一葉一家、下谷区下谷龍泉寺町368番地(大音寺通り、現茶屋通り)に転居。人力俥宿と隣り合う2軒長屋の左側。近くには酒屋伊勢屋、魚屋魚金、西澤道具建具屋など。

8月6日より「文久店」(文久銭が1銭5厘で通用する店。その他、天保銭・寛永通宝などの通用。貧民相手の商売)を開く。

その後の一葉;

10月、文学活動復帰を志し図書館通い。

12月「琴の音」(「文学界」)発表。

翌明治27年5月、本郷丸山福山町に移る。

12月「大つごもり」発表。


「此家は下谷よりよし原がよひの只一筋道にて、夕がたよりとゞろく車の音、飛ちがふ燈火の光りたとへんに詞なし。行く車は午前一時までも絶えず、かへる車は三時よりひゞきはじめぬ。もの深き本郷の静かなる宿より移りて、こゝにはじめて寝ぬる夜の心地まだ生れ出でゝ覚えなかりき」(「塵之中」明26・7・20)。

門前を通る車の数を数えると、10分間で75輌になる。1時間では500輌となる。しかも蚊の多いところで、夕方から恐しく大きな薮蚊がぶんぶんと唸り声を立てる。この蚊がいなくなるのは、綿入れを着る時だと近所の人が言っていたが、何とも侘びしいことである。

下谷龍泉寺町:

幕末には22軒の茶屋が吉原に遊ぶ客達を迎えて妓楼に導いていた。廓の水道尻や非常門の出入りが明治維新後、酉の市の日だけに制限されると、茶屋は姿を消して、廓の中に仕事を持つ兼業者が多く住む商家の町に変わっていった。人口は増加の一途をたどり、明治20年代には維新直後の4倍に近い約2千人が界隈に住んでいた

一葉一家の移転先は、新吉原遊廓の西側、揚屋門(非常門)に突き当たる大音寺通りに面するところ。上野方面から吉原に通うには、この通りから揚屋門の手前でお歯黒溝に添うように北へ曲がり、日本堤へ出てから見返り柳を目印に大門へ入るという道順をとる。日頃は大門からの出入りしか許されないのが廓の決まりでした。

大音寺通り(現・茶屋町通り)周辺には10軒長屋、20軒長屋、30軒長屋が建ち並び、生活の極めて貧しい人々が暮らしていた。

一葉宅前の2間(3.6m)幅の狭い道路を、廓通いの客を乗せた人力車が駆け抜け、夕方になると廓内の仕事に出かける「廓者」や廓相手の商売や内職をする者は相変わらず多かった。

お歯黒溝や田圃も近く、夕方には薮蚊がうなり出ること、隣と共同の井戸が深く、汲みあげるのが大変なことなど、憂鬱の種はきりがないが、それらはいずれは馴れるにちがいないと、一葉は楽観の思いを書く。


「唯かく落はふれ行ての未に、うかぶ瀬なくして朽も終らば、つひのよに斯の君(桃水)に面を合はする時もなく、忘られて忘られはてゝ、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし。昨日まですみける家は、かの人のあしをとどめたる事もあり、まれにはまれまれには、何事ぞの序に家居のさまなりとも思ひ出でて、我といふものありけりとだにしのばれなば、生けるよの甲斐ならましを、行ゑもしれずかげを消して、かくあやしき塵の中にまじはりぬる後、よし何事のよすがありておもひ出られぬとも、夫は哀れふぴんなどの情にはあらで、終に此よを清く送り難く、にごりににごりぬる浅ましの身とおもひ落され、更にかへりみらるべきにあらず。かくおもひにおもへば、むねつとふさがりていとどねぶりがたく、暁の鳥はやう聞えぬ。・・・」(同)と嘆く。

桃水に知らせず引越しをし、桃水の住まいから遠く離れ、会えなくなるばかりか、「終に此よを清く送り難く、にごりににごりぬる浅ましの身」と軽蔑されることが、一葉には何よりつらいことである。


つづく

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