2024年4月2日火曜日

大杉栄とその時代年表(88) 1893(明治26)年7月19日 漱石の友人小屋保治が大塚楠緒子と見合い 子規の東北旅行(1) 各地の有力な俳諧宗匠を訪ねて俳話を楽しむという目的は期待外れ 

 

大塚楠緒子

大杉栄とその時代年表(87) 1893(明治26)年7月12日~20日 漱石、日光旅行 一葉、下谷龍泉寺町に転居 「我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」(一葉日記) より続く

1893(明治26)年

7月19日

漱石、この日以前(不確かな推定)、本郷区台町の柴山方の下宿から帝国大学寄宿舎に移る。~明治26年9月か10月


「七月下旬及び八月(夏期休暇中)、帝国大学寄宿舎で十数人とともに暮す。文学士の就職に関し、前途に不安を覚える。漱石は、米山保三郎や斎藤阿具の部屋で、幣原垣ともよく話す。隣室に一級下の藤井乙男・浜口雄幸・大原貞馬・溝淵進馬らがいた。後の三人は土佐の出身で、議論に熱中する。小屋(大塚)保治とは同室になったり、向い合せにいたりする。よく話し合う。散歩にも出る。軽妙な警句や犀利な観察を洩らす。寄宿舎にいる時、級友に勧められて弓道を少しやる。その他の運動はしない。」(荒正人、前掲書)

7月19日

小屋保治が清水彦五郎の紹介で大塚楠緒子と見合いをすべく、静岡県興津(おきつ)の清見寺へ出発する。保治は楠緒子母娘と会い、たちまち楠緒子の魅力に捕らえられてしまった。


このころ、帝大書記官兼舎監清水彦五郎は高知県出身の宮城控訴院長(現・仙台高等裁判所長官)大塚正男の一人娘楠緒子(くすおこ)(筆名。別称楠緒)の婿の候補を依頼されていた。楠緒子は、当時帝国大学寄宿舎に入っていた漱石より8歳、小屋保治(美学専攻大学院生)より10歳年下の文学少女で、佐々木信綱の竹柏園に入り、『婦女雑誌』などに短歌を発表、絵を橋本雅邦に学び、音楽にも優れ、容姿の美麗なること比類なく、当時のエリート帝大生注視の的となっていた才媛であった。大塚正男は法科学生の養子を希望したが、文学愛好の楠緒子は文科学生を望んだ。大塚家の相談を受けた清水舎監は、寄宿生の中で文科学生の保治と漱石の二秀才を選んだ。

漱石は斎藤阿具に宛てて、「小屋君は其後何等の報知も無之同氏宿所は静岡県駿洲興津清見寺と申す寺院に御座候」(明治26年7月26日付)と書き送っている。

後年、漱石は森田草平宛の手紙の中で、この頃の思い出を語っている。


「夏休みに金がなくつて大学の寄宿に籠城した事がある。そして同室のものの置き去りにして行った蚤を一身に引き受けたのには閉口した。その時今の大塚君が新しい革鞄(カバン)を買つて帰つて来て明日から興津へ行くんだと吹聴に及ばれたのは羨やましかつた。やがて先生は旅行先さで美人に惚れられたという話を聞いたらなおうらやましかった。」 (明治39年1月9日付)

7月19日

~8月20日 子規、東北旅行。子規の短い生涯で最も長い旅となる。俳諧宗匠を歴訪する。旅の記録は「はて知らずの記」(『日本』連載7月23日~9月10日)。

河東碧梧桐著『子規を語る』「果て知らずの記の旅」によれば、この年6月に、子規は瘧病にかかり、

「こういう時にどこかへ静養に」という旅行癖のため「時間と金の有無は第二弾のこととして、ここに持っている生存欲を赤裸々にさらけ出すことが、子規にとって正当な権利でもあり、また心から愉快な衝動であった」

「新聞社の方でも旅費を補給することになって、いよいよ堂々と旅行に出たのは七月十九日の朝であった。子規の選んだ旅行の方法は、各地方に散在している比較的有力な宗匠を訪問して、一つは俳句上の風交を求め、他は斯道の閑談に耽って、旅行のつれづれを慰めようというのであった。山水風雨を伴侶としての旅行以外に、多少の人間味を加えようとしたのが、今までの旅行と全く趣きを異にしていた点であった」

と書いている。

旅の目的は、①松尾芭蕉の『奥の細道』のあとを辿ること、②各地の有力な俳諧の宗匠を訪ねて俳話を楽しむことにあった。そのため、子規は草鞋に脚絆、菅笠といういつもの格好をとらず、「おろし立てのジカばきの駒下駄に、裾を引きずった袴(河東碧梧桐著『子規を語る』)」という人から見られても恥ずかしくない格好で、「紳士旅行」と称している。

しかし、俳諧の宗匠との俳話は、失望ばかりだった。

上野から汽車で宇都宮に着き、

「かねて紹介状をもらっていた宇都宮の某宗匠を尋ねた。もしこの夜屋を震撼するような大雷雨が、鬱積した塵気を一掃するのでなかったら、子規はおそらくその宗匠の対坐には堪えなかったであろう。人間味にも芸術味にも、何ら触れることのない、その癖座作進退に四角張った礼儀を守っていなければならない、空虚な対応は、子規の期待をうら切った」(『子規を語る』)。


 20日、汽車で宇都宮を発ち、白河駅で降りると、小峰城祉を訪れ、「感忠銘」の前で休憩しました。そして、白河に戻り、宗匠の中島某を訪ねる。

『はてしらずの記』には「この人、風流にして、関の紅葉を取りて、扇などにすかしたり」とあり、要するに格好ばかりの宗匠だった。

 21日、天満宮に参拝してから白河を出て、須賀川に道山壮山という宗匠を訪ねた。

「若輩に見えた子規はさらに歯(よわ)いせられなかった。当時東京で有名な宗匠といえば、(夜雪庵)金羅、(三森)幹雄、(穂積)永機などであったが、幹雄門にでも入って、もっと勉強するといい」(『子規を語る』)

とまでいわれる。

各地の俳諧宗匠歴訪は失望に終わった。

出発後3日目の7月21日、子規が郡山から碧梧桐に宛てた手紙(『評伝正岡子規』による)。


「小生、この度の旅行は地方俳諧師の門を尋ねて旅路のうさをはらす覚悟にて、東京宗匠の紹介を受け、すでに今日までに二人おとづれ候えども、実以て恐れ入ったる次第にて、何とも申様なく、前途茫茫最早宗匠訪問をやめんかとも存候程に御座候、俳諧の話しても到底聞き分けることもできぬ故、つまり何の話もなく、ありふれた新聞咄。どこにても同じことらしく候、その癖、小生の年若きを見て大に軽蔑し、ある人は是非みき雄門にはいれと申候故、少々不平に存候処、他の奴は頭から取りあわぬ様子も相見え申候、まだこの後どんなやつにあうかもしれずと恐怖之至に候、この熱いのに御行儀に坐りて、頭ばかり下げていなければならぬというも面白からぬことに候、せめてはこれらの人々に、内藤翁の熱心の百分一をわけてやり度候、半紳士半行脚の覚悟故、気楽なれども、面白きことは第一、名句は一句とてもできぬに困り候、小生は今日において左の一語を明言致し申候、名句は菅笠を被り草鮭を着けて世に生るるものなり。先は大略悪旅店の腹立ちまぎれにしるす」


「東北に旅立った時、満二十五歳の彼は、・・・・・。「宗匠皆無の時代なり」と言いながらも、素直な子規は、どこか、年長者から教えを乞おうという気持ちがあった。しかし三日目にして、その期待は破れ、彼らと対決しようと決意する。その気持ちが俳句革新の原動力となって行く。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

しかし、22日、郡山から北へ一里余にある浅香沼を訪ね、郡山から汽車で本宮に行く。子規は、芭蕉の足跡を辿れば、必ず名所に出合うとの感想を持っており、南杉田の遠藤菓翁との会話は意外にも楽しいものに終わり、菓翁宅に泊まっている。『はてしらずの記』には「氏は剛毅にして粗糲(それい)に失せず、樸(=朴)訥にして識見あり。我れ十室の邑にかく人を得たり」と書いている。

これ以後、『はてしらずの記』から宗匠訪問の企画は姿を消してしまう。


つづく


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