2024年5月5日日曜日

大杉栄とその時代年表(121) 1894(明治27)年10月1日~5日 虚子・碧梧桐、仙台第二高等中学校を退学して上京 古川釜山兵站司令官インタビュー(「日本」) 西園寺公望(44)文相 第2次甲午農民戦争(全州・光州の農民軍、全羅道参礼に集結・蜂起)      

甲午農民戦争

大杉栄とその時代年表(120) 1894(明治27)年9月16日~30日 黄海海戦(清国北洋艦隊の戦闘力・航海力壊滅 日本は朝鮮近海・清国海面の制海権掌握) 旅順攻略を主務とする第2軍(大山巌陸軍大将)編成 清国は防禦陣を九連城に絞る 全琫準、第2次農民戦争決意 より続く 

1894(明治27)年

10月

国木田独歩「愛弟通信」(国民新聞)

10月

北村透谷、島崎藤村編「透谷集」(文学界雑誌社)

10月

森鴎外(32)、「衛生療病志」廃刊(第57号)

10月

高浜虚子と碧梧桐が仙台第二高等中学校を退学してともに上京。碧梧桐は子規宅に、虚子は新海非風と同居する。子規の指導の下で、二人は俳句創作を始める。

10月

露、アレクサンドル3世、没。

10月初旬

〈10月初旬の日本のメディアに見える東学党情報〉

10月1日『日本』(号外)は,平壌戦の詳報を報じるとともに東学情報(「東学党敗走の詳報(三十日午後二時四十分広島特発)」)を掲載。第6師団の工兵25名が,「セキモン(聞慶の東五里)」で「東学党凡そ六百人」と交戦し,東学の死者2名,負傷者多数と,「分捕火縄銃六十三,槍十一,旗四,馬三,韓銭三十貫」を獲得した。大邱付近でも「不穏の兆」があり,一帯は不安に包まれているというもの。

『東朝』10月2日は,『日本』10月1日号外と全く同じ情報を掲載したが,表題を「偽東学党の敗走」とし,同じ情報の前文として加えた文章の中に「過日報告したる東学党なるものハ一種の盗賊にして良民を害し地方官吏を殺し金穀を奪ひ電線を絶つ等暴行至らざる処なく,傍ら日本人民を敵視する者なる」と,「盗賊」「日本人民を敵視」なる者たちで,「偽東学党」であると加えている。

『東朝』10月7日にも「東学党の素性に就て」が掲載されたが、それにも「忠清道又ハ慶尚道辺に於て不穏の挙動を為し居る東学党ハ全く一種の盗賊に過ぎざる」であり,「外人排斥主義を執るもの」であった。「一説として」の表現で伝聞形式をとってはいるが,最後には「矢張り一種の草賊」と判断している。

『日本』10月5日は、「東学党余聞」を掲載しているが、これは、ある日本人(氏名不詳) が漢城から全州に赴き,「東学党の首領を以て世に聞へたる金鳳均」を全州布政局後房で「三時間余の筆談」を行ったとして,それを記録したものという。「本月二日龍山を発し広州,利州,を経て九日全州に着し」と前文にあり,文中に「九月二十一日」とあるので,9月初旬のことだと思われる。

この記録では、金鳳均の人となりを「顔中一種の異采あり」「智見は広からさるも韓人には珍らしき博識者なり,(中略) 頗る胆識あり,又事を苟くもせさるの風あり」「一個外冷中熱の好男子」と捉えている。その主張は,全州蜂起は「遂に君側の奸を除くの名義を以て兵を起せしなり」と閔族の排除のみを目的していたが,「日本高義を以て屡〃我政府に勧告し終に其余力を挙けて我国の為めに尽瘁せらるゝありて既に閔家を擯け大院君を起し弊事を革めて政法を正さんとす,我等の素望多くは達す」などと日本の侵攻を積極的に評価するものとなっており,『日本』編集部の意図は,東学必ずしも敵にあらず,という情報を広めたいのだと考えられる

この時期『日本』がしばしば掲載していた「偽東学党」についても,この記録は金鳳均に次のように語らせている。「東徒再起は偽りなり,彼の州県を横行するものは我同志の名を盗むものにして我等の関知する処にあらず云々」。またこの筆者自身の「二伸」でも「途上偽東徒の噂は耳に入り候へ共実際目撃せしことは一回もなし,全羅監司の施政其当を得は兵力を仮らすして消滅すべきこと勿論なり」と書いている。

この新聞記事は,「戦史編纂準備書類東学党暴民」に「東学党余聞」として含まれているものと全く同じ文章である。そこでも筆者の名は「姓名」としか書かれていない。また文章全体の最後に次のようにある。

右奉供御一覧候也

明治廿七年九月廿三日陸軍砲兵少佐渡邊鐵太郎

渡邊鐵太郎は,在漢城公使館付武官で,開戦前から情報収集にあたっていた。参謀本部が日清戦争前に漢城・天津・上海・漢口・浦塩・北京天津間に合計8名の「参謀本部諜報者」(佐官2名,尉官6名) を置いていた一人だった。彼が情報収集の過程で,誰か日本人から入手した手紙だと思われる。(諜報武官渡邊鐵太郎が,東学情報で日本メディアを翻弄させていたことになる。その可能性も捨てきれないが,今は材料がない。)


『日本』10月8日付は「馬関特報(四日午後四時)」として「特派員鯤々生」による古川釜山兵站司令官へのインタビューを掲載した。

○聞慶界隈の東徒;

聞慶界隈は東学党と称するもの幾多群を為して出没し,民家を侵して糧食を掠め良民を害するなどさても不穏の有様なるが,此等の暴徒は全く真正なる東学党にはあらずして,純然たる事大党の奴隷根性を蝉服すること能はさる頑民其他もろもろの無頼漢より成立せる群醜なるを以て,其所為は全く一簇の強盗に異ならさるものあり,この頃大佐は此仮称的東学党の檄文なるものを得て之を見るに,流石は事大党の事とて其文中歴々日本を攻撃し清国崇拝の喃語を並べ,中華は数百年間朝鮮国の恩国なり,今之に向て弓を彎く如きは正に是れ祖先を汚辱するものなり,然るに我朝廷は現今倭人の蠱惑する所となり,迷夢を撹破するは切歯扼腕に堪へず,などゝ言ひ居り其頑冥に憫然に堪へざるものなりき。

○東学党員の名称;

東学党は首領数人ありて之を統督す。而して此首領を道主と称し其部長たるもの之を接長と唱へ一般の党員をば之を道人とは称するなり。

○聞慶の東徒首魁;

聞慶辺に出没する仮称的東徒の首魁は徐相轍といひ,韓廷に事へて相当の官職をも帯ひたるもの,即ち深く閔賊に結托して不義の栄華に国民を蠱毒せしものなれば其目的も全く閔賊政治の再生を希ひ再び疇昔の栄華を夢んとの願望に外ならざるものゝ如し,左れば彼の純然たる東徒の把持する主義とは氷炭柄鑿も啻ならずとぞ聞ゆ。

○真正東徒の集会;

純正なる東学党の人々は如何なる意思にや。九月二十七日の事なりき。檄文を発して大に党員を南原に招集せしが之に会するもの数千人の多きに及び何か頻りに議する所ありて無事散会せしが,其集会の目的は果して如何なりしか,当時の檄文を得るにあらざれば知るによしなし

○東徒の首魁二人を生擒す;

本日取敢へず打電報道せし如く我軍隊は蔚山に於て東徒の首魁二人を生擒せしなるが,其氏名等は未だ明瞭せざるもコハ東徒にありては所謂接長の位地を占むるものなるべしと。

○頑民我銃丸を侮る;

先頃来対封又は大邱なといへる所にて東学党と称するもの時に我不意を撃て糧食等を掠奪せんとするとき我兵止むなく之を防禦応戦せざるべらさる(ママ)場合に迫るも,此の如き前後不覚の頑民輩を打殺するの憫然さに大抵は空丸を発つて之を威嚇せしに,彼等は之を見てさては倭兵の銃術に拙さよ一も命中せしものとてはなきものと笑ひあふて我銃砲を侮蔑するに至れりしこそ是非なかりしと,頑民の馭術も亦難いかな。

古川釜山兵站司令官は,檄文を始めとする一定の情報を得つつ,東学農民運動に対処している。その司令官が,「純正なる東学党」「真正東徒」と「頑民」「群醜」を区別していることは,この後の東学殲滅作戦の遂行とも関連し,注意すべき点である。

10月1日

森鴎外(32)、陸軍第二軍兵鈷軍医部長となり、6日から広島に執務。

10月1日

高野房太郎(25)、米海軍の兵員募集用軍艦ヴァーモント号から実際に乗務するマチアス号乗り組みに変更。

10月1日

マックス・ウェーバー、フライブルク大学教授として赴任、経済学講義担当(講義12時間、ゼミ2時間)。 

10月3日

西園寺公望(44)、第2次伊藤博文内閣の文相として初入閣。井上毅が結核を悪化させて辞任した為。

牧野伸顕(大久保利通の次男)が前任井上毅文相時代からの文部次官。後に内大臣となり、元老西園寺と共に宮中を支える。

10月5日

第2次甲午農民戦争

全琫準・孫和中、全州・光州の農民軍を全羅道参礼に集結・蜂起。11万5千。忠清道東学組織も呼応・合流。

全羅道中心の南方派は武装再蜂起を主張、蜂起不利を主張の忠清道の北方派を押える。全琫準(南方派)は蜂起、北方派一部も呼応し忠清南道首都公州に向う。孫和中部隊は南方海上からの日本軍上陸に備え羅州に駐屯、金開南部隊は全州に駐屯し後方を警備、全琫準部隊4千含む計1万が南方より公州攻撃。北方派は東方から迫る。

10月5日

10月5日付けの斎藤阿具の日記


同年十月五日、長谷川氏卜菅方ニ同居セル夏目氏ヲ訪フ、(前月から菅君の家に寓せられたか、其後転ぜられたか、僕には今不明である)


10月9日 漱石、突然、菅の家を出る。10月15日まで足取り不明。旅行か?

10月5日

イギリス、清国での革命運動に対し在留欧州人保護の共同行動呼掛ける各国宛通牒。

6日、独仏伊露米5ヶ国に連合して講和勧告(共同干渉)を提議。

8日、駐日公使トレンチ、日本政府に講和条件(①列国による朝鮮独立の保証、②清国の日本への戦費賠償)打診。

23日、拒否回答。


つづく

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