2024年5月11日土曜日

大杉栄とその時代年表(127) 1894(明治27)年11月13日~21日 閣議、アメリカの調停提案を受ける決定 大院君、政界引退声明 井上馨公使「東学党は全滅を期す」 東学党公州第1次攻撃(午金峠の激戦)、退却 旅順占領、根拠地構築  

 


「我軍大勝利旅順口占領」


1894(明治27)年

11月13日

大山第2軍司令官、旅順口攻撃計画纏める。21日攻撃。混成旅団・左縦隊が北・東北から、第1師団が水師営の東南へ、連合艦隊が掩護。

16日、訓令。17日午前7時、左翼縦隊が蘇家屯を出発。

11月13日

森鴎外(32)、大連に出征。24日、勲六等に叙任、瑞宝章。

11月14日

東路を進む後備第19大隊第1中隊は,14日に昆池岩(コンヂアム)を出て,利川(イチョン、ソウルの東南約60km)に入る。


「十四日,午前七時三十分,出発。行路凡弐里の所に小村落あり。この所通過せんとするとき,小児韓人走り来り,我隊に書翰を呈す。開展するに,その村に東党の組人あるを探り,報告の書面なり。依て急行,その家宅に到り,壱名を捕縛し,姓名金基龍(キムキヨン),尋問するに父は東党の接主にして,過日全羅方面に赴き,各魁と集合せりと答ふ。午後三時,利川兵站部に至る。すなわち捕慮(ママ)誘道,この所の獄に投す。午後七時三十分,右の金基龍,我歩哨に抵抗せしを以て,獄屋より出し,銃殺す。この日,行程三里,我隊利川に着するや,ここを去る壱里半の所に東党あるを報し来り。依て,第二小隊楠野少尉,選抜隊長にて随行し,右の村落に至り,探索厳にしその邑民を捕え,諊問し,東党多く有りしも,過日全羅道え集合なせしを答ふ。或は又,拾余戸の人家を取巻き,家ごと探索す,奔る者あれば,これを銃殺す。このとき村民等驚き各所に陰伏す,これ又婦人等拾三名,一同奔り来るを其所に手真似を以て,留置き,後に村首に渡す,日没して後,利川に帰宿す。」(陣中日誌)


*この村落は,「東党多く有り」(東学農民軍が優勢な村)で、多くいた東学農民たちは,銃殺された金基龍,その父親と同じように,抗日蜂起を宣言(起包という)し,蜂起の準備中だった全琫準らの南接全羅道農民軍へ,集落ぐるみで「集合」,遠征していた。この利川の農民たちは,公州戦争に参戦したと思われる

11月14日

閣議、アメリカの調停提案を受ける決定。清国総理衙門もアメリカ公使デンビイに和平交渉開始を依頼、朝鮮の独立・戦費賠償を基本条件とする旨伝える。

日本は、開戦時の名分を捨て、中国分割・朝鮮支配を前面に押し出すと、国民心理も侵略主義に向かい、国民は「喊声凱歌の場裡に乱酔したる如く、将来の欲望日々増長し・・・唯足れ進戦せよと云ふ声の外は何人の耳にもはいらず」という状況になる。

この頃、アメリカが調停を提起、陸奥は、「国民敵愾心の旺盛なるに乗じ、一日も早く一歩も遠く日清の戦局を進行せしめ、一分も余計に国民の希望を満足せしめ置きたる上、更に外来の事情を酌量し、将来国家の安危に対し外交上一転の策を講ずるの他なしと思料」するが、各国駐在公使からの報告は、これ以上の戦争継続には列強は反対であると伝えてくる。

11月15日

午後4時、連合艦隊、威海衛にむけて大連湾を出発。16日、威海衛で清国艦隊を港外に誘い出そうとするが、清国艦隊11隻は劉公島の陰に隠れる。旅順攻撃が迫っているため、大連に戻る。

11月17日

東学農民軍討伐隊第1中隊,忠清道「同幕邑(トンマグプ)」を襲撃して東学農民軍と戦う。


「同十七日,可興の北方三里去る所に東党あるを探り,同日午前三時出発し,暗夜に乗し,川を渡り,同幕邑に向ふ。時に寒風強く,身を貫撤(ママ)し,六時同幕邑に至る。小敵に出会し,放火を始め,少時にして撃退し,村家を焚き打ちにす。敵死者拾有八名,分捕品は,弓,鎗,刀,火薬,米穀,木棉類にして,午後三時十五分,この村に接首, 李敬原(イギョンウォン)居れり,すなわち銃殺す。この日,初めての戦争にして,仁川上陸以来,敵応の手初,各兵士,勇に進んで,可興に帰る。往復六里,道路甚た悪く,車輌は通ぜさる小路なり,可興北方の川は,漢江の上流なり。」(陣中日誌)


*「同幕」はハングルの同音異字(トンマク) で,「東幕」が正しい。

*東幕里は,可興(日本軍兵站部) から直線距離で北へ5キロ弱。

11月17日

この日、中路を進む第3中隊水原小隊(水原熊三中尉)は,朝鮮政府軍兵(教導中隊の1小隊)とともに,北接東学農民軍の本部があった忠清道の報恩へ派遣される。報恩は,大隊本部第3中隊の進軍路になる文義から東へ約20 キロ離れている。24日,水原小隊は,文義滞陣3日目の大隊本部第3中隊へ戻る。水原小隊は,北接の本拠地である報恩方面において1週間の討伐をした。

11月17日

『日本』11月17日「東徒防圧の為め更らに派兵す」、

「井上公使ハ更らに京城守備隊より一隊を派遣し,東路に在る東徒討伐隊に増加する事に決し」,先に派遣した「三路を分守せる各隊」に合流させ,18 日までに忠州に赴くと報じる。

11月18日

漢城~公州の中間要衝の木川・細城山で金福用の農民軍壊滅。

11月18日

大院君、政界引退声明。4ヶ月の権力。9月16日平壌陥落時、清国軍逃亡のあと、大院君・国王夫妻の密書が発見される。第1軍司令官山県はこれを井上公使に送り、井上はこれをもとに金弘集らを責める。

11月18日

井上馨公使インタビュー記事「東学党は全滅を期す」(『日本』11月18日)

井上伯は渡韓以前より東学党の処置に就ては一定の意見あり。右は同党の或は鎮静し或は蜂起し大に朝鮮の治安を乱り,併せて我兵を労する所以のものは全く東学党が日本兵の強きを□知せず,心に軽蔑を生じて,斯る盲動に出づるものなれば,寧ろ斯る輩は十分に威力を示し,懲戒厳重なるべしとの説にて,渡韓後の政策として夙に大臣とも協議したり。

而して其京城に入るや大院君に面会し,第一に朝鮮の病根たる東学党の処置を断じ強硬意見を開示せしに,大院君もやゝ躊躇せしも伯の議論に屈し,鎮圧の事は一切委任する旨を申出でたるよし。左れば伯は全羅,忠清,慶尚の三道に出没する同党剿戮に着手し今後一旬余にして其効を奏せん手筈の趣きなれば今回こそは全く滅亡に至るべしといふ。

11月19日

午前7時、日本の捜索騎兵、前衛を第2中隊として営城子を出発。10時頃、本隊が山澗堡に着。10時40分頃、土城子南方の清軍5~600。秋山少佐苦戦。11時30分迄に歩兵第3連隊第3中隊、丸井少佐の歩兵2中隊が来援。正午、清軍の砲撃開始。午後1時30分、双台溝西南高地まで退却。

戦闘参加:清側は歩兵5千・騎兵100・山砲2門、日本側は歩兵600・騎兵200で戦死11・負傷37。

11月18日

幸徳秋水、「いろは庵」の筆名で小説(処女作)「おこそ頭巾」(「自由新聞」)連載。10回。

11月19日

〈甲午農民戦争の終焉(概要)〉

忠清南道の論山に集結した農民軍2万は、11月19日から22日にかけて公州を総攻撃。いったんは退却し、12月4日からの第2次攻撃。ここで農民軍は、日本軍・朝鮮政府軍を最後の防衛線・牛金峙にまで追いつめる。しかし、農民軍は多数の死傷者を出し、論山へ後退せざるを得なくなる。追走する日本軍・政府軍は論山で農民軍を撃破、全羅道に敗走した全琫準は、本拠地の院坪、泰仁で最後の反撃に出るが、これも失敗。

農民軍を解散した全琫準は、少数の部下と南下しつつ再起をはかるが、12月28日、全羅北道淳昌郡にひそんでいたところを逮捕され、翌1895年4月23日に処刑される。

日本軍・政府軍は1895年1月まで掃討作戦をくりひろげ、ここに農民戦争は終わりを告げる。

11月19日

全琫準の農民軍、南方から公州前哨基地利仁への第1次攻撃。午金峠の激戦。農民軍、政府軍・日本軍の近代兵器・集中攻撃・包囲作戦により全羅道泰仁まで退却。軍勢は1/10に減る。

11月20日

井上馨公使、朝鮮国王に謁見、各大臣同席、内政改革要領20ヶ条に同意を要求。21日にも。

11月20日

第1師団歩兵第2連隊第1大隊、午前7時に干大山を占領。第2大隊は大王庄付近に進む。西少将の部隊は火石稜北方高地に進む。師団本隊は泥河子の西南に集合。山地師団長は干大山に進む。/混成第12旅団歩兵第24連隊第3大隊は、午前6時土城子・火石稜間の山頸から東北溝の北方鞍部の間を占領。第2大隊は第3大隊の左翼、第1大隊は第2大隊の左翼を占領。大山第2軍司令官は火石稜西北方高地に進み、旅順口攻撃の訓令。

午後0時30分、清軍約4千が水師営に出現。半分が水師営北端と東北高地に向い、他の半分は干大山に向う。干大山は歩兵第2連隊(伊瀬知大佐)第2大隊(湯地少佐)が守備。清軍別働隊1千も干大山に向う。伊瀬知大佐は第1大隊を第2大隊の背後に進め、自ら干大山に進む。午後2時30分頃、第1師団本隊が泥河子から石咀子に向う。この時、清軍の干大山攻撃が始まる。日本軍は応戦。4時50分、清軍退却。この日の戦い:負傷2名。

11月20日

高野房太郎(25)乗船マチアス号、ニューヨーク出航。スペインを始めスエズ経由香港(M28/3/6)に至る。

11月21日

午前1時15分、歩兵第2旅団長西少将、第1師団の一部を率い石咀子付近を出発。午前2時、第1師団長山地中将、師団予備隊率い洪家溝西南を出発、西少将の後に続く。6時50分、案子山砲台が野戦砲兵第1連隊の砲撃に応え、目標の案子山西南の低砲台を確認でき、西少将は野戦砲兵第3大隊に砲撃を、歩兵第3連隊(木村中佐)には攻撃を命じる。第1大隊(丸井少佐)は低砲台の死角になる地点まで進出し、第1・2中隊が仰ぐ形で砲台を攻撃。更に第3大隊第9・10・11中隊、第2大隊題7・8中隊も第一線に展開。清軍1千は激しく応戦。午前7時25分、第1・2・3大隊が敵前100~500mに接近。7時、総員突撃。7時35分、占領。

午前9時30分、混成第12旅団(長谷川旅団長)歩兵第24連隊(吉田中佐)第2大隊、二竜山砲台攻撃に前進。9時45分、第3・1大隊も前進。9時50分、第2大隊が八里庄南端に着き攻撃開始。10時10分頃、第3大隊が八里庄西北800mに着き攻撃開始。10時20分、第1大隊が八里庄と竜眼の南端に着く。この頃、野戦砲兵第1連隊第3大隊は松樹山を砲撃。火薬庫に命中し、大爆発。守兵は二竜山に退却。11時30分、突撃、占領。

歩兵第2連隊第3大隊(渡辺大隊長)、清軍追撃のため案子山低砲台を出発。午前9時15分、同大隊第9中隊は毅字軍左営の兵営と東側高地を占領。10時45分、第1大隊が刺兎溝付近に進出。この時、松樹山砲台火薬庫爆発。清軍戦線は動揺。第3大隊第9・12中隊は松樹山砲台(守兵は逃亡)、第6・7中隊は武庫、第10・12中隊は毅字軍左営付近に進出。左翼部隊は団山子から東雞冠山砲台を攻略、更に、小坡山・大坡山砲台、蟠桃山・北山砲台を占領。

【旅順占領】

午後4時50分、第1師団歩兵第2連隊第1大隊、黄金山・東人字墻・摸珠礁砲台と方家屯兵営を占領。旅順口の背面防禦線と東海岸諸砲台の占領完了。日没のため西海岸諸砲台攻撃は明日とする(夜のうちに逃亡)。

この日の戦闘で日本軍戦死40・負傷241・不明7。24日午後3時、旅順口内の水雷除去し攻略完了。

旅順市街地に入ってきた日本軍は4日間で’住民2万余名’を虐殺した。

連合艦隊の協力。21日午前1時、本隊・第2・4遊撃隊・浪速・秋津洲、大連を出発。旅順の海岸砲台牽制のため砲台前面を動き回る。

24日、ここに根拠地構築始める


つづく

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