2024年4月7日日曜日

大杉栄とその時代年表(93) 1893(明治26)年10月1日~31日 漱石(26)東京高等師範学校(英語嘱託) 一葉、店は邦子にまかせ連日図書館に通う 一葉日記「塵中日記 今是集」 平田禿木が一葉を再び来訪、『文学界』との関係が復活  「二六新報」発刊(社主秋山定輔)     

 

二六新報 創刊号(明治26年10月26日)

大杉栄とその時代年表(92) 1893(明治26)年8月12日~9月28日 8月下旬~9月上旬、一葉、頭痛で寝込む日がしばしばある 漱石、東京専門学校講師 一葉、商売は軌道に乗り、売り上げは順調だが、利益は厳しい より続く

1893(明治26)年

10月

北村透谷「漫馬」

10月

漱石(26)、東京高等師範学校の英語嘱託となる。初出講は10月19日。週2回。手当は年額450円。


「第一高等学校と高等師範学校から殆んど同時に就職口があり、両方にいい加減な返事をする。第一高等学校の古参の教授(不詳)に呼ばれ、叱責されたので、両方とも断ってしまおうかと思っていたが、第一高等学校長久原躬弦と高等師範学校長嘉納治五郎の話し合いで、帝国大学学長外山正一の推薦を受け、高等師範学校英語嘱託になる。その後、国民奨学会(神田区錦町三丁目十九番地、現・千代田区神田錦町二、三丁目)にも出講する。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)

「・・・・・だが差し迫った問題は生活費である。彼は二年の時から東京専門学校(のちの早稲田大学)に出講し、三年時には大学から給費も貰っていたが、大学院では自分で生活費を稼がなければならなかった。

英文科を一年先に卒業した立花銑三郎が、勤務する学習院の職を持ち掛け、漱石も「此際断然決意の上学習院の方へ出講致し度」と希望したが、学習院は一足先にアメリカ留学生活の長い、文学博士の採用を決めていた。東京高等師範学校(高師)にも友人を通じて依頼したが当てにはせず、一方、金沢の第四高等中学は、友人で当時その教授だった狩野亨吉から是非にという誘いがあったが、遠方なので決心がつかなかった。ところが諦めていた高師から文科大学学長・外山正一に話があり、結局、高師に就職することとなった。年俸四百五十円、月額三十七円五十銭から七円五十銭を大学の貸費へ返納し、十円を父に送ったので、月に二十円の生活である。当時はかなりの就職難で、東京を離れずに済んだのは彼の英語力や人柄のゆえとはいえ、恵まれたと考えるべきだろう。

外山から勧められ、高師の校長・嘉納治五郎の話を聞くと、「教育の事業」とか「教育者」のありかたとか面倒なことを言うので、自分にはとても出来ませんと答えると、嘉納は逆にそれが気に入って、とにかくやってみてくれと依頼した。漱石は「私の性質として」断われなかった、と呑気なことを言っている(「時機が来てゐたんだ」)。この話はやがて『坊つちゃん』に取り入れられるが、後の松山中学同様に、漱石は高師とはあまり相性がよくなかったのではなかろうか。義務には真面目で細密な彼は、最初の就職で頑張りすぎたのかもしれない。」(岩波新書『夏目漱石』)


「幸に語学の方は怪しいにせよ、何(どう)うか斯うか御茶を濁して行かれるから、其日々々はまあ無事に済んでゐましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚なら一そ思ひ切りが好かつたかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでゐるやうで堪(た)まらないのです。しかも一方では自分の職業としてゐる教師といふものに少しの興味も有ち得ないのです。教育者であるといふ素因の私に欠乏してゐる事は始めから知ってゐましたが、たゞ教場で英語を教へる事が既に面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移らう飛び移らうとのみ思つてゐたのですが、さて其本領といふのがあるやうで、無いやうで、何処を向いても、思ひ切つてやつと飛び移れないのです。

「私は此世に生れた以上何かしなければならん、と云つて何をして好いか少しも見当が付かない。私は丁度霧の中に閉ぢ込められた孤独の人間のやうに立ち竦んでしまつたのです。さうして何処からか一筋の日光が射して来ないか知らんといふ希望よりも、此方から探照燈を用ひてたつた一条(ひとすじ)で好いから先迄明らかに見たいといふ気がしました。所が不幸にして何方(どつち)の方角を眺めてもぼんやりしてゐるのです。ぼうつとしてゐるのです。恰も嚢の中に詰められて出る事の出来ない人のやうな気持がするのです。私は私の手にたゞ一本の錐さへあれば何処か一ヶ所突き破つて見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、生憎其錐は人から与へられる事もなく、叉自分で発見する訳にも行かず、たゞ腰の底では此先自分はどうなるだらうと思つて、人知れず陰鬱な日を送つたのであります(『私の個人主義』)

10月

三宅雪嶺(33)、鎌倉雪ノ下91に政教社を移し、10月10日号として「日本人」(第2次)を復刊。12月18日号(第5号)より再び東京神田に戻る。

10月

北村透谷「双蝶のわかれ」(「国民之友」)

10月

宮崎湖処子「ヲルズヲルス」(「民友社」)

10月

山県有朋、「軍備意見書」。「今より十年ののちシベリア鉄道全通」すると、ロシアが本格的に東洋に進出し対露戦争は必至。戦略拠点である朝鮮を事前に確保するために、早い機会に対清戦争を起こすことが必要。

10月1日

「対外硬」を中心とした右派と左派の連合戦線「大日本協会」、発足。

「大阪朝日」の高橋健三と「日本」陸羯南の理論的指導。吏党だった旧大成会指導者安部井磐根と、国民協会を率いる熊本国権党の佐々友房、自由党左派で東洋自由党の大井憲太郎らが「外国人内地雑居講究会」を改組した組織。

10月1日

マックス・ウェーバー、フライブルク大学経済学教授に推されるが、10月1日付でベルリン大学商法・ドイツ法の員外教授となる。 

10月2日

~8日、一葉、店は邦子にまかせ、連日図書館に通う。

10月3日

ラオス、フランス保護領となる

10月9日

一葉、家の奥の間にこもって読書。

この日より「塵中日記 今是集」始まる。~11月14日。署名「なつ」。日記には甲集、乙集の二種類があり、多少の異同がある。乙集は甲集の改訂版と見られる。

「今是集」とは、商売を始めた7月の頭に「につ記」に記した見通しが甘いことを噛みしめ、現在日記をつけるのもままならないほど苦しい日々で、それでも今日の自分に「是」と映るところを記そうという意味。このところ頭痛がひどかったが、小康状態なのか、商売に慣れてきたのか、執筆の余裕もでてきた。


「十月九日 晴れ。此二日より晴雨とも日々図書館にかよひて暮しけるが、今日はえゆかで、奥なる座敷に籠りて書をよむ。店は昨日、一昨日の頃より、売高いと多く成りて、国子のいそがしき事、起居ひまなし。さるは近き処にもとより有ける家の、我家にうりまけて店をとぢけるが二軒あるよしに聞けば、夫れが為なるにや。さしもきそひ心などの有るにもあらず、おのづからにまかせて商ふものから、店をあづかる国子に、運といふもののあればなるべし。我は何事も打まかせて、さるべき処々へかひ出しといふ事に行く外は勘定も工夫もしらず、唯二間なる家の奥にこもりて書をよみ文をつくる。店は二厘三厘の客むらがり寄て、こゝへもかしこへもと呼はる声蝉の鳴たつにもたとへつべし。障子一重なる我部屋は、和漢の聖賢文墨の士来りあつまって仙境をなす。塵中に清風を生じ清風おのづから塵中に通ず。わが浮草之舎も又一奇ぞかし」 (「塵中日記」今是集[甲種]明26・10・9)


10月10日

一葉、神田へ買い出し。一昨日買ってきた半箱の風船が売り切れたので、もう一箱買う。

10月11日

一葉、この日は一日中机に向かう。

10月12日

一葉、風船の買い出しに神田の多町に。

10月13日

結城哀草果、山形に誕生。

10月13日

一葉日記。第五国会の召集令。召集は11月25日。

10月13日

ロシア艦隊、仏トゥーロン港訪問

10月17日

「大阪朝日」の事実上の主筆高橋健三、長編論説「内地雑居論」20篇(明26年10月17日~11月1日)。神戸地区外人の生態ルポ「神戸雑居地の光景」5回が中核。

社内同人の協力を得て、外人による土地の不法所得脱税の横行、旅行規定の無視、居留地警察の無力、領事裁判の不法、密淫街の醜状までルポ。在留外国人が治外法権で保護されながら、現行の不平等条約さえ踏みにじって横暴を行なっている現実を実証。外人の内地雑居に反対する為の論証。

10月18日

仏、作曲家グノー(75)、没。

10月18日

西村釧之助の縁談整う。

「十八日、雨やうやくやむ。午後西村母君来訪。釧之助に縁談ととのひぬるよし。」

10月19日

朝鮮、米の輸出を1ヶ月間禁止

10月25日

一葉宅に平田禿木が再び来訪、『文学界』との関係が復活。

小説執筆を再開し、「たけくらべ」が徐々に作品の形になり始めたのはこの頃からで、『塵中日記今是集』の巻末に書かれた、三五郎たちが筆屋で歌い騒ぐ「仁和賀」の歌の覚書がそれを物語っている。一葉は塵の中をうごめく生活を通じて世間を知るとともに、悲恋をテーマに主人公の孤独な内面ばかりを描いた従来の傾向から脱して、人間が世間の底辺であえぐ姿や、子供が大人へと成長していく過程で目にする人間性の活き活きとした現実などに目を注ぐようになった


「二十五日 晴れ。午前神田にかひ出しをなす。午後、平田禿木子来訪。来月の文学界にかならず寄書なすべきよしを約す。七月以来はじめて文海の客にあふ。いとうれし。旅宿(*下宿)は日ぐらしのさとの花見寺の隣家にて、妙隆寺とかいへるよし。此夜田辺査官(*巡査)来訪。貧民救助之事につきてはなしあり。縁談のこと申来る。」 (同[乙種]明26・10・25)


禿木の11月2日付の一葉宛て手紙。


「この春はじめて御目にかゝり候折とはいたく変り給ふて、いつもいつもをかしき事を言ひ捨てうち笑ひ給ふのみなれど、人知れぬ夜半の床には、むかしよりも愁(つ)らき涙に御袂をぬらし給ふ事ともおもはれ候のみ」


明るく開放的な一葉の表情が窺われる。


「女史はいそいそと自分を迎へ、源氏を語り、近松、西鶴を談じ、十年の知己の如く打ち解けて、万丈の気焔を上げるので、自分はこの時始めて真の一葉女史を見たやうな気がした。」(禿木「一葉の思ひ出」『東京朝日新聞』昭和14・4・23)


禿木は、初対面の時の一葉の「低い声で言葉も絶え絶えに、いとつゝましやかに応待される」様子との違いに驚くが、一葉の変化の内側に、人知れぬ涙の日々のあることをも読みとる。

10月26日

「二六新報」発刊。社主秋山定輔。落合直文の紹介で与謝野鉄幹(20、この頃より鉄幹の雅号を用いる)が記者となり、社員鈴木天眼・安達九郎(本名:本間九助)等の大陸経営に志を寄せる国粋的志士と知り、影響を受ける。

10月26日

カナダ、全国女性評議会が創設

10月27日

グスタフ・マーラー、「〈巨人〉交響曲様式の音詩」初演。

10月28日

チャイコフスキー交響曲第6番「悲創」、サンクト・ペテルブルクで初演

1031日

一葉、『文学界』第5号~10号を受け取る。


つづく


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