2024年4月24日水曜日

大杉栄とその時代年表(110) 1894(明治27)年6月21日~30日 清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否 陸奥、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ 日本軍混成旅団主力、仁川から京城へ移動 加藤増雄書記官が京城に到着し「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を大鳥公使に伝える    

 

李鴻章(1896年)

大杉栄とその時代年表(109) 1894(明治27)年6月12日~20日 全州和議成り日清共同撤兵交渉開始(ほぼ妥結) 全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置 大本営は追加派兵決定 閣議、大本営決定を追認(甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与強行を決定) 「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と大鳥宛電報 子規『当世媛鏡』 明治東京大地震 より続く

1894(明治27)年

6月21日

清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否。

22日、陸奥は、待ち構えたように、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ。

陸奥外相は、「政治的必要の外、何等の意味なきもの」(「蹇蹇録」)である朝鮮内政改革を日清共同して行うことを清国に提唱。案の定、「内政不干渉」として清国に拒絶されると、撤兵しないための口実の為、大鳥公使に、①京城~釜山間の電線の譲与、②日本人所属の商品に対する不法課税の廃止、③防穀令の全廃、を朝鮮政府に要求するよう指令。

6月21日

陸奥外相、清国が韓国に兵力増派するという天津の神尾武官の情報により、日本単独で朝鮮改革進める旨上奏。天皇は、上奏後、徳大寺実則侍従長に対して、清国軍増派は信じ難く、確実かどうか陸奥に質問するよう命じる。

6月21日

米、プルマン・スト開始。プルマン(鉄道の寝台車)会社の労働者決起。ユージン・デブス指導。全米鉄道労組も参加。シカゴを中心に24州にまたがる大闘争。

6月22日

御前会議、再度の神尾少佐の誤報に基づき、日清提携断念・朝鮮内政単独改革決議。この決定に基づき政府は行動開始。

①陸奥外相、清国公使汪鳳藻に「第1次絶交書」呈出(清が日本の提議に応じない限り撤兵しない)。

②23日、大本営、延期していた第5師団の追加2大隊の派遣を命令(牙山の清国軍を粉砕しうる混成旅団の完成)。

③この日、大鳥公使に閣議決定を伝えるため、「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を与え加藤増雄書記官を派遣(大鳥はハラを決め、陸奥らの意向に沿い、強硬な態度で朝鮮政府に対するようになる)。

陸奥外相の計算:①開戦の口実は列強が承認できるものでなければならず、それには、将来の民乱を予防する「保証」としての内政改革が適当。②列強の干渉により開戦不可能となっても、内政改革を通じて朝鮮を市場として解放し、日本に利権をもたらす「改革」で国内世論をなだめえる。

23日、山県は「清国卜談判将ニ破裂セントスルニ当り、左ノ順序二着手スべシ」、まず大本営を宮中に移し、時機をみて下関から釜山に前進させる、と建議。天皇を擁し大本営が首都から遠く離れるならば、統帥部が天皇を独占し、統帥に対する国務の容喙を遮断することができると計算した。

6月22日

この日付け『東朝』「●東学党鎮定の説に就て」

東学はまだ鎮定していない,という「或朝鮮事情に通ぜし人の話」を第1面に掲載。農事が繁忙になったので一時休戦しただけで,農事が終わればまた「起て干戈を執るに至るや必定」であり,たんなる休戦を「全く鎮定した」とするのは「韓廷が日本撤兵の請求口実を作」るためのもので,信じてはいけない,というもの。内容から見ると,商人などの民間人というより役人や軍人が語った説のように思える。疑心暗鬼は,日本軍撤兵の口実作りではないか,という朝鮮政府への不信としても現れている。

6月22日

西アフリカ、ダホメー王国、フランスに降伏。フランス領となる。

6月23日

高等学校令公布。従来の高等中学校を改組して、第一(東京)から第七(鹿児島)にいたる七つの官立高等学校を設置。

6月23日

露外相ギエール、露駐日公使に日本の朝鮮撤兵要請を指令。

6月23日

国際オリンピック委員会設立

6月24日

朝鮮、仁川の日本軍混成旅団主力(第11連隊及び特科隊)、京城へ移動。陸奥外相は、強行手段を主張する大鳥公使の上申を斥け、全軍の首都集中を背景に行政・財政・司法の改革を要求し、作戦上必要な釜山・京城間の電線修復を朝鮮政府が遷延するならば、日本軍が修復・管理する事を命じる。

〈この時までの日本軍の状況〉

・混成旅団の先発隊(一戸大隊、約1千)、6月12日、仁川入港。14日、公使館警備のためソウル入り。

・後続部隊は2回に分けて出発。第1次(旅団司令部、歩兵第11連隊、兵站部ほか)、6月14,15日、仁川到着。第2次(歩兵21連隊、兵站司令部など)、6月18日、仁川到着。24日まで船中で待機。

6月24日

園田警視総監、内相臨時代理芳川顕正に「全国同志新聞記者聨合禁止処分の議に付伺」提出。新聞同盟(反政府・反自由党)を政社として認定し禁止するよう具申。

6月24日

仏大統領カルノー、リオン市で暗殺。イタリア無政府主義者カゼリオ。

6月25日

清国軍機処、上諭を奉じ対日政策の不徹底を批判、李鴻章はロシアの調停に期待しているがロシアの術中に陥ると注意喚起。

この頃の清国:

徳宗皇帝(光緒帝)と重臣李鴻藻・翁同蘇中心に主戦論高まるが、皇帝大権は形式のみで、軍事・外交実権は西太后の意をうけた北洋大臣李鴻章が主宰。李鴻章は自国の戦備不足・日本の軍備充実をみて、列強の調停による戦争回避・現状維持を図る政策。皇帝派はこれを批判。

6月25日

朝鮮、京城駐在アメリカ公使ジョン・ヒル、英露仏外交代表と共に日清両国の同時撤兵を求める。

6月25日

駐清公使カシニ、日清紛争調停は東アジアでのロシアの権威を高めるため、対日干渉を強めるべきと本国に上申。

6月25日

駐日ロシア公使ヒトロヴォ、陸奥宗光外相に日本軍の撤兵、日清関係斡旋を申入れ。陸奥は、日本は朝鮮領土侵略の意図を持たず、朝鮮独立と平和維持に努力する、清国に対し積極的に戦をしかけることはないと「確言」。

陸奥は「確言」に縛られ、28日、開戦スケジュールをひとまず凍結(同27)。

6月26日

朝鮮、大鳥公使、高宗に謁見、朝鮮内政改革の必要性を説き、日本案を検討するよう述べる。高宗は日本軍撤兵を求めるのみ。

6月27日

加藤書記官、京城に到着。「・・・開戦は避くべからず、・・・いかなる手段にても執り、開戦の口実を作るべし」の口頭訓示。

6月28日

朝鮮、日本軍第21連隊、仁川上陸完了。混成旅団は完成。

6月28日

朝鮮、大鳥公使、外相命令の内政改革は外交に有利でも開戦口実には効果的でないと報告。

30日、露英の干渉を考慮し、日本主導での開戦を避ける意向の返電。

6月30日

駐清公使カシニの意見を容れたギールス外相の指令に基づき、露公使ヒトロヴォ、日本に朝鮮撤兵勧告。7月2日、拒否。但し、警告以上の行動には至らず。13日、ロシア、日本政府の回答に満足と表明。

6月30日

ロンドン、タワーブリッジ完成。

つづく

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